小六編 第75話 莉紗三才
それから莉紗は頻繁にうちに来る様になった。アパートからうちの教室までは50mも離れて無い距離だから、自分でトコトコ歩いてやって来るのである。平日は幼稚園があるのでそれが終わってから修道教室の時間位にやって来る。金曜日は書道教室なのだが、おかまいなしだ。土日は教室自体が開いてないが――土曜の夜は書道教室があるがさすがにこの時間には来ない――俺が畑仕事なんかをやってるのでその時間を狙った様にやって来る。多分、俺が不在の時も教室の前までは来てるんだろうなぁ。
莉紗は幼稚園の年少さんだ。今の幼稚園って年少、年中、年長って三年間もあるんだな。俺の時代は二年間だったが……もっと年齢が上の人に聞くと昔は一年しか無かったそうで、年々共働きの家庭が増えていったからだろうか。時代と共にそういう需要が増えていったのだろう。
さすがに毎日来られると、こちらの仕事や作業に影響が出る。塾生でもないのに教室に出入りされると他の子達にも示しがつかないしね。そこで莉紗の両親に相談したんだが、本人をうちの教室の塾生にしてもらえないかと提案された。迷惑になるから行っちゃいけませんって言うとギャン泣きするそうだ。入るのは修道教室だけでもいいんだけど、建前として書道教室に通って無いと修道教室には入れない。なので書道教室とセットだ。しかしながらまだ三歳の幼稚園児がうちの書道教室に入った例は無く、指導はどうしたもんかなと考えたが、どうせ形だけ書道教室に入っていればいいのだから、別に検定とか受けなくてもいいだろうという事で受け入れる事にした。
うちの教室に三歳の幼稚園児が入った事は無い。白鳳の他の教室でも俺が知っている限り年長以上、つまり五歳か六歳からだ。検定を受けるにしても幼稚園児用の課題という物は無いから小一と同じ課題で受ける事になる。でも幼稚園児じゃひらがなさえおぼつかないからなぁ。ましてや三歳だ。仕方ない、とりあえず自分の名前をひらがなで書ける様にしよう。ひらがなを覚えるにしても自分の名前なら馴染みがあるだろうから。
莉紗は書道セットを買って貰ってご満悦の様だ。しかし三歳児じゃ書道セットのカバンを持ち歩くのさえおぼつかないんじゃないか。文鎮、硯、墨液も結構重いからな。うち以外で使う事も無い筈だから教室に置いといてもいい事にするか。
「莉紗、とりあえず自分の名前が書ける様になろう。『りさ』ってどういう文字か分かるか?」
「みせてくれたらわかるかもしんないけどかけない……」
「よし、じゃぁ先生が手本を書いてあげよう。『りさ』はこう書く。」
「そうそれ、りさのなまえ。」
「これを真似して書いてごらん。」
「わかった。」
とりあえず筆を持たせて遊ばせておけばいいだろう。
「せんせー……」
「ん、どうした?」
「つくえがたかくて、てがたわない。」
「たわない」ってのは届かないって意味だ。「たわん」とか「たわない」って言われたら届かないと思えばいい。俺もこっちに来てから知ったんだがな。多分、足りないが転じてたわないになったんじゃないかと思う。
しかし机が高いか……三歳児だから体が小さいからな。
「机が高いなら膝立ちで書いてもいいぞ。それか座布団を何枚か重ねて座りなさい。」
「せんせーがひざにだっこしてくれたらたう。」
「たう」は届くって事ね。高さが足りるって意味と思えばいい。
「いつも先生が居る訳じゃ無いんだから座布団持って来なさい。」
「はーい。」
うーん、甘やかし過ぎかな。三歳児だから仕方が無いと言えばそうなんだが。とりあえず筆の持ち方、うったて、送り、とめなんかを一通り教え、後は自由に書かせる事にした。「りさ」だけだからな。上手く書けたら褒めてやる。一番いいのを家に持って帰ったら褒められるぞ。
「りさ」が書ける様になったら次は苗字の「かわだ」を教えよう。ひらがなとは言え、フルネームを書ける三歳児もそうはいないだろう。しかも毛筆で。その次は小一の検定課題を書かせて覚えさせようかな。小一の課題はひらがな二文字だから題材としては丁度どいい。こうして莉紗に少しずつひらがなを教えていった。三ヶ月も経つとひらがなは全て書ける様になった。濁音とか半濁音はまだの物もあるが、とりあえずプレーンな五十音は大丈夫な様だ。あと、名前だけでも漢字を覚えさせたいんだよなぁ。検定課題提出の際には左側に学年と名前を書くのだが、小一ならひらがなで書いても問題無い。逆に言えば漢字で書いていると目立つ。ひらがな二文字の課題の左側に「年少 河田莉紗」とか書いて出したらすごいだろうな。大人が書いたんじゃないかと疑われるレベルだ。
「莉紗、ちょっと名前を漢字で書いてみようか。」
「かんじってなに?」
そっからかーい!まぁ、そうだろうな。ひらがなすら習って無いんだから。
「莉紗の名前を漢字で書くとこうなるんだ。」
俺は半紙に「河田莉紗」と書く。
「みたことある。これ、わたしのなまえだったんだ。」
「これが書ける様になったらすごいぞ! 幼稚園の友達、多分まだ自分の名前を漢字で書ける子は居ないと思うぞ。」
「かけたらえらい? いいこ?」
「あぁ、偉い子、いい子だ。」
「がんばる。」
漢字はひらがなとはまた筆づかいが違ってくる。だが漢字に慣れてしまうと逆にひらがなが上手く書けなくなってしまうのだがな。ここで俺は初めてなぞり書きの手法を教えた。もちろん白抜き文字の作り方もな。莉紗は「ぬりえみたい」って言ってたけど塗っちゃだめだからな。あくまでなぞるだけで二度書きは駄目だぞ。
それと細筆の使い方も教えなきゃならん。名前は細筆で書くもんだからな。あっと、そうなると学年、莉紗の場合は「年少」になるな、それも書ける様にしないといけない訳か。まぁこれもおいおい教えていこう。ん、待てよ。幼稚園児の学年は年少とか年長でいいんだっけ。はっきり覚えていないんだが、名前の上に年齢を書いた書を見た事がある。莉紗の場合「三才」若しくは「三さい」だな。白鳳の本部に確認しておこう。
白井先生――霞碩先生だな――に確認した所、「どっちでもいいぞ」との回答だった。幼稚園は義務教育じゃ無いから行ってない子も居る可能性がある。そう言う場合を考慮し、年齢でもいいとの事だった。「年少」と「三才」、どっちがインパクトがあるかな。やはり「三才」の方だな。さすがに「みっちゅ」とか書いたら怒られるだろうな。
そして莉紗が通う様になって五か月目、八月になった。そろそろ検定を受けさせよう。幼稚園児、というか未就学児童は小一の課題を受ける事になる。検定課題は「あさ」、特に「さ」は「りさ」で散々練習した字だから丁度いいな。
「莉紗、今回はこれな、『あさ』だ。これで検定受けるぞ。」
「けんていってなに?」
「字がどれだけ上手いかを競争するんだ。十級から始まって一級まである。一級までいくとかなり上手いって言われるぞ。」
厳密には一級の次も特級やら段やらがあるのだがややこしくなるので割愛、今は級の数が少ない方が上手いってのが分かればいい。
八月は特進検定月だ。莉紗の字は小一と比べても遜色の無いレベルになっている。ここは八級天位から始めてみようか。さぁ、莉紗三才、その若さ(幼さ?)を持って白鳳に殴り込みだ。
一月後、莉紗は見事八級天を二階級特進で合格し、七級天に進むことになった。これが莉紗無双の始まりであった。




