Cafe Shelly 山のあなたに
認知症。物忘れがひどく、言語障害なども発生する、いわゆる「ボケ」と言われる状態。アルツハイマーや脳の血管障害によって引き起こされる。通常は老人に発生するものと思われているが。それがある日突然、こんな形で私の身に降り掛かってくるとは。
「先生、夫が…夫が変なんです」
以前からお父さんのことで相談を受けていた三輪さんの奥さんから突然そんな相談を受けた。
「変って…三輪さんが?」
「はい、夫が突然妙なことを口走り初めて」
「妙なこととは?」
「最初はいつものように、おっちょこちょいで忘れ物をよくするだけだと思っていたんですけど。この前、靴下を目の前にしてじっとながめているんです」
「それで?」
「そしたら突然、色違いの靴下を当たり前のように履き始めて。あなた、それ変よって伝えたら、どうしてって聞き返してきたんです」
まさか、そういう思いが私の頭をよぎった。認知症にありがちな症状だ。自分は正しいことをやっていると思っている。が、傍から見ればその行動はあきらかにおかしい。
奥さんの話は続く。
「色が違うからおかしいでしょって伝えたんです。そしたら、そうかってそのときは納得したんですけど…でも…」
奥さんは泣きだした。
私は作業療法士として、認知症の方々のリハビリや介護に携わっている。その傍ら、認知症に対しての講演なども行い、それが認められて大学から声をかけられて教鞭をとるようになっていた。若年性認知症。知識としては知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。
三輪さんはまだまだ働き盛りの四十五歳。お父さんが認知症で、私が関わっている施設に入っているのだが。最近は奥さんしか来ていないと思ったら。まさか、そんなことになっていたとは。
「とにかく一度三輪さんの症状を拝見しましょう。今度連れてくることはできますか?」
奥さんは涙しながら無言でうなずく。まだ軽い症状であれば、認知症であっても社会復帰は不可能ではない。とにかくその程度を見てみなければ。それからいろいろな文献を調べたり、知り合いの先生に情報をもらったり。若年性認知症についての知見を深めることしか今の私にはできない。なんだか悔しい思いがする。
そして三輪さんの旦那さんがやってきた。まずは認知症患者に行うテストを実施。通常の人であれば簡単に答えられる内容である。が、三輪さんはそれすら考えこんでしまう場面がある。だが自分のことについてはまだわかっている。
「まだ程度は軽いけれど、あきらかに若年性認知症ですね」
「これ、治るんですか?」
三輪さんの奥さんは不安な顔で私にそう尋ねてくる。
「三輪さんの場合は血管性のものとは異なります。おそらく、今まで受けてきたストレスなどが原因かと。リハビリによって回復するケースがみられるし、お父様の認知症とは違って進行もゆっくりだと思われます。あきらめずに一緒にリハビリに取り組んでいきましょう」
そう伝えると、奥さんはホッとした顔。とにかく単純作業でもいいから、まずはなにか役割のあることを与える。それがただの単純作業ではなく、意味のあることだという自覚をもたせる。そのことがやる気につながり、リハビリの意欲になっていく。
しかし、何をやらせればいいのだろうか。そんなとき、私の助手をやっている坂本さんがこんなものを持ってきた。
「先生、この前福祉施設からこんなのもらってきたんですよ」
坂本さんは私の研究室を卒業したあと、そのまま大学で私の仕事を手伝ってくれている若い女性。私に代わって、外からいろいろな情報をもたらしてくれるのでいつも重宝している。その坂本さんが持ってきたのは木のスプーン。
「これ、障害者の方がつくったんです」
見ると、それは手彫りのスプーンだった。一つ一つ形が違う。これ一つ作るのに、相当時間がかかるだろう。が、これはかなり手先を使わないとできない。ここでひらめいた。
「この作業をやらせてみよう」
私は早速その障害者の作業所を訪れてみた。そこでは一心不乱にスプーン作成に取り組んでいる方たちの姿が。
「この作業で気持が落ち着くようです。それに、自分が社会の役に立っているという気持ちになれるようですよ」
説明してくれたのはこの施設の責任者の内勢さん。なるほど、これはいい。私は事情を話して、このやり方を若年性認知症の方々に一緒にやれないかという話をもちかけてみた。
「なるほど、それはいいですね」
内勢さんの返事は色よいもの。早速その手配に取り掛かろうと考えた。
だが、大学の仕事もある。また作業療法士として診ている患者もいる。そんな忙しい中で、若年性認知症の患者に対してのケアまで手が回るだろうか?
アイデアは出ても行動まで至らない。坂本さんも助手としての仕事で手一杯なのに。そんな風に考え込んでいるある雨の日。三輪さんの奥さんから突然電話をもらった。
「あの人が…あの人が…」
「ど、どうされたのですか?」
不安が頭をよぎる。
「雨の中、徘徊して保護されたんです…ずぶ濡れで…」
「雨の中って、一体どうして?」
「私を…私を駅まで迎えに行こうと思っていたらしくて」
奥さんの話はこうだった。所要で奥さんは電車に乗って出かけていたそうだ。けれど、雨がふりだして。奥さんは傘を持って行かなかったらしい。そのとき、旦那さんが傘を持って駅の方に向かっていったらしく。けれど、認知症の旦那さんは自分の傘を手にしたまま、傘をささずに駅に向かったらしく。しかし駅がどの方向にあるのかわからず。ずぶ濡れのまま街を徘徊していたところ、警官に保護されたとか。
「でも、どうしてそんなことを?」
「はい、実は昔、私が仕事で電車で通っていた頃があって。帰りに傘を持っていないときに雨にあうことがあって。そんなときに夫が私を迎えに来てくれていたんです。傘を持って。きっと、そのことを思い出したんだと」
認知症の患者によくある行動だ。最近のことは覚えていないが、昔の記憶はやたらと覚えている。だが、現実と記憶の区別がつかずに行動してしまう。三輪さんもきっとそうだったに違いない。しかし、なんて優しい旦那さんなのだ。
「あの人の中で、私はあの頃のままなんですね」
奥さんのその言葉が私の心に重たく響いた。そういう優しさをこのままにしておいていいのか。早く三輪さんの旦那さんを回復させてあげたい。そして奥さんの気持も楽にさせてあげたい。
あのスプーン作りを現実にしなければ。グズグズして入られない。しかし現実は厳しい。気がつけば学会だとか授業だとかで時間だけが過ぎていく。このままでいいのだろうか、その思いと目の前に起きる仕事とのギャップに悩まされてしまう。
そんなとき、老人性痴呆症のおばあちゃんが私を呼び止めた。今、大学病院の施設に入院している私の患者さんだ。
「先生、何を悩んでおらすと」
このおばあちゃん、痴呆の程度はまだ軽めではあるが身寄りが近くにいないため施設に入っている。ときどきこうやって私に話しかけてくれる。
「いやぁ、おばあちゃんはするどいですね」
さすがに今悩んでいることをそのまま伝えるわけにはいかない。そのときはその程度の会話で終わったのだが。そのあと、今度はおばあちゃんの方から私を呼び出しているとのこと。一体なんだろう?
「先生、これ、読んでくだんせ」
おばあちゃんは私に一通の手紙をよこした。その場で中を開いてみる。そこには一遍の詩が書かれてある。
その詩とはこのようなものであった。
山のあなた
山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
「幸」住むと 人のいふ
「どういう意味だ?」
この詩、どう見ても寂しさを感じてしまう。山の向こうに幸せがあるが、どうしても見つからずに涙ぐんで帰ってきた。そういう意味の詩だ。おばあちゃん、どうして私にこんな詩を? おそらく痴呆が入ったおばあちゃんにそのことを尋ねても、まともな返事は返ってこないだろう。
「坂本さん、これどういう意味だと思う?」
助手の坂本さんに見せても、やはり私と同じ意見。さて、どうしたものか。
「先生、今度はどんな悩みですか?」
私の様子を見て声をかけてきたのは、大学に出入りしている文具屋さん。確か加藤さんとか言ったな。
「いやぁ、患者さんからこの詩を贈られたんだけど。どういう意味でこれを私に贈ったのか、さっぱりわからなくて」
文具屋の加藤さんに詩を見せてみる。
「なんだか寂しい感じがしますね」
「でしょう。どうして今の私にこの詩を…」
「私にはわからないけど。ひょっとしたらあそこに行けばわかるかもしれませんよ」
「あそこって、どこですか?」
「私がよく行く喫茶店、カフェ・シェリーです。あそこの魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドを飲むと、その人が今望んでいるものが見えてきちゃうんですよ」
「魔法のコーヒー? そんなものでこの詩の意味がわかるんですか?」
「小川先生が詩の意味を望んでいるのなら、きっとそのヒントが見えてきますよ。まぁ騙されたと思って行ってみてくださいよ。コーヒーの味も掛け値なくおいしいですから」
そういえば最近美味しいコーヒーというのを飲んでいないな。気がつけばインスタントばかりだ。たまにはそういう店にも行ってみるかな。加藤さんにお店の場所を聞いて、今度の日曜日に足を運んでみることにした。
しかし、この山のあなたという詩。読めば読むほど意味がわからなくなってきた。まるで暗号解読だな。気がつけば、この詩をいつも見ている私がいた。
そして待望の日曜日。私は加藤さんに教えてもらったカフェ・シェリーへと足を運んだ。気がつけば街に出るのも久しぶりだ。いつもは大学と病院、そして学会などへの出張の日々。ゆっくりと時間を過ごすことも忘れていたな。いつも先のやることばかり気になって。なんでもない時間を過ごすなんて考えもしなかった。
「ここか」
道に立ててある黒板の看板。そこにこんな言葉が書かれてある。
”その幸せ、気がつくと目の前にありますよ”
なんとなく気になるその言葉を頭に入れ、小さなビルの二階にあがる。
カラン・コロン・カラン
扉を開くと心地よいカウベルの音。同時に聞こえるいらっしゃいませの若い女性の声。コーヒーの独特の香りが私を包み込む。ちょっと異空間に入り込んだ感じだ。
「ちょっと混んでいるので、カウンターでよろしいですか?」
その言葉に軽く頷く。そして座った目の前には、ちょっと渋めのマスターがコーヒーを淹れている姿が。お冷を持ってきた女性店員に聞いてみる。
「ここにシェリー・ブレンドという魔法のコーヒーがあると聞いたのですが」
「はい、当店一番のおすすめのブレンドコーヒーです。ぜひ味わってください」
にこやかに答えるその姿を見るだけで、なんだか元気になれるな。マスターに注文を伝えたその女性店員にちょっと聞いてみることに。
「魔法ってどんなことなのですか?」
「はい、シェリー・ブレンドは飲んだ人が今欲しいと思う味がするんです。まれにその欲しいと思う光景が目に浮かぶ方もいらっしゃいますよ」
それが本当なら、まさに魔法だな。
「さてと…」
私はポケットからあの手紙を取り出した。そう、「山のあなた」の詩が書かれてあるあの手紙だ。再度読みなおしてみる。が、やはり自分の中の感覚はなんだか寂しいという感じしか受けない。
「あ、この詩、山のあなたですね」
こう言ってきたのはあの女性店員。
「えっ、ご存知なんですか?」
「えぇ、カール・ブッセの詩ですよね。この詩の意味って奥が深いんですよね」
「えっ、ど、どういう意味ですか?」
私が思わずそう言ったものだから、店員さんはちょっと驚いた様子。
「実は、認知症の患者さんからこの詩を贈られたんです。私が悩んでいるのを見て。でも、どういう意味でこの詩を私に贈ったのか、さっぱりわからなくて…」
店員さん、このときにこりと笑って私にこう言った。
「多分その答えはシェリー・ブレンドが教えてくれますよ」
そういう会話を交わしていると、マスターが私にそっとコーヒーを差し出してくれた。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです。飲んだらぜひ感想を聞かせてくださいね」
ここでマスターが目を合わせてにこりと笑ってくれた。まるで何かの合図のように。
早速コーヒーカップを手に取り、その香りをかぐ。コーヒー独特の良い香りだ。次にコーヒーを口に含む。独特の苦味、さらには酸味。うん、コーヒーとしてはとてもおいしい。しかし、このままでは普通のコーヒーと同じだと思うが。そう思った次の瞬間、舌の上で味が変わった。
んっ!? 私はそれを確かめるために、もう一度コーヒーを口に含んだ。いや、正確に言えば舌の上に運んだ、といった方がいいだろう。すると、舌にその液体が流れ込んだ瞬間、苦味が別のものに感じられた。甘み、いや違う。なんと表現すればいいのだろうか。よくわからないが、嫌な味ではない。むしろ何かが広がる、そんな感じの味。その何かがよくつかめない。このとき、山のあなたを思い出した。
山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
遠い向こうに幸せがある。この求めている味がまさにそんな感じがする。それがわからず、もう一度その味を確かめる。三度目の正直。今度はどうだ。
また苦味が一瞬走る。そして次に襲ってきたのは…
「そ、そうか。これか」
その正体がわかったとき、私は思わず納得してしまった。
「何かおわかりになりましたか?」
マスターが私にそう尋ねてくる。
「はい、わかりました。なるほど、確かに魔法のコーヒーだ」
「よかったら感想を聞かせてください」
カップを磨きながら、マスターは私にそう問いかけてくる。私の解釈はこうだ。
私はこの魔法のコーヒーに期待をして口に含んでみた。最初はコーヒーそのものの味がする。しかし私はそんな味を待っていたわけではない。特別な何かを待っていた。けれどそんなものは浮かばない。山の向う側にある、遠いところの幸せを見つけに行く。そんな気持だった。
だが味が変わった。しかしその正体がよくわからずに三度も口に運んでみることに。そして三度目にようやくその正体がつかめた。私がわからなかった味。それはコーヒーそのものの味だった。そう、味が変わったのではない。味に気づいたのだ。このシェリー・ブレンドが持っている独特の苦味と酸味。何か大きなものを期待してそれに望んだが、実はそのものが持っている独特の味をもう一度楽しむべきだ、と。
そこでわかった。この詩のほんとうの意味が。
私たちは山の向こう側の遠い彼方に幸せがあると思い込んでいる。だが、本当は違う。幸せとは、今目の前に存在する。そこにある幸せに気づくこと。それが大事なのだ、ということだ。私はそのことをマスターに告げてみた。
「なるほど、そういうところにお気づきになったのですね」
「私と同じ所に気づいたんですね」
女性店員が後ろから私にそう告げに来た。突然だったからこれにはびっくり。
「マイ、お客さんを驚かすんじゃない」
「いえ、大丈夫ですよ。マイさん、ですね。じゃぁマイさんも私と同じ解釈なんですか?」
「うん、この詩って最初読んだときは、幸せは山の向こうにあるけれどなかなか届かないものだって、そう感じたんです。でも、そんなことを言われてもって気がしていたんですけど。私もある日、気づいたんです。幸せって、山の向こうにあるんじゃなく、目の前にあるものなんだって」
そうか、そうだよな。私はいつも山の向こうしか見ていなかった気がする。明日のこと、来月のこと、来年のこと。先のことを見て行動するのが当たり前だと思っていた。けれど違う。今そのものが大事であり、今そのものの中に幸せがある。
ここで認知症患者の思いがふと湧いてきた。患者さんはおそらく未来のことを考えられない。今を考えるので必死なはず。だから、今やることに必死になる。
「だからか」
そうか、だからおばあちゃんはそのことをわかってもらいたくて私にこの詩を。今できる事を今やらないと。いつまでも先のことを心配していてはいけない。
「何かわかったようですね」
「はい、おかげさまで。今できる事。ここに全力を尽くさないと。今ある幸せ。そこに意識を向けないと。よし、やるぞ」
私はここで心に誓った。若年性認知症。その患者の社会的な復帰と回復のための施設を作ろう。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。
「マスター、マイさん、ありがとう」
そう言い残すと、私は早速店を飛び出していた。そして連絡をとったのは内勢さん。あのスプーン作りの工房を実現させるために力を貸して欲しいと電話をかけた。
「先生、その言葉を待っていましたよ。私も先生から相談を受けて、認知症についていろいろと調べていました。ぜひ一緒にやりましょう」
これで仲間が増えた。しかし具体的に、どこにどういう施設をつくればいいのか? とにかく話せるところに話をしてみよう。
早速大学の先生にその話をすることに。だが多くの先生はこんな反応。
「えっ、小川先生が?どうしてそんな面倒なことを」
それどころか、こんな意見も。
「そんなの、国や行政に任せておけばいいものを」
みんな、完全に人任せだ。またも行き詰まった。それどころか、周りが私を見る目が変わってきた気がする。まるで変人扱いである。
「先生…」
坂本さんが心配そうに私をみる。
「大丈夫、なんとかなる。道は開ける」
そう自分に言い聞かせるも、どうすればよいのかわからない。そんなときは…そうだ、またあのシェリー・ブレンドに頼ってみるか。あれを飲めば何か見えてくるかもしれない。私は時間を作ってカフェ・シェリーに足を運んだ。お店に飛び込むやいなや
「マスター、シェリー・ブレンド一つお願いします」
「あ、先日の…どうしました、すごく慌てているようにみえるのですが」
「えぇ、実は…」
私はカウンター席に陣取り、事のいきさつを話した。
「なるほど、若年性認知症患者のリハビリ施設を作りたい、と。けれど協力者がみつからない、ということですね」
「そうなんです。場所もどこにすればいいのか。内勢さんの施設も考えたのですが。さすがにむこうの職員さんに迷惑はかけられないし。何かいいアイデアはないものかと」
ここでマスター、にこりと笑って私にシェリー・ブレンドを差し出す。
「はい、これで何か見えてくれば」
私は早速、期待をしてシェリー・ブレンドを口に運ぶ。お願いだ、私に力を貸してくれ。そう願いつつ口の中にコーヒーを流し込む。このとき、こんな映像が頭に浮かんだ。
「お、おばあちゃんが?」
あの、やまのあなたの詩を私にくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんがさらに私に何かを渡してくれる。そんな場面で映像が途切れた。いや、正確に言えば自分でそれを切ったという方が正しいか。その意味を自分で考えようとしたからだ。
おそらく、あの認知症のおばあちゃんが鍵となる。それがどういうことなのかはわからない。けれど間違いなくあのおばあちゃんがポイントだ。
「わかりました。早速行動に起こさないと」
そう言うと、残りのシェリー・ブレンドを一気に流し込んで、マスターとマイさんにお礼を言うと私はお店を飛び出した。向かうは施設。おばあちゃんがいるところだ。
「おばあちゃん」
「あら、先生、ごきげんよう」
「おばあちゃん、山のあなたの詩、私にくれてありがとう」
「あら、先生に何かあげたかしら?」
やはり、このことは覚えていないか。しかし私はしっかりとおばあちゃんと向き合い、さらに話を進めた。
「これ、おばあちゃんにお礼にあげるね」
私は内勢さんからあずかっている木のスプーンをおばあちゃんに手渡した。するとおばあちゃん、じっとそれを見ている。
「これ、手作りなんですよ」
「へぇ、そうなんですかぁ」
「私ね、これをみんなで作ることが出来ればって思っているんです」
「それはいいですね」
「でも、その作業場をどこでつくればいいのか。今それを考えているところなんですよ」
「あら、そうなの」
会話がここで途切れてしまった。このおばあちゃんが鍵だっていうのは間違いだったのだろうか。
私は自分の部屋に戻り、また考えなおした。どうすれば認知症患者の作業所をつくることができるのか。だが自分の頭のなかだけでは何も解決しない。ほどなくして、坂本さんが飛び込んできた。
「先生、先生!」
「どうしたんだい?」
「先生に会いたいって方が施設にお見えになって…でも…」
「でも?」
「なんだか怖そうな方で…」
誰なんだろう? 私はあわてて施設の方へ足を運んだ。すると、そこには強面で、ヘタするとあっち系の人かと思えるような人物が私を待っていた。
「あんたが小川先生かい?」
ギロリと私をにらむ目。するとその男は、さきほどおばあちゃんに渡したスプーンを取り出した。
「これを認知症患者に作らせたい。そう思ってるんだってな?」
「え、えぇ。それでやる気を出させ、社会貢献の意識を付けさせることで、若年性認知症の回復に努めたいと考えているのです」
「先生…」
その男が私をじっと睨む。私は負けじとその男をにらみ返そうとしたとき。
「先生、ぜひそれを作ってくだせぇ。うちにある土地、使ってくれていいですから。そしてうちの兄貴を…兄貴を助けて下さい!」
「お兄さん…ですか?」
「はい、あ、私こういうものです」
あらためてその男は私に名刺を差し出す。
「三輪興業…あ、ひょっとして三輪さんの弟さん?」
「はい、兄がお世話になっています。うちは土建屋をやっておりまして。それで切り開いた山があるもんで。そこに土地はあるんです。その作業所、ぜひそこに作ってくだせぇ」
「あ、はい。でも、急にどうして…」
「義理の姉から聞いてまして。まさかと思ってこうやって先生を訪ねてきたんです。そしたらこのおばあちゃんが私に言ってくれたんですよ。小川先生がこれでみんなを助けてくれるって」
そういって出したのがあのスプーンである。
「おばあちゃん、私にこう言うんですよ。先生が困ってるから助けてくださいって。なんでも作業所をつくる場所を探しているそうじゃないですか」
まさか、認知症のおばあちゃんがここまで話せるとは。
「あら、そんなこと言ったかしらねぇ」
そう言いながら上品に笑うおばあちゃん。
「ありがとうございます」
この言葉しか出てこない。念ずれば花開く。まさにそれを実感できた瞬間であった。
話はトントン拍子に進む。三輪さんの弟さんの協力で、施設の概要も整ってきた。土建屋さんだけあって、不動産関係や建築関係にも詳しくて。すでにある既存のプレハブを使って簡単な施設ができあがった。
「この施設に名前を付けないといけないなぁ」
いよいよ施設の稼働開始という時になって、名前がついていないことに気づいた。
「坂本さん、いい名前思いつかないかな?」
「名前、ですか? うぅん…」
急に言われてもさすがに思いつかないか。
「そういえば先生、前から悩んだ時には魔法のコーヒーを飲みに言っていましたよね。それ、私も体験してみたいです」
そういえば坂本さんをカフェ・シェリーに連れて行っていなかったな。
「なんですか、その魔法のコーヒーって?」
作業場の仕上げを手伝いに来てくれていた内勢さんも私たちの話にのってきた。
「飲んだ人が欲しがっている味がするという、ちょっと不思議なコーヒーなんですよ。あ、みんなで行きましょうか」
「先生、私もぜひ行きたいですな」
三輪さんもそう言い出した。早速カフェ・シェリーへ行くことになった。
カラン・コロン・カラン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ。あ、今日はたくさんおみえになって」
「すいません。仲間をぞろぞろと引き連れて来ちゃって」
私はマイさんとマスターに仲間を紹介し、事情を話した。
「なるほど、施設の方は準備できたんですね。でも名前が決まっていない、ということですか」
「はい、名前なんてあまり意識せずに作業を進めていましたからね。で、どうしようかと思った時にここのシェリー・ブレンドを思い出して」
「それは光栄ですね。では早速ご用意いたします」
私はカウンター、他の三人は丸テーブルの席に位置している。三人とも、これから出てくるシェリー・ブレンドに期待をしているようだ。程なくしてマイさんがシェリー・ブレンドを運んでくる。
「飲んだらぜひ感想を聞かせてくださいね」
そして一斉にシェリー・ブレンドを口にする。私も同じタイミングでコーヒーを口にする。このとき、私の頭のなかでひとつの映像が浮かんだ。
ここにいる四人が手をつないでいる。いや、よく見るともっと多くの人が手をつないでいる。マスターやマイさん、あのおばあちゃん、認知症の三輪さんと奥さん、さらには多くの患者さん、スタッフ、先生などの姿が。
「つながっている…」
思わずその言葉を口にした。すると、他の三人も私の言葉に同調したようだ。
「先生、私、みんなが手をつないでいる姿が見えましたよ」
坂本さんの言葉を皮切りに、内勢さん、三輪さんも同じような感想を口にした。
「つながり、これが私たちのキーワードか」
「じゃぁよ、そのまま『つながり』ってのはどうかな?」
三輪さんの提案、すごく心に響いた。つながり、いい言葉だ。
「うん、そうしましょう。私たちの施設の名前、つながり。いや、施設だけじゃない。この活動そのものの名前、それがつながり。どうですか、みなさん」
みんな笑顔でうなずいてくれた。
「つながり、いいですね。私もぜひそのつながりの輪の中に入れてください」
マスターのその言葉でまた一つひらめいた。
「私たちのマーク、こんなのはどうですか?」
私はメモ帳にサラサラっと絵を描いてみた。その絵は一本のロープを円にして、そこに結び目があるというシンプルなもの。
「この輪の中にみんながいて、そして一つにつながっている。そんなイメージです」
「シンプルだけど味があるなぁ。よし、それでいきましょう!」
内勢さんも乗り気だ。他のみんなも異存はない。つながり、これで決定だ。
さらに私は残りのシェリー・ブレンドを飲んだ時に、もう一つの映像が頭に浮かんだ。
それは三輪さんが笑顔で、自信を持って生きていく姿。そう、自分というものの誇りを持って生きていく姿。
認知症、それは人生の終わりではない。認知症はその人の個性の一つ。その個性を生かしつつ、生涯現役でみんなのために働く。その姿を思い描いた時にこう思った。
そんな場所を作っていきたい。このつながりという場所から、多くの人が誇りと自信を取り戻して生きていく。その一歩を踏み出していきたい。私は今感じた映像をありのまま、ここにいるみんなに語った。
「小川先生、やりましょう」
「うん、私も手伝いますよ」
「先生、私ずっとついていきます」
そんな言葉が口々に飛び出してくる。
よし、やるぞ。今はまだ何もない施設だけれど。ここから一つずつ、できることから始めていく。
このとき、マイさんがあの詩を口ずさんでくれた。
山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
「幸」住むと 人のいふ
「今ならよくわかります。この詩が意味することが。今できる事、今の幸せ。それを感じて行動していきます」
私は自分のやるべきことを自覚した。こうなったらいてもたってもいられない。つながり、これを今すぐにでもスタートさせたい。その気持でいっぱいになった。
その週末、ささやかながら開所式を開催。そこには三輪さんを始め、入所してくれる予定の認知症患者、さらには障害者の方々も集まってくれた。
「小川先生、あいさつをおねがいします」
そう促されて、私はもう一度ここまでの思いを振り返ってみた。きっかけは三輪さんが与えてくれた。
若年性認知症患者。まだ働ける年代なのに、その症状のせいで自信を失い、さらに自分をも失ってしまう。そういう人たちが誇りを持って、自信を持って再び社会に羽ばたける。そんな施設を作りたい。けれど思いだけはあっても時間がない。それを言い訳にぐずぐずしていた。そんなときにもらった「山のあなた」の詩。そこには、遠い山の向こうにある幸せを求めようとしていた自分の姿を自覚させられた。
幸せは本当は身近なところにある。だからこそ、今できる事をやる。まずは今を充実させること。そのために行動を起こさねば。そして動き出したら、仲間が増えてきた。次々と問題が解決していった。そして今がある。
「よし、いくぞ!」
つながりをたちあげて三年後。私は目の前にいる千人近い人達の前に立とうとしている。
「小川先生、緊張してない?」
笑いながら坂本さんがそういう。
「せんせぃ、だいじょぶ」
まだちょっと言葉はおぼつかないが、あの認知症だった三輪さんも私の横にいる。
今回、若年性認知症を克服した実例報告と取組みについて、多くの人の前で公演を行うことになった。最初は気楽に引き受けたのだが、これがかなり大きな大会で。その事実を知ったのが三日前だった。今まで大学の先生として大勢の前で話をしてきたが。今回はちょっと勝手が違う。さすがに緊張している私。
「せんせぃ、はい」
三輪さんがポットからコーヒーを取り出して私に渡してくれる。中身は言わずと知れたシェリー・ブレンドだ。
「ありがとう」
舞台裏で落ち着きを取り戻すために、私は受け取ったシェリー・ブレンドを一口含む。今欲しい私の答え、それは落ち着き。それを感じさせてくれる味だ。心の奥から力が抜けていく。
「よし、やるぞ」
気合一発、いよいよ大舞台に立つ。
今回、実例として三輪さんにも協力してもらうことになっている。あれから三輪さんは手彫りのスプーン作り、さらには風車づくりに励んだ。
作ったものが売れていく。それにより自分が社会に役だっているんだという認識を徐々に持ち始めた。まだ若干記憶が曖昧なところはあるが。自分から「やるんだ」という意欲にはつながっている。
つながりに来た頃の三輪さんは、言葉もろくに喋られない状態であった。だが、一つのことに集中しだすと止まらない。手彫りのスプーンはまさに三輪さんにとってはうってつけの作業だった。これは三輪さんに限らず、他の認知症の作業者も同じだった。中にはスプーン作りに向かない人もいる。だが料理をさせるとピカ一。こういう人はこの施設のまかないをしてもらうことに。こうやって、つながりに来た人たち一人一人が自分の役割を担っていく。そして、それが自分自身の自信へと変わっていく。
認知症を完全に治すことは非常に難しい。だが、今やっていることは全く無駄ではない。今までとは違う自分を見出し、そして違う人生を送ることができる。これを続けていくことで、一生自分というものと向き合いながら、一生責任をもって生きていくことができる。つながりはそれに気づくことができる場だ。だから、最初は悲観的な感じで来ていたメンバーも、徐々に笑顔を取り戻している。
「先生、出番です。よろしくお願いします」
案内係からそう言われ、もう一度気合を入れる。ステージ横からまばゆい光の舞台へと歩み寄る。そして目の前には千人、いやそれ以上の観客。私は少し緊張してしまったが、それを自分で払しょくするために、冒頭でいきなりこの詩を朗読した。
山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
「幸」住むと 人のいふ
「皆さん、この詩、なんだか寂しい詩だと思いませんか?」
私が最初にこの詩に出会った時の印象、そして思ったこと。それを言葉にして話す。頭のなかには、この詩をもらったときのおばあちゃんの顔が浮かんできた。
幸せは山の向こうの遠くにあるものではない。とても身近なところにあるんだよ。その身近な幸せを感じて重ねていけば。自分の中の大きな幸せに変わっていく。そして気づけば、多くの仲間になっていく。
つながり、そこはそういう場所でありたい。活動は小さなものかもしれないけれど。でも、そこが私たちの居場所であり、みんなの幸せをつくっていく場になっていく。
私の話のあと、三輪さんが登場して自分の体験と思いを語ってくれた。三輪さん、まだ記憶が今ひとつおぼつかない。手元に書いた原稿を、すこしたどたどしい日本語で必死になって読む。けれど、その姿は堂々としたものである。自分の誇りをかけて、自分自身の体験談を語る。つながりはこういった支援活動をこれからも続けていく。その言葉で講演会を無事に終わることができた。
その翌日、私はちょっとしたパニックに襲われることになった。だがそれは嬉しい悲鳴である。何が起きたのかというと…
「先生、取材の依頼の電話です」
「先生、つながりに入所したいから詳しい説明を聞かせてくれって」
「先生、同じような施設を作りたいという相談です」
次々に電話がなる。そのたびに応答にてんやわんやの坂本さん。私も内勢さんも、さらには三輪さんの弟さんもその対応に追われることに。こんなに社会的な反響があるとは思わなかった。だが、これは私の望んでいたことでもある。私たちの小さな、
できる事からの一歩が社会を変えていく。認知症に対しての認識を変えていく。それにより、諦めていた人たちが再び希望の光を見つけ出し。そして、そこに向かって歩んでいく。つながりはそんな人たちをサポートする組織でありたい。それが私たちの思いなのだ。
気がつけば、つながりの活動は徐々に広がっていった。といっても、組織的な動きをとったわけではない。私たちがつくった施設と同じようなものが全国に徐々にできてきた。
私はそこでちょっとした指導をするだけ。あとは自主運営に任せている。NPOで運営しているところもあれば、一企業がやっているところ、地域で社会福祉法人を立ててやりだしたところもある。
スタイルはそれぞれだが、大事なのはその気持。そう、つながりという気持ちを持って認知症患者と向かい合うことだ。
私はそういう施設ができたら、そこに必ずこの詩を送るようにした。それはもちろん、「山のあなた」である。
すぐ近くにある幸せ、それに気づくこと。そして、その幸せを感じながら生きていくこと。それが私たちの願いであり、喜びであること。これを必ず伝えている。
「先生、おはようございます」
今日もつながりに行くと、たくさんの笑顔がそこにあふれていた。みんな生きがいを持って作業に取り組んでいる。
「みなさん、おはようございます」
私も誇りを持って生きていこう。
生涯現役。一生をかけてこの仕事に取り組んでいく。そして今日も、ポットに入れたシェリー・ブレンドを一杯いただく。
<山のあなたに 完>