小六編 第6話 はね
席に戻ると子供らがわらわらと集まってきて列を成す。彩音の方に行っている間に随分と溜まってしまった様だ。何人か捌いていると月子の番がやってきた。
「お願いします。」
「ほい、今回の課題はいいな。自分の名前の漢字が入ってる。」
「名前の字だからといって得意とは限らないんですけど。」
「書き慣れてる分、他の人より有利だろ。」
「それはまぁそうかもしれないけど。」
月下氷人――それが今月の小六の課題書だ。色んな筆づかいが各文字に散りばめられ、課題としてよく出るスタンダードなものだ。月下が縦長に細く氷人の右はらいと干渉しにくいので書き易いお題でもある。
「そもそも月下氷人って何なんですか?」
「小学生には少し難しいよな。仲人とか男女の仲を取り持つ人って意味だ。」
「えっ、そんな意味があるの?恋のキューピッド的な?」
「課題、というか言葉の意味を知った上で書くのは大事な事だ。それが文字から溢れ出て来る様な書が書ければ言うことないんだけどな。」
「キューピッドが溢れ出て来るとか何か怖いんですけど。」
「言っとくけど月下氷人は月下老人が元になってるからキューピッドじゃなくてお爺ちゃんだぞ。」
「そっちの方がもっと怖いよ!」
「お爺ちゃん出すんじゃなくて、何というかその…縁を取り持つ慈愛に満ちたオーラとかそういうものをだな……」
月下氷人は仲人とか媒酌人の意味で使われるが、これは古代中国の故事に由来する言葉である。と言いつつ中国では月下氷人という言葉遣いはない。元々月下老人という言葉と氷上人という言葉があり、どちらも縁結びとか男女の仲介人的な役割を持った者の事を表す言葉だったのだが、それが日本に渡ってから融合してしまい月下氷人になったらしい。
俺も小学生高学年の頃に課題書として月下氷人を書いた事があるがその頃はよく意味を理解していなかった。その意味を知ったのは中学の頃、あるアルバム――当然アナログLPレコード(直径30cm)だ――の中で、歌詞の月下氷人に「なこうど」というルビを振った歌を聴いた事があるからだ。月下氷人、ふーん、月下氷人って仲人って意味だったんだとその時に初めて知った。勿論、現代の解釈においては仲人だけでは無く縁を結ぶ者全般の事を意味するのだが。そのアルバムには交響楽や療養所など特殊な読み方をさせる歌詞があったが、今思えば少々中二病――当時そんな言葉は無かったが――に通ずるものがあったのかもしれん。当時まさに中学生だったこともあってこういう本来の読みとは異なる漢字を充てる手法がちょっとカッコいいと思ってたし。
「先生、モッチーは今月の検定、受けさせるの?」
「モッチー? あぁ持永さんか。彼女、モッチーって呼ばれてるの? ツッキー。」
「だからツッキーはやめてとあれほど……」
「睨むなよ。そうだなぁ、今週を含めてあと三週か。やってやれん事は無いが…課題も『月下氷人』だし基本を押さえてれば何とかなるかもしれん。」
腕試し的にとりあえず受けてみるのもいいか、本人が望めばだが。しかしそうなるとどの級で受けさせるかな。初回検定は何も十級地から始めなければならない訳では無く、どの級で始めるかは教室の判断に任されている。俺も小一で始めた時は九級位から受け始めた記憶がある。
俺は最新号の「白鳳」、つまり今月の課題書が載っている号だ。それを手に取り検定結果のページを探す。
「小六で一番下の級はと……七級天か、これより上では受けさせられんな。」
小学生低学年では十級や九級で検定を受ける者がいるが、小六だとすでに何年も検定を受け続け昇級・昇段しているので下位の級で受ける者は居なくなっている。七級天で受けている者は最近始めたんだろう。初検定が小六というのは珍しいので最初の級設定がなかなか難しい。
「来月号の検定結果で小六の一番下にくっつける形にするか。まぁ出来次第ではもっと下にする可能性もあるけど。」
月子と雑談を交えつつ指導を行い、その後二人程捌いて彩音の元に行く。R-500とは言ったが山有り山無しの書き分けが出来てるなら適当な所で切り上げさせよう。
「今は三十枚、150位か、ちょい見せてみ。」
むくれた顔で彩音が差し出してくる。おぉ、ちゃんと出来てる。
「よし、もういいぞ。次のステップに進もう。」
「えっ、いいんですか?やった!でもなんで書き分けが必要なんですか?」
「それはだな、『一』とか横画が単独である字は山有りがカッコいいけど、横画が多く入ってる字だと山ばっかりが上下に並んでごちゃごちゃして野暮ったくなるんだ。例えばそうだな、唯一の『唯』って字分かるか?」
「ゆいいつ、唯一、あぁ唯我独尊の『唯』ですね。」
「何故、唯我独尊を選んだし。」
「何か難しそうな字ばっかりでカッコいいじゃないですか。なんかエラそうだし。」
こやつめ、早めの中二病に罹患しかかっておるな。確かに唯我独尊は自分が一番偉いみたいな意味で使われたりするけど。本来は違うんだけどな。
「まぁいい、『唯』のつくり、右側の部分な、横画が四つもあるだろ。全部山有りだと野暮ったいし下手すりゃ山が有ることによって上下で重なっちゃう。」
そう言いながら「唯」の横画全てを山有りで書いてみる。しかもわざと山で重なる様に。
「こういう場合は全部山無しにするとか、一番上と一番下だけ山有りにするとスッキリする。ちょっとした技巧みたいなもんだ。本来ならここまでやるつもりは無かったんだがな。」
「書き分けの事です?」
「俺を巻き込んでR-18とか言うから、反省を促す為に罰ゲーム的な意味でな。」
「やっぱり理不尽。」
「さぁ次だ、次!」
「スルーされた。」
「横画のとめの次は横画の『はね』だ。例えばウかんむりの三画目、横画の最後をとめるんじゃなくてはねてるだろう。そこな。」
「とめた後、左下にはねればいいんじゃないんですか?ピンッて感じで」
「はねって言っても本当にはねるんじゃないぞ。とめてから左下に向かってずらしながら筆をスッと上げる、というか抜く感じだ。」
「とめの時に押し付けながら筆を動かすのと上げ下げが逆になった感じですかね。」
「まぁそうだ。やってみ。」
あれだけ「一」書いたんだ。筆に慣れただろうしはねもすぐに出来る様になるだろう。小六相手だと理屈を教えるだけで分かってくれるから楽でいいわ。月末までに月下氷人が書ける様にちょっとスピードアップするか。