第六話『 舞い狂う 』
『魔獣詩歌断片集』曰く、
大陸中央の守護四大国「西のシャルセイル」は、大陸西部に近く、まれに領土の西域に狼の魔獣やゴブリンがあらわれた。
昔、一人の騎士が、シャルセイルの王都から西領のクシャルフを訪ねた。クシャルフは、良馬の産地として名高い高原であった。
最も大きな牧場は領主の直下 ── 将軍や騎士団の馬を育てることから軍事拠点に等しい場所であった。大小の館と厩舎群、見張り塔や武器庫、本格的な鍛冶場までならび、広い敷地を高い石壁がぐるりと囲う。
騎士は所用を終えると、名高い牧場のいずれ劣らぬ駿馬を熱心に見、職員と話込んだ。馬好きなのだ。
馬の話で盛り上がるうちに天気は崩れる気配をみせ、責任者の強い勧めで牧場で一泊することにした。
…… 深夜。騎士は宿舎の寝台で不意に目を覚ました。なにかおかしい ── 風音のせいか?
………ちがう、音が足りない。
すぐ近くの厩舎の馬の嘶きが聞こえない⁉︎
足早に部屋を出ると、その厩舎の扉は開け放たれたまま。灯りの消えた戸口には、倒れた人の影。
騎士を追うようにランプやたいまつを手にした牧場のものが集まるが、警戒厳重な施設の真っ只中の死体に息を呑む。そんな馬鹿なと凍りつく。
かまわず厩舎の奥へ入ると、闇の濃い宙空。そこにひらひらうかび、やわらかなものが舞い狂っていた。
── うすいテーブルクロスか、半透明の敷布のようなそれ。
風も無しに宙を舞うのは、死に凝った馬の屍の上。
不意に一頭が竿立ちになった。
悲鳴のいななきは、べったりと、べつの布のような何かに巻きつかれてくぐもって聞こえた。
騎士は、追ってきた家人からランプをひったくると、死に物狂いの馬に── いや、首から上にかぶさる不定形へ叩きつけた。
ガラス片と油と火… 割れたランプから飛び散るものが燃え、うす布のような何かは、もがく馬から火のついた己が身をめくれ上がらせた。
── 救い出せたのはその馬、ただ一頭。
宙を舞い、暗がりで躍る、やわらかな布のような何か。
厩舎の人間が二人、若馬は九頭、施設群の真っ只中で声も出せず殺されていた。怪物を逃がして被害が広がることをおそれ、騎士たちが脱出すると、その厩舎は火がかけられた。
…… だが、後に、見張りのひとりは言った。
焼け落ちる厩舎から、空高く、何かよくわからないものが舞い上がって消えた、と。
深い夜闇、ひろがる黒煙と大きく高く上がった炎…… そこに見え隠れした不定形のもの? ── 仔細ははっきりしない。見間違いかも知れなかった。
助け出された馬は、後日騎士のものになった。
騎士は怪事をいつまでも忘れず、ときが経ち、事情があって大陸西部に移り住むと、学者から存在を知らされていた『フライングスライム』の発生地を愛馬とともに訪ねた。
それは野外のスライムの亜種──
やわらかいからだを薄く広げ、地上の獲物へと滑空し、頭から覆い被さる。からだの中の酸欠ガスの気泡を弾けさせれば、押しつつんだ獲物は窒息死した。
しかし騎士は、シャルセイルでみた『舞い狂う』怪物と、フライングスライムを見比べて ‘ちがう’ と感じた。
風もなく宙を舞い、あやしくうごき、わずかの時間で人も馬も密殺した。危うさは毒蛇と長虫ほどもちがう。
魔獣の研究者に問うたが、魔獣にはじめて出会った畏怖と混乱、思い込みであろう、と、あしらわれた。
騎士はひとりで事件の仔細をまとめた ── あれは怖ろしいものだった。勢いにまかせて、生き残った馬を無我夢中で助け出したが、もしも戦うことを選んでいたらどうなっただろう。
どこで生まれたのか。
魔獣深森の奥地、あるいはもっと別の危険な場所か。
シャルセイルの公式記録には、どうしたわけか、スライムの事件は記されなかった。これは、スピルードル王国のある名家に残された手記の中にある、まぼろしの事件である。
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なお、騎士と愛馬は、フライングスライムの森を訪ねただけでなく、大陸西部を広く旅し、『盾の三国』成立以前の各地に幾つもの逸話を残した。
火傷を頬に残した戦馬はつねに主の騎士のそばに有り、『バーンドフェイス』の異名で知られた。そして、シャルセイルのクシャルフの産の戦馬こそ最優、と、かの高原の声望をも大いに高めた。
騎士と火傷の馬の旅の物語、それはまた別の断片である。
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