小六編 第4話 ひらがなは難しい
教室の前部には俺が定位置としている机がある。ここで塾生達が持ってくる書に対して指導を行うのだ。どんな指導をしているのか……これを語るにはまずうちの教室のシステムについて説明した方がよいだろう。
当書道教室は「白鳳書道会」という団体に所属している。元々俺が幼少期から通っていた教室の先生が主宰となって立ち上げた――俺が生まれるよりずっと前の話ではあるが――ものだ。月一で会報誌「白鳳」を刊行しており、その中で毎月の昇級・昇段検定も実施している。会報誌に今月の課題書という形で手本となる書が掲載され、塾生は一か月かけてその課題を練習することになる。最も出来の良いものを月末週に提出、本部で審査して合格すれば昇級または昇段となる。これを毎月繰り返すことにより徐々に昇級・昇段していくわけだ。
課題は小学生は各学年ごとに設定、つまり六つ、中学生で一つ、高校以上(一般を含む)で一つ、合計八つだ。小学生は楷書、中学生は行書、高校生以上は草書が基本となっている。学年によって課題が異なるので、月初めには塾生ごとに一枚一枚、朱筆で気を付けるべき点を付記した手本を書いて渡す。会報誌に載っているのは1ページに四枚の課題を詰め込んでるので手本としては小さいしね。
会報誌には巻末に検定票が付いており、それに学年、名前、現状の級または段を記入し、書の左下に短冊の様に貼り付けて提出する。つまり会報誌(お値段一冊400円也)を買うと検定票が得られるので昇級・昇段検定が受けられるという寸法だ。いやらしい言い方をすれば「検定受けたきゃ会報誌買えよ、400円な。」という事なのだが、検定審査の運営上、致し方無いコストである。
級は十級から始まるのだが、白鳳書道会では各級をさらに天と地で分けて、十級地→十級天→九級地→九級天→……→一級地→一級天と昇級していく。ここまでくると次はいよいよ初段で段持ちになるのかと思いきや、なぜか特級というものになりその次が初段なのだ。そして初段→準二段→二段→準三段→三段→……となり、五段まで行く。さらに進むと特待生というものになるのだが、月謝や検定料(会報誌代)が安くなるとか無料になるとかの優遇は特にない。特待生という名前からもわかるようにこれは学生(高校生以下)のみに与えられる称号である。
小学校低学年から始めて卒業するまで続けていれば、ほとんどの子は段持ちにはなれる。ただ、初段以降の昇段検定はなかなか合格するのが難しく、小学生のうちに二、三段までいけばいい方だろう。俺の場合は小学生で五段までは昇段したが、特待生にはなれなかった。中学、高校で書道は何となく続ける形になってはいたが、書道会の教室には通わなくなっていたので特待生は取れずじまいだった。
検定の合否結果はやはり会報誌で知ることが出来る。検定に参加した全ての者の名前が記載され合格(昇級・昇段)者の名前の上に〇印が付記されるのである。不合格者は無印なので誰が合格で誰が不合格なのかすぐにわかってしまう。
昇級・昇段検定には半年に一回、特進検定というものが設けられている。普段は一階級ごとにしか昇級・昇段できないのだが、この特進月には二階級特進も可能となるのだ。八級天の者が八級地をすっ飛ばして七級天になれたりする。二階級特進が認められた者の名前の上には◎印が付記され、一階級昇級の合格者は通常の〇印である。例を挙げると次の様になる。
【八級天】
◎石川 令子 → 七級天へ昇級(二階級特進)
◎山口紳一郎 → 七級天へ昇級(二階級特進)
〇熊本 英樹 → 七級地へ昇級
〇秋田みゆき → 七級地へ昇級
………
〇福井 好美 → 七級地へ昇級
宮崎 智也 → 八級天のまま
千葉和香子 → 八級天のまま
十級から七級ほどのレベルでは通常は合格者が1/3から半分程度なのに特進月はほとんどの者が合格で二階級特進が数名出る。通常であれば合格に至らない者も特進月であれば進級出来ている。つまり合否判定基準が甘くなっているのだ。もっとも段レベルになると通常でも合格者がほとんどおらず、特進月でやっと僅かな人数が昇段出来る状態だ。結局のところ特進検定月は運営のお目こぼし月なのである。通常の検定票は白色(通称、白札)なのだが特進月はピンクのもの(通称、赤札)になり、特別感を醸し出している。通常400円の会報誌が赤札の月には600円に値上がりするのはお目こぼしの為のお布施……ゲフンゲフン、大人の事情というヤツだ。
今月末の検定に向けて塾生達が練習の成果を俺の席まで持ってくる。これに朱を入れながらより良い書になる様に指導を行うのだ。塾生達は朱で直された書を自分の席に持ち帰り、その部分を直してまた持ってくる。時間中これを繰り返し最終的に直す所が無くなって俺の許可が出ればその日は終了となって帰れるのである。もちろん塾生によって習熟度や上手い下手には個人差がある為、終了(帰宅)許可を出すのは書の出来というよりある程度決まった時間が経過したタイミングになってしまうのはお察しの通りだ。
「先生、お願いします。」
「勝陽か、今月のお題はどうだ?」
「ひらがなが混じると難しいです。今回初段に上がる検定なのについてないっス。」
玄田勝陽、小一から教室に通う現在五年生の男子だ。小一からと言っても姉や兄も通っていた事もあり小学校に上がる前から教室に出入りしていたので付き合いもそれなりに長い。
「あぁ、ひらがなはな。漢字と違って曲線だらけだからな。ひらがなだけの課題ならまだしも漢字と混じると直線的な漢字とのバランスが難しい。」
小五の課題は「青い山脈」か。小学生高学年の課題は四文字(二文字×二行)が基本だが時々ひらがなが混じったものが出される。
「『い』ならまだいいじゃないか。『の』とか『な』よりマシだろ。」
「あぁ『の』はダメですね。前々回の『月の写真』は散々でした。『の』って時々出ますけどなんであんなに難しいんですかね。」
「筆を下から上に送る部分があるからだろうな。漢字は基本的に上から下だし、曲線で下から上なんてまず無いからな。」
「なるほど、そういう事ですか。確かに慣れない筆づかいですね。」
「それと『脈』は画数多くてごちゃっとしてるから右隣くる『い』と対比されてよけいバランスが悪くなる。もう少し細く書いてみ。但しうったてとかはきちんと入れてな。『い』を少し小さ目にして『脈』の最後のはらいが右側にはみ出てもいいから。」
勝陽の青い山脈に「ここはこう」と言いながら朱を入れていく。それにしても勝陽も初段か。いや厳密にはまだ特級だけど今年中には昇段出来るだろう。まぁそこから先がなかなか進めなくなるんだが。
「そういや兄ちゃん姉ちゃん達は夏休みは帰省するのか?」
「どうですかね。バイトばっかりしてるみたいで帰ってこないかも。」
「三人とも大学生だったよな。」
「そうですよ。」
大学生三人とか、しかも全員私立大で一人暮らしとか、親は大変だな。せめて夏休みは帰って親孝行してやれよ。
「今年も合宿(という名のリクリエーション)やるから手伝いが欲しいんだ。出来れば男手が。朋照達の帰省関係でなんか分かったら教えてくれ。」
「りょーかいです。」
玄田家には四人の子供がいる。第一子(長女)明里、第二子(次女)明衣、第三子(長男)朋照、そして第四子(次男)勝陽だ。最近気づいたのだが、全員名前の漢字に「日」と「月」が部首として含まれており、親のこだわりが感じられる。元々朋照が友達に誘われて小一から通い始め、それに引っ張られる形で半年後に明里と明衣も通い始めた。結構やんちゃだった――小学校低学年なら皆そうだが――朋照がおとなしく、というか姿勢が良くなり礼儀正しくなったのを見て親が薦めたのだろう。尚、勝陽については朋照と八歳ほど離れているので当時はまだ生まれていない。
上の三人は皆中学までは通っていたが、高二になる頃にはそろそろ大学受験という事で辞めてしまった。(中高一貫校だったので高校受験は無かった。)朋照が中三の時に勝陽が小一で正式に入塾してきたので、玄田家としては途切れること無く子供がうちの教室に通っていることになる。最初の朋照が通い始めて今年で十三年目、勝陽が中三まで在籍するとしてもあと四年、玄田家とは合計十七年以上の付き合いになりそうだ。玄田夫妻には合宿やら行事でも色々と手伝ってもらってお世話になった。いや、これからもきっとお世話になるんだろうけど。
玄田四姉弟も結構友達を教室に誘ってくれたしな。特に朋照は小学校の同級生五人位連れてきたし、さっき「半紙ちょうだい」って言ってきた糸井亜希は勝陽の同級生、家が近所で親同士が知り合いって事もあって通う様になった。それに引っ張られる形で亜希の従妹の新谷依実――はらいをはねって言ってた子だ――も入った。竹内家は勿論だが玄田家にも感謝しかない。
勝陽の指導を終えると書を見せに来る子の列が無くなって一段落した。さて、彩音の様子を見に行くか。