小六編 第36話 合宿前日は体力温存
日曜の朝、レターパックをポストに投函して自宅に帰ってきたところで、竹内の婆ちゃんに会った。
「先生、ラジオ体操にはもう来ないんかね。」
「すいません、こないだ行った時にも言いましたがあの時が特殊な状態でして。偶々早起きした時とか徹夜明けじゃないと行けないと思います。」
「そう言わずに出来るだけ来なさいな。」
「はぁ……努力します。」
絶対行く気ないだろ、自分。
「明日から合宿よね。また差し入れ持って行くからね。」
定番のスイカだな、多分。あと桃とかの時もあったな。食後のデザート、楽しみです。
「ありがとうございます。いつもすみません。ところで竹っちは忙しいんですか。お手伝い要員として男手が欲しいんですが。」
「ごめんなさいね。あの子、今年は受験という事もあって塾とかで夏休みも忙しそうにしてるのよ。」
「そういや中三でしたね。残念です。」
「それとまた流しソーメンやるの? だったら竹は好きなだけ持ってっていいからね。」
「そうそう、それをお願いしに行こうと思ってたんですよ。助かります。今年もよろしくお願いします。」
毎年、流しソーメンの水路用に竹内家が所有する山にある竹林から竹を数本切り出しているのだ。竹内だけにな。こいつの加工もやらなきゃならん。去年作ったのはどうしたのかって? 竹は切って一年もすると傷むからな。虫が食ったりするし。衛生面を考慮し毎年新しく作っている。
「直前に言う必要無いから好きなだけ持って行きなさいな。」
「毎年ありがとうございます。今年も頂きます。」
思いがけず竹の入手交渉が出来てしまった。はっきり言おう。忘れていたのだ。まぁ婆ちゃんなら当日に言ってもいいよと言ってくれるだろうから、すっかり意識から抜け落ちてたわ。明日のリクリエーションの時にでも何人か連れて切り出してこよう。それとも切り出しくらいは試しにOBに任せてみようかな。もう何年もやってるから大体の要領は分かってるだろう。うん、それがいい。
さて教室の掃除、掃除、と。まずは机を後ろ半分に寄せて前側を箒で掃き軽く雑巾がけ。続いて今度は前半分に机を移動、後ろ半分を同じ要領で箒と雑巾がけだ。洗い場も軽く磨かなきゃな。あとはトイレと玄関。玄関は土埃が溜まるんだよな。箒で埃を外へ掻き出して打ち水。バケツに残った水を畑に撒こうとしたが……地面がビショビショになる前に草取りしとかんとな。これから気温が上がるだろうから早い内にやっといた方が良かったんだが……俺の判断ミスだな。仕方ない。後回しにすればする程、気温は上がるだけだからとっととやってしまおう。汗を掻きかき畑の草取りをするのであった。
草取りを終え、畑に水をやって一息ついたところで昼飯だ。飯作るの面倒臭ぇー、外に食いに出るのも面倒臭ぇー。玄関上がったところで突っ伏してしまった。板の間に寝転んでると何だか涼しくて気持ちいい。このまま飯食わずに寝ちゃおうかな。眠って動かなければカロリー消費も少ないだろう。そう思うと次第に瞼が重くなってきた。本当に寝ちゃう……
「先生、先生、しっかりして。起きて!」
誰かが俺の頬をペチペチしてる様だ。
「うぁ、な、何だ!」
ガバッと起き上がる。
「あぁ良かった。死んじゃったのかと思った。」
縁起でも無い。
「京さんでしたか、どうしたんです?」
月子の母親の京さんが真っ青な顔で俺の前に居た。
「どうしたもこうしたも、教室の前通りかかったら扉が開けっ放しで、よく見たら先生が廊下で突っ伏してるじゃない。てっきり事故か病気で倒れたんじゃないかと……」
で、俺が死んじゃったのかと思ったと……
「申し訳ない、ご心配をおかけした様ですね。暑い中、畑の草取りと水やりした後に廊下に寝転んだら思いの外涼しくて……気持ちよくて眠ってしまった様です。」
「もぉー、吃驚させないでよ!事故物件になっちゃったかと思ったわ。」
そっちかよ! まぁ大家としてはまずそれを心配するか。その気持ちは分からんでもない。
「ところで今何時ですか?」
「一時過ぎじゃないかしら。」
「もうそんな時間? どうやら一時間近く寝てた様ですね。」
「あの状態で一時間? 偶々私が第一発見者だったから良かったけど、通りすがりの人が見たら通報されて絶対大騒ぎになってたわよ。」
第一発見者て……俺、死んでないんですけど…
「今度から玄関の扉は閉めてから倒れてちょうだい。」
「えー……」
なかなか辛辣な事をおっしゃる。
京さんは竹内家の不動産管理の事務的な事をやっている。勿論、実務は不動産屋に任せているのだろうけど、竹内家としての窓口は京さんだ。ちなみに竹内家と俺の不動産契約については不動産屋は殆ど絡んでいない。殆ど、と言うのは賃貸契約の仲介が出来るのが法律上、資格を持った者だけなので、形式上は不動産屋が間に入っているからだ。竹内家と俺は十年以上の付き合いだから、契約更新の際には京さんと直接やり取りをしている。不動産屋は名前だけ契約書に出て来るだけだ。本当は拙いんだろうけどな。
「そういや先生、畑の水やりで思い出したけど、あれって井戸水なのよね。」
「そうですけど井戸水がどうかしました?」
「あんまり大っぴらに井戸水使ってるって言わない方がいいわよ。下水道料金が追加されちゃうかもしれないから。」
「えーと、どういう事でしょう?」
「いい?水道料金ってのは上水道、つまり蛇口なんかから出る通常の水道のことね、それと同じ量の水を下水に流してるって事で、下水道使用料も併せて払ってるのよ。」
「あぁ、それは知ってます。水道の検針票にも上水道と下水道の項目がありますから。」
「下水道も流した水量に応じて料金が決まるのだけど……これもおかしな考え方だけど上水道で使った分を下水道に流してるだろ、って理屈なのよ。」
「まぁそうですよね。蛇口から出た水を全部下水に流してませんよね。掃除にや料理に使ったり、うちみたいに畑に撒いたりもしてる訳で。」
「結局それも回りまわって下水に流れてるでしょって理屈ね。水の循環ってそういうもんだから。まぁそれはいいのよ。そうなると井戸水は?」
「えーと、上水道では無いですけど……結局、最終的には下水に流してるだろ……って事ですかぁ?」
「そうね、でも下水道の料金は結果的に上水道を使った量で決められてるのよ。でも井戸水は上水道にカウントされないわよね。という事は?」
「下水道に関しては上水道に井戸水の分も加算した量で下水道使用料を払うって事になるんですか?」
「理屈はそうなるわよね。判断基準は水道局を管理してる自治体によって違うだろうけど。」
「そんなぁ……」
「だから井戸水の事は出来るだけ伏せといた方がいいのよ。外で水撒きに使う分だけならまだしも、先生の所はトイレや洗い場も井戸水から引いてるでしょ。こっちは確実に下水道に流れてる訳だから……」
「た、確かに……」
「あれよね、指摘されたら井戸は屋外設置の蛇口だけで畑の水やりにしか使ってない! だから地面に撒いてるだけで下水道には流してる事にはならない! って言い張るしかないわね。」
「そうですね。田んぼや畑から水路に流れ出る水に対して、農家に下水道料金を請求するなら俺も考えるわ、って言うしかないですね。」
「あれはあれで田畑の利水権とかで決まってるから藪蛇になるかもよ。」
そうなのか、そうなると地球に吸わせてるっていい訳しか無いのか。
「まぁ、少なくともうちの周りで井戸に対して下水道料金って話は聞いた事が無いけど、他の自治体ではそういう事があったみたいだから。まぁレアなケースだとは思うけどね。」
「分かりました。心に留めておきましょう。」
全く、世知辛いねぇ。京さんとそんな話をしつつ、午後からの段取りを考えるのであった。そういや昼飯食ってねぇや。
その後、何とかやる気を振り絞って昼飯を作った。うん、インスタントラーメンだ。しかもタマゴを落としただけのほぼ素ラーメン。ふっ、笑わば笑え。片手鍋で作って鍋から直接食べる。何故かって? 態々ドンブリなんかに移したら洗い物が増えるからだよ。言わせんな、恥ずかしい。昔は大きめの鍋でラーメン二袋分煮込んで食ってたけど、最近はそんだけ食べるのはキツい。俺も歳をとったという事か。うどんなら三玉位食えるけどな。うどんは喉越しを味わうもの。「ビールは喉越し」「カレーは飲み物」なんて言葉があるが、俺にとっては「うどんは喉越し」「うどんは飲み物」なんだよな。
午後の仕事は早々に終えて今日はもうゆっくりしよう。明日からいよいよ合宿が始まる。体力は温存しとかないとな。




