1.公爵令嬢1
艶やかな黒髪の隙間から、光の加減よっては金色に見える琥珀色の瞳がまっすぐにこちらを見つめる。それは、とろりと蕩けるような熱をはらんでいた。
取った手の指先、触れるか触れないかの位置に唇を寄せる。
「あなたのためならば、公爵家を継いでみせましょう、マイディア」
銀色の波打つ長い髪、うす紫色の瞳をしたリディア・フェアクロフは公爵令嬢だ。
髪の色は父譲りで、瞳の色は母譲りである。
「可愛いリディア。君の瞳は本当にセシリアと瓜ふたつだ。これほど愛しい存在がふたりもいるなんて。君たちのおかげで、わたしはこの上なく幸いだ」
銀髪に青い瞳の父ジェイラス・フェアクロフ公爵は冷たくも鋭い雰囲気のうつくしさの持ち主だ。そんなジェイラスはリディアと母セシリアに視線を向けるときには硬質さが緩む。
叔母上がこっそり教えてくれたところ、父は若いころ、「氷の公爵子息」と呼ばれていたそうだ。髪と瞳の色と硬質な雰囲気からだろうが、その氷はセシリアやリディアを前にすれば溶けてしまう。
セシリアは公爵夫人として多忙であるのに、リディアとの時間を持つようにしてくれている。高位貴族は子女の養育を自分たちの手でしない。けれど、母はなるべく行うようにしているのだ。
「わたくしは変わり者令嬢でしたのよ」
そんなふうに言って笑って見せるときは、ふだんの落ち着いた様子とは変わって、少しばかり茶目っ気がある。
「変わり者など、そんなことあるはずはない。君は素晴らしい女性だよ、セシリア」
「ありがとうございます」
微笑むセシリアを、ジェイラスは実に嬉し気に抱き寄せる。
公爵家の館には多くの使用人が働いており、リディアはなに不自由なく暮らしていた。
兄弟はいないけれど、ひとつ年下の従姉妹がいる。父の妹、叔母上であるアレクシア・エヴァレット公爵夫人の子供だ。
昔はよく互いの館を行き来して遊んだけれど、最近になって、比べられるのが嫌なこともある。先だってのお茶会で親戚の夫人たちが話しているのを聞いてしまったのだ。
「まあまあ、フェリシア嬢のお作法の素晴らしさといったら、見事なものですこと!」
「本当ですわ。リディア嬢は少々見劣りしてしまいますわね。いえ、彼女もそこそこでしたけれど、」
「せっかく、可愛らしい姿をしていますのにねえ」
なんていうふうに言っていたのだ。
リディアは悔しくてたまらなかった。父に言えば、冷たい視線を向けるだけで黙らせてくれただろう。そうしなかったのは、自分でも少しばかりお作法を苦手としている自覚があったからだ。それを、父にわざわざ教えることになる。母はもう少し頑張りましょうね、と言っていたから、お作法の練習時間を増やされてしまうかもしれない。それは面倒だ。
それに、滅多に会わない親類たちからなにを言われようとも構わない。なんといっても、リディアは公爵令嬢なのであり、高位貴族の娘なのだ。王太子や第二王子、王女とも交流があるくらいだ。
だから、陰であれこれ言っても、直接リディアにはにこやかな表情しか向けない。
リディアは愛されるだけ愛される日々を送っていた。
十一歳のときに母からひとつ年下の少年がやってくるという話を聞いた。
「フェアクロフ公爵家の遠縁の者です。ご両親を亡くされた方で、当家で一時預かることになりました」
家門の間で相互に助け合うのが常だ。不慮の事故でふた親を亡くすということはままある。その際、いくら使用人がいるとはいえ、幼い子供だけが残される事態は好ましい状況ではない。
そういった事情を理解したのではないリディアは年の近い者が来るのだ、と好奇心を持って会うのを楽しみにしていた。
浮かれた気分に水を差す使用人の噂を耳にした。
そのときは、お作法の練習の合間の休憩時間で、なんとなく外の空気を吸いたくなって、館を出た。木陰を踏みながら進むために跳躍を繰り返していたとき、少しばかり高くなった声を耳が拾い上げたのだ。
「あら、やだぁ」
笑い声混じりになにか言い合っている。なんだろうと思って深く考えることなくそちらへ足を向けた。
「でも、そんなふうに仲が良くていらっしゃるのに、」
声が小さくなって聞き取りづらくなった。リディアは自然とさらに近寄っていく。
「ほら、お子さまがお嬢さまおひとりだから」
「公爵さまは何度も家門の方々から側室をと、言われていて」
「奥さまひと筋だから」
リディアは父が母をとても愛していることを知っている。だから、当然ではないかとちょっとばかり誇らしい気持ちになった。そして、父の愛は自分にも向けられている。リディアはそれを知っている。
「それで、公爵家を継ぐ者を」
「ではお嬢さまは?」
思わず、え、と声を上げそうになった。リディアがどうだというのだろうか。
「お嬢様はご結婚なさるから」
「じゃあ、この館を出られるのね」
この館を出る? 母や父と別れるのか? 自分が女だから? 公爵家の跡取りになれないから?
「あら、リディア、気分でも悪いのですか? あなた、真っ青な顔をしていてよ」
気が付けば、館の中に戻っていて母が心配そうにしている。
「熱はないわね。吐き気はある?」
母はまだ父と結婚していないころ、叔父に薬を作っていたのだという。だから、ご自分で「変わり者令嬢」だなどと言うのだ。リディアが知る叔父はとても壮健で、いつもにこやかで、病がちだったなどとはまったく信じられない。ただ、母が弟である叔父のために薬を作って、それに叔父が感謝することこの上ないというのは、なんだか、とても良いもののように思えた。まるで、物語の中のうつくしいできごとのようだ。
そんな母はリディアや父が体調を崩したときには薬を作ってくれたり、身体に良いお茶を煎じてくれたりした。そんな父は母に結婚前に、薬を作る器材をプレゼントした。ふつうの令嬢ではありえないことだと叔母上は言っていたが、母はそれを今も大事に使っている。そのエピソードもいいなあ、と思うのだ。
そんなふうに仲が良い両親のような結婚をしたいと思っていた。それが、使用人たちの話を聞いて、そうではないのかもしれないと思い始めるのだった。
翌日、母の実家であるカーライル侯爵家に連れられて来た。
リディアは侯爵家が大好きだ。なぜなら、叔父がとてもリディアを可愛がってくれるからだ。叔父ギルバートは母と同じ金茶色の髪に、薄いブルーグリーンの瞳をしている。とても穏やかで、瞳の色のように温かい人柄だ。すごく物知りで、宰相補佐をしているという。
母が祖父母と話をしている間、リディアは叔父に連れられて、とある部屋に入る。
「カーライル侯爵家には代々伝わる魔導書があるんだ」
「魔導書!」
ぱっと勢いよく振り仰ぐリディアの仕草は、子供らしくはあったが、貴族の子女らしからぬ動作だった。けれど、リディアを見下ろすギルバートはやさしい表情をしている。
「だから、これは秘密だよ」
「お父さまにも? お母さまはご存知ですの?」
「もちろん、お父さまにも内密にね。でも、お母さまはご承知だよ」
リディアは胸が高鳴るのを感じた。侯爵家よりも高位貴族である父にもないしょのものなのだ。そして、母は知っているのだという。
しかも、叔父が語るところによると、気まぐれに予言が記されるのだと言われている。ときには、問いかければ答えが返ってくることさえあると称されている。
「そうして、その魔導書は侯爵家を守ってきたと言われている」
しかも、当主でない者がその魔導書を開けば、わざわいが降りかかると、まことしやかな言い伝えがある魔導書なのだそうだ。
叔父はその魔導書を見せてくれるという。
なぜかは分からない。
しかし、リディアとしても、ちょうど良かった。
その魔導書の力を今、フェアクロフ公爵令嬢リディアは必要としているのだから。