小六編 第77話 教室を紹介
莉紗に教室を紹介すると言った手前、隣県の教室の事情を俺なりに調べた。入る可能性がある三つの教室の内、一つは俺の知り合いがやっている所だ。知り合いというか白井先生の教室に通っていた人で、俺より六歳程年上のお姉さんだった。俺は小六で若先生の出稽古先の教室に移ってしまったのだが、小五までは一緒の教室だった。その人は結婚して嫁いだ先が隣県で、十数年程前からそこで書道教室をやっているのだ。白鳳の師範交流会や書道展等で年に一、二回は会う事がある。途中、俺が書道から離れていた事もあったが幼少期に同じ教室に通っていた事もあり、不本意ながらこの人もいまだに俺の事を「優くん」と呼ぶ。ちょっと他の二つの教室についても探りを入れてみるか。同じ県内なら俺よりかは情報を持っているだろう。
「トゥルルル……トゥルルル……」
「はい、芝田です。優くん? 久しぶりね。」
「あぁ……その……優くんは勘弁して下さい。」
一応いつもの抵抗をしてみる。
「あら、ごめんなさい。えっと……白石君?」
「白石です。」
これもいつものお約束だ。
「そうそう、白石だったわね。それでどうしたの、優くん。」
結局、優くんかい。ま、いいけどね。
「里子先生、実はですね、うちの生徒が一人、親の仕事の都合でそちらの県へ引っ越すことになりまして、引っ越し先の住所が先生の教室に割と近い所なもんですから、先生の教室を含めたいくつかの教室を紹介しようとしてるんですよ。で、先生の所は何となく分かるんですが、他の教室の状態というか指導の仕方とかその辺の情報をですね、教えてもらおうかと。」
芝田里子先生、俺より六歳上の姉弟子だ。子供の頃は「里ちゃん」って呼んでたが、さすがにちゃん付けは失礼だろう。
「あらあら、それは残念ね。でも書道を続けられるのは不幸中の幸いだわ。でもうちの教室以外って近くにあったかしら。」
「そちらの市にもう一つあったでしょう。私はそこの先生と面識ないんですけど、えーと確か文化塾って名前だったかな。引っ越し先の住所的には先生の所より寧ろ近いんですが。」
「あぁ、あそこね。でもあそこは地元の新聞社が経営してる所でどちらかと言うとカルチャースクールみたいなものよ。指導者も師範、先生というより雇われの講師ね。日によって担当も変わるみたいだし。白鳳の検定制度を使ってるから一応、白鳳書道会のメンバーになってるけど。」
「そういう事ですか。だとするとちょっとうちの生徒には合わないですね。」
「因みにその子は何年生?」
「今、小一で四月から二年生です。」
「ますます文化塾は厳しいわね。高校生位ならまだしも、どちらかと言うと社会人と言うか主婦向けの教室みたいだから。」
「あと隣の市にもあるみたいなんですけど……光英教室?ってとこらしいですけど。」
「あぁ、あるわね。あそこはちゃんとした教室ね。先生もなかなかよ。でも厳しいらしいわよ。白井先生の教室に通った私達から見ると、あそこの生徒は自由にのびのびやれてないって思うかもね。」
「という事はそこの先生は白井先生の教室出身じゃ無いって事ですか?」
「高校生位まで他所の書道会の教室に通ってたらしいわ。そこの書道会の上層部が派閥争いかなんかで分裂しちゃってね。そういう権力争いとかそういうのを見るのが嫌になって辞めたらしいの。その後、白井先生に師事して師範の資格を貰って教室を開いたらしいわ。白井先生って普通は他所にいた子を受け入れる事はしないんだけど、事情が事情だっただけに特例で弟子入りを認めたんでしょうね。」
「成程、そうなるとそちらも厳しいですかね。ものは試しで体験入塾させてもいいんですが。」
「一応、私から口を効いてあげる事は可能よ。」
「今聞いた情報を伝えて、希望するならお願いする事にします。何となくですけど先生の所に決まりそうだとは思いますけど。光英教室は隣の市で離れてるし。」
「そうなったら喜んで受け入れるわよ。それでその子は今、何級位なの?」
「二月の検定で二級天になりましたね。」
「小一で二級? 早くない?」
「三才から検定受けてる子なんですよ。小一の課題を三年半受けてましたからね。その貯金があるんです。」
「ちょっと待って。その子知ってるかも。白鳳で小一の一番上に名前が載ってる子でしょ。えーと、河田莉紗? この子なの?」
「そうです。うちの秘蔵っ子です。」
「よくやったわ! 優くん。この子は何としてもうちが貰うわ。」
「あげませんよ。三年経ったらうちに戻って来るんですから。」
「そうなの?」
「親に聞いたところでは一応、三年の任期らしいです。」
「ざーんねん。まぁ三年でもうちの生徒だからその間はうちの戦力だわね。」
「戦力って……一体何と戦ってるんですか。」
こうして里子先生との会話を終えた俺は、早速この情報を伝えるべく美紗さんに電話した。そういや哲夫氏の電話番号は聞いてないや。伝える内容としては、三つあった候補の一つは実質カルチャースクールで小学生向きではない事。隣の市の教室は先生が厳しいらしく、うちの教室みたいな感じでは無さそうだという事。俺と面識がある先生は同じ教室出身なので多分、莉紗には一番合ってると思うという事。カルチャースクール以外の二つは体験入塾も可能みたいだという事。これらの情報や各教室がやってる曜日を伝え、体験入塾の希望があれば連絡して下さいと伝えた。
四月になって美紗さんから連絡があり、とりあえず里子先生の教室に体験入塾したいとの事だったので、その旨を里子先生に伝えると嬉々として受け入れてくれた。これはもう何としてもうちに入れちゃるという気迫が、バスマホ越しにバシバシと伝わってきた。後から聞いたところでは、莉紗は里子先生の教室の体験だけで入塾を決め、光英教室は体験入塾すらしなかったとの事だった。まぁ、里子先生の教室なら俺とつながりもあるし、馴染み易かったんだろう。
莉紗はその教室でもかわいがられていた。何しろ天使だからな。特に里子先生の娘の秀子ちゃんは莉紗が大そうお気に入りでかわいがってくれた様だ。秀子ちゃんは当時高校生で、里子先生の跡を継いで師範になるつもりだという。莉紗も師範になりたいって言ってたし、何かシンパシーの様なものを感じていたのかもしれない。尚、俺は彼女の事は小学生位から知っているのだがデコちゃんと呼んでいた。「ひでこ」から「ひ」を取って「でこ」ちゃんだ。決しておでこが広くてそこがチャームポイントになってるからという理由では無い。まぁ全く無いかと問われればその限りでは無いんだけどな。それと胸の辺りもかなり凸ってるしな。兎に角、秀子ちゃんは秀子ちゃんだ。それでいいだろ。
「よくないわよ!でこちゃんって呼ぶな!」
「何でだよ、秀子ちゃん。秀子ちゃんは秀子ちゃんだろ。」
「やめなさいよ。莉紗があんたの真似して最近、私の事でこちゃんって呼ぶんだから。」
「あっ、でこちゃんズルい。私の先生、とらないでよ。」
「とらないわよ。あと莉紗、でこちゃんって呼ばないで。」
「何で? でこちゃんはでこちゃんでしょ?」
「全く、師匠と同じような事を言うのね。あんたのせいよ!」
これは正月に行われたある書道展での会話である。秀子ちゃんや莉紗も出展していたので見に来ていたのだ。里子先生や俺は審査員の立場での出席だ。うちでは中学生以下は検定がメインでこういう書道展には出さないのだが、里子先生の所では小さい子でも出すみたいだな。まぁそのおかげで久しぶりに莉紗に会えた訳だが。
「秀子ちゃん、莉紗をかわいがってくれてるみたいだな。ありがとうな。」
「べ、別にあんたの為じゃ無いわよ。莉紗がいい子だからよ。」
「だよな。莉紗は天使だもんな。」
「あんたと意見が同じなのは癪だけど、そこだけは同意してあげるわ。」
「もぅ、先生、でこちゃんとばっかり。」
「莉紗は莉紗なのに何で私はでこちゃんなのよ。私は秀子って名前があるんだからちゃんと名前で呼びなさいよ。」
「秀子ちゃん?」
「ちゃん付け禁止。」
「じゃ、秀子」
「んんんーー!」
秀子は顔が真っ赤になった。何だよ、お前が呼べって言ったんだろ。
「やっぱ、名前呼び無しで!」
どうしろと…やっぱ秀子ちゃんは秀子ちゃんだな。