3.城の住人
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山奥は天気が不安定だった。クローゼットの服を確認している内に豪雨となった。豪雨の時はいつも良くないことが発生するか、発生の前兆となるフラグだった。ジンクスではなく、事実として止めようがないのだ。女は災難発生の前兆が手に取るようにわかっていた。
こんな事態は今までに経験したことがなかった。窓ガラスは多量の水分を受け止めることで透明度を失い、心臓を打つ雷の音は、一寸先に落ちていても可笑しくない。風から発せられる音は、枯れた木々を伐採する音とのアンサンブルである。重厚な雲の動きを身近に感じられる標高にその建物はある。
壁一つで隔てた建物内の空気が淀んでいた。自然界が作り出す気温や湿気ではない。周りを森で囲まれた建物は、不明慮な欲望が形を変えてオーラを放っている。異質な嫌悪感が体内のアンテナを敏感にしているのだ。
女は生きた心地がしなかった。それらに押しつぶされそうな気すらしていた。空気が濃縮されていて息苦しかった。女は団地妻になればどれほど幸せなのだろうかと考えた。寝た切りの義父を見ると、地獄の手前で大往生しているかのようだ。広い空間に、多数の部屋を備えた建物内には男と女と男の父がいるだけだ。なのに、生きた心地がしなかった。
女は食事の準備で気分を紛らわそうとした。手を休めず作業をすることで、例え怪我をしてしまっても、それらに意識が集中されていく。ネガティブな妄想をポジティブなこととして捉えてしまっていた。
業務用サイズの巨大な冷蔵庫から高級食材を取り出し、下ごしらえしたスープに絡める。スープは煮立ちすぎて茶色に変色している。サラダを切り分け、パンを焼く。
女の夫は贅沢三昧の食生活を送ってきた末に、小食という境地に達していた。際限のない男の欲望も、食欲という観点からすれば飽和していた。女は料理の進捗と共に腕時計を見る。
男は時間どおり、一分の狂いもなく、食卓に着く。男は明るみを好まなかった。故に部屋の照明は省エネモードのように暗い。照明の明るさは調節可能ではあるものの、男が現れる前に照光レベルを下げなければならない。
何をされるかはわからなかった。只、そうしなければ権力者に逆らう庶民と同じになると思った。女は自分で恐怖を増幅させていた。茶色の照明は気分を落胆させる。演技染みていて、女は相変わらず慣れていない。女はメニューを列挙する。
「スープが良い色になっているね」
「はい、好みの味付けにしていますわ」
「早速頂こうか」
男は数年前から味覚を半分以上失っていた。薬物を多量使用しているわけでもなかったので原因は不明だった。
シュールな運命を辿っているだけかもしれない。普通の味付けではまったく食べた気がしないという。女は同じメニューを食べていては体に毒と判断し、いつも薄味の別メニューを食していた。男は味覚障害、故に塩分の多量摂取、にも関わらず元気が持続し時には増長していく様子だった。
この人は不死身なのかもしれないとさえ思っていた。年を重ねて行くごとに増しているようなバイタリティー。しかし、夫婦の愛はとうの昔にどこかへ置いてきた。あるのは、富豪にしがみ付く玉の輿女という称号だけだった。男はそれを見透かしてもなお、女をそばに置いておこうとした。
女は思った。
なぜ私をそばに置いておこうとしているのか。 利用価値はない。いくら頭を捻りだしても、自分という存在は家政婦の役割以上でも以下でもない。男は愛の言葉を言わない、私のどこがいいのかさえ言わない。
私のエゴなのだろうか。女として生まれてくれば、どこがいいのかぐらいは聞きたいものだった。あるいは、寝たきりの老人が関係繋ぎとめているのかもしれない。それでも男に直接問えないでいた。口喧嘩はしていたのかさえ思いだせない。
結局は仮面夫婦なのだ。
十年ものの、渋みが強い赤ワインをグラスに注いだ。唇にブドウの色素が付着するまで黙って飲んでいた。人肉食を生業とした種族が生きた人間をほおばったかのような唇だった。
女は男と一緒に食事をとらなかった。男とのやり取りに集中する為だった。
「八日後は親戚がここに集まるな?」
「はい、皆さんには招待状を出しております。返事も返ってきまして、欠席者はいません」
「では、父の遺産の話までしているのかな?」
「いえ、そこまではしていません」
「話の趣旨がわかっていないのに出席か」
男は奇妙な高笑いをした。
「奴らには言わずとも分かっているのであろう。金の匂いに敏感で、金使いの荒い亡者であるからな。正月でもあるまいし、親戚が集まって食事をして宿泊していくなんていう、ごく有り触れた行事だけで集まる連中でもないからな」
「でも義父があのような状態では、本人の口から誰がという話は……」
義父、寝たきりの老人、頭の中で反芻した。厳しい顔をした男に女は委縮した。義父が病に倒れたことからくる表情ではない。
食べものを戻しそうな感覚だ。
「だから呼ぶんだよ。死んでからでは遅いではないか」
男がそういうと、食卓から居間への廊下に置いてある西洋の兵士を象った鎧を撫で、剣を抜いた。無言で、表情は微笑みを浮かべながら剣を振り回し、空を切った。その姿は、自分の適をイメージして殺戮する戦士そのものだった。
「亡者の欲望は私が切り刻んでやる。遺産は私のものだ。例え父が遺書を残していなかったとしても、本人の口から相続する相手を呼ばなかったとしてもだ」
剣を元の場所に戻すと、再び食事とワインを食した。
「残した書き置きがあろうと、私には計画があるからな。だからわざわざ会いたくもない奴らを呼ぶことにした。天皇陛下が神の象徴だった時代のように、私はこの城の王になる」
女は味覚障害になったかのような錯覚に陥った。目の前の、四半世紀をともにした男の胸の内がわからなかった。体の震えと胸騒ぎは、男が自室に戻ってもしばらく収まらなかった。