小六編 第3話 うったて
いよいよ指導が始まりましたが書道をされている方から見れば「この指導は間違ってる」とか「こんなの絶対おかしいよ」という意見もあろうかと思います。
筆者は小学生の頃に書道教室に通っただけのほぼ素人ですので、このあたりは生暖かい目で見守っていただけるとありがたいです。
さて、小六相手の初心者指導はどうしようかな。学校の授業でもやってるだろうし、とりあえず定番の「永」の字でも書いてもらうか。
「まずは現状の筆づかいを見せてもらおう。持永さんにちょうどいい字がある。持永の『永』、つまり永久の『永』を半紙いっぱいに書いてみてくれ。」
「あっ、『永字八法』ですね。」
「永」には横画、縦画、はらい、はね等の基本になる筆づかいが八種類も含まれていることから永字八法などと呼ばれる。
「ほぅ、よく知ってるな。」
「ちょっと聞きかじったことがあって覚えてただけですよ。自分の名前にある字だし。」
筆を墨に浸しながら彩音が答える。すごいな、俺なんか永字八法なんて知ったの高校に入ってからだぞ。
「では書きます。」
彩音は最初の点を打ち、さらに筆をすすめながら永の字を書きあげていく。筆づかいもそうだがそれ以外の彼女の動作、筆の挙動も観察しながら指導するべきことを頭の中でまとめる。
「出来ました。」
彩音が筆を置く。字としてのバランスはまぁ及第点かな。単に字として見るなら上手い方だと言えなくもない。しかし……
「はい、字がそこそこ上手いのはわかった。だがそれは筆の字ではなく鉛筆とかペンの字だな。」
「えっ?」
「筆には筆の書き方があるってこと。何にも教えてないから出来ないのは当たり前、気にしない気にしない。今から一つ一つ直していこう。まずは筆の持ち方だな。」
「そこから? 何かおかしいですかね。」
「ちょっと筆持ってみ。さっきと同じでいいから。」
「あんまり意識したことないから……こうでしたかね。」
うん、鉛筆やペンの持ち方だな。で、当然ながら一本掛けだ。
「筆の持ち方には二種類あるんだ。持永さんが今やってる様に親指、人さし指、中指の三本で筆を支えて筆の上側に人さし指だけ掛けるのを一本掛けと言い、親指、人さし指、中指、薬指の四本で支えて上側に人さし指と中指を掛けるのを二本掛けと言う。」
「二本掛け?の方がいいんですかね。」
「書道ではどちらもアリだ。だがうちの教室では二本掛けを推奨している。」
「その理由は?」
うむ、なかなか探求心があってよろしい。言われるがままにやるより理由に納得して二本掛けにする方がやる気も出る。
「鉛筆使う時はどちらの持ち方してる?」
「えーと、一本掛けですね。」
「鉛筆やペンは細いから一本掛けでもいいが、筆は太いから二本掛けの方が安定するってのが一つ目の理由、二つ目としては筆の角度だな。」
「角度?」
「筆は半紙に対して立たせた、つまり垂直になる様にして使うのが基本なんだ。やってみればわかると思うが一本掛けより二本掛けの方が立たせた角度になり易い。」
彩音は中指を筆の下にしたり上にしたりして角度を確かめている。
「どちらかと言えばというレベルですけどたしかに二本掛けの方が立ちますね。」
「あとは気持ち的な理由なんだが筆づかいを切り替える切っ掛けだな。鉛筆と筆では筆使いが変わるからな。鉛筆の時は一本掛け、筆の時は二本掛けという様に持ち方を変える事によって筆づかいも切り替えるんだ。このあたりは慣れれば意識しなくても出来る様になるから。」
「何となく分かるかも。同じ鍵盤楽器でもピアノとオルガンじゃ運指が違いますしね。」
「さすがピアニスト、言い得て妙だな。二本掛けは鉛筆から筆に筆づかいモードを切り替えるための儀式というかルーティーンワークというか、ちょっと大袈裟だけどな。」
「なるほどなるほど、で、二本掛けがオヌヌメと。」
「何だよオヌヌメって、まぁ分かるけど。」
「分かるんだ…」
「肝心の筆づかいだがそこに行く前に鉛筆と筆の決定的な違いって何だと思う?」
「違い違い……うーん、芯と墨とか。」
「ヒントとしては鉛筆は硬筆とも言うよな。もっともこれは筆、つまり毛筆と比較しての言い方だと思うが。」
たしか小学校の国語教科の一部として一、二年生は硬筆、三年生以降は毛筆(習字)の授業があったはず。俺の時代での話だが。
「鉛筆が硬筆、硬い筆ってことは毛筆は軟らかい筆ってことですよね。」
「ちょっと近づいてきたな。そこから辿り着けるかな。軟らかいと出来る事があるんだけど。」
「軟らかい、軟らかい……弾力がある、弾む?」
「弾むというか上下に動かせるって事だな。」
「あぁそうか。鉛筆だと横には動いても縦には動かない。けど筆は縦にも動くから……」
「そう、上下に動かせることによって…」
「「太さが変わる!」」
ハモっちまった。
「鉛筆やペンは平面的な動き、筆は立体的な動きになるんだ。あっ、小学生で立体って意味わかるんだっけ?」
「算数で立方体とか直方体とか体積は習いましたよ。」
「そうだったか、失礼、失礼。もう少し難しい言い方をすれば二次元の動きと三次元の動きって事になるんだがこれは中学、いや高校で習うんだったっけな。」
「二次元はマンガやアニメで三次元はリアルって意味でしょ?」
違うわ! いや間違いではないかもしれないが物理や数学的な意味で違うわ。
「どこで得た知識かは聞かないが、平面と立体の違いが分かってればいい。鉛筆は上下の動きがないから手を紙にくっつけた状態で書けるけど、筆は上下にも動かさないといかんから手は浮かせた状態で書く。」
「そう言えば鉛筆の時は右手を紙の上に置いて書きますね。でも筆の時は上下の動きを作るために浮かすと。それに浮かせないと改行した時に手がすでに書いた右側の字をこすって手が汚れちゃいますしね。」
「細筆の時は右手を浮かせると安定しないんで紙の上に置いたり、右手首の下に左手の甲を添えたりする場合もあるけどな。」
余談になるが、普段二本掛けでも細筆の時だけは一本掛けにする人もいる。
「上下の動きで太さが変わるってのは筆づかいの違いの一例だが、他にも色々と筆ならではの筆づかいってのがある。『永』の一画目、最初の点があるだろ? 筆だと点だが鉛筆で書くと厳密には点じゃない。」
「??? よくわかりません。」
「筆なら半紙に下して上げるだけで点になる。鉛筆でこれをやるとポツンとした点になってしまう。結果的に線にしないと字の一画として認識できないんだ。さっき持永さんが書いた『永』の点を見てみ。鉛筆の筆づかいで書いてるから無意識に線で書いちゃってる。」
「ホントだ。鉛筆の時の癖なのか、ちょっと右下に引っ張ってますね。筆なら上下に動かすだけで点になるのに。」
「上下に動かすだけってのは極端な言い方だがまぁそういう事だ。今は筆には鉛筆とは違った筆づかいがあるってのが分かればいい。少しずつ教えていくから色んな筆づかいに慣れていこう。」
彩音は「わかりました」と言いつつ自分の書いた「永」を捨てようとする。
「その『永』を書いた半紙は捨てずに取っといて。基本的な事を習ってある程度書ける様になってからもう一度書いてそれと比較してみよう。」
「えぇ、恥ずかしいんですけど。」
「悪いところを直して直して何度も改善しながら上手くなっていくんだ。上手くなる過程が分かった方が上達も早いぞ。」
「分かりました。黒歴史を戒めにするわけですね。」
黒歴史って……ちょいちょいブッこんでくるな、この子は。
「あるいは羞恥プレイ?」
「断じて違う! それ他の人の前で言うんじゃないぞ! いいな、絶対だぞ!」
「それは『押すなよ、押すなよ』的なヤツですか?」
「振りちゃうわ!」
いかん、思わず似非関西弁になってしまった。
「とにかくだ、筆づかいの基本を教えていくぞ。」
俺は筆を取ると半紙に「一」を書く。
「まずは横画から、漢数字の『一』だな。これが手本だ。これを見ながら自分で書いてみて。あっ、筆はとりあえず二本掛けで、どうしても自分に合わない様なら一本でもいいけど。」
彩音は慣れない二本掛けで何とか筆を持ち、墨に浸した筆先を硯の陸の部分で整えながら感覚を確かめている。なんかがっちり握り過ぎだな。
「薬指と小指は手のひらにくっつけない様に、握り込むんじゃなくて浮かす感じで。」
俺は反故(書き損じ)の半紙を中ほどで千切って丸め、彩音に渡す。
「これを薬指と小指で軽く包み込む感じで手のひらとの間に入れて。そうそう、空間を作るんだ。」
「筆は出来るだけ立たせるんですよね。」
「基本はそうだ。わざと倒す場合もあるが今は考えなくていい。」
手本を凝視してから筆を半紙に置くと一気に右側へと引っ張る。
「姿勢がいいのと筆の運びというか走らせ方に思い切りがあるから真っ直ぐ書けてるな。なかなかいいぞ。」
「そうですか?でもお手本と比べると…書き始めと最後が全然違うと言うか……」
「そうなんだ、『うったて』と『とめ』、これが鉛筆やペンには無い筆づかいなんだ。」
「『とめ』は何となく最後の所だってわかりますけど『うったて』?」
「あぁ、うちの教室では書き始め筆づかいを『うったて』と言うんだ。一般的には起点を意味する『起筆』って言い方らしいがな。」
うったて、漢字で書くと打起、若しくは打立になるが、白鳳書道会では起筆とは言わず何故かこう呼んでいた。俺は最初から「うったて」で習ってたからこれが(少なくとも書道用語としては)一般的な言い方だと思っていたんだがどうも違うらしい。白鳳だけの独自用語なのか、或いは白鳳以外でも地元の近県では通じる所もあったので方言的な言い方なのかもしれない。
「うったては筆先が左上45度になる様に半紙に置いて少し押し付ける。点を打つイメージというかそんな感じだ。ここで筆を半紙から上げてしまうと点になるんだが、あくまで起点なんで横画の場合は筆を右に送る。その時は点を打った状態より少し筆を上に持ち上げて引く感じだな。上げ過ぎると細くなるんで注意な。」
俺は説明しながら「一」を書いていく。
「最後のとめも点を打って終わらすとイメージしやすいかな。筆を半紙に押し付けてとめてそっと持ち上げる。」
「点を打って線を引いて最後も点を打って終わる、という事ですか。」
「単純に言ってしまえばそうだ。点、線、点だからトン、ツー、トンって感じだな。」
「トン、ツー、トンですか。モールス信号みたいですね。」
「君は一体いくつかね。ちなみにトン、ツー、トン(・―・)はモールス符号ではアルファベットのRだ。これ豆な。」
「つまりどうでもいい知識ってことですね。」
はっきり言うなよ。まぁその通りなんだけど。
「さてここからは自主練だ。『一』だけなら一枚の半紙に何本か書けるだろうから反復練習な。どうすれば手本の様に書けるか、筆づかいはどうすればいいかなんかを考えながら書いてみてくれ。」
小六なら、というか今までのやり取りからこの子なら書く、考える、また書く、そして納得する、こうした習得のさせ方が伸びるだろうとの判断だ。
「それじゃ俺は他の塾生の指導に戻る。後でまた見に来るからそれまで一人で練習な。」
「なるほど、放置プレイの方でしたか。」
「それも言っちゃダメなヤツだからな。」
何なんだろうな、本当にこの子は小学生なんだろうか。今後の行く末を心配しながら、というより不安を覚えながら自分の席に戻ることにした。