28.落下した男
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菅野がいくらドアを叩いても、誰も出てこなかった。しばらく待たされ、女性の叫び声を反芻する。もしかすると、聞き覚えのある声だった。亜紀、いや、可愛子ぶっているようなこえはユキ子だ、と決めつけ、遠慮なくノックを繰り返す。
「誰かいませんか!?」
叫び声が助けを求める言葉に変わった。それでも建物内から聞こえてくる。不法侵入という細かいことを忘れ、扉に手をかけたが、開かなかった。正面突破が出来ないと判断した菅野は、屋敷を吟味しながらも足音を立てずに裏口へ回ろうとした。
非常階段への扉は鍵が掛っていた。その調子で建物の脇に回る。プレールーム、食堂の窓はカーテンがかかっていた。二階の四部屋の内、奥から二部屋のカーテンが空いている。バルコニーを隔てた窓はすべて閉まっていた。三階はバルコニーがなく、真ん中の部屋だけカーテンが空いていた。そこから声を掛けようと思わず、裏手へと回る。配電盤を経て、一階の空いている窓を見つけた。
「うっ……」
覗いてみると、そこには血痕がこびりついた個室があった。真っ白な便器にもどす黒い血が付着していた。さらに怯えた菅野は、生きた心地がしなかった。ここから侵入するのは無理だ、そう事件が発生しているので、自分の侵入した痕跡があると調査に支障が出ると言い聞かせ、歩みを進めた。
二階の高さで消えいる煙を見た。大浴場からの窓であり、湿度が凝縮されていた。煙がすべてを支配しているわけではないので、中の様子が見える。そこには、湯が沸騰し、後数時間もすれば蒸発する状態となっていた。
客間の窓もすべて閉まっているのを確認し、先に進んで一周したのを確認した。侵入方法について、沸騰風呂なら暑さを我慢すればなんとかなると考えた。間違ってもお手洗いからの侵入はさけたい。又、女性の叫び声を聞く限り危険な状況であることは判断できる。
「ごめんください」と言って招かれれば、自らの存在を露呈させ、あっさりやられてしまう危険性を考えた。
爆音、銃声が同時に引き起こった。実質、爆音の方が大きいのだが、菅野の位置からは同じぐらいの音量に聞こえたのだ。
さらに二階から見知らぬ男が落ちてきた。
奥から二番目のバルコニーからだった。大浴場の間上に位置している。あまりにも唐突だったので、キャッチしようとする姿勢も取れなかった。銀髪のオールバックが乱れる。男は着地に失敗し、右足が奇妙な方向に湾曲した。上半身だけを起こし、それを凌駕した傷を抱えているのか、腹を抱えうずくまっている。
「だ、大丈夫ですか?」
しばらく声も出せなかった。菅野は見上げるが、バルコニーを隔てた窓は空いていて、誰も居なかった。
「だ、だれ……だ?」
「地元警察のものです。菅野と言います」
見えすいた嘘をとっさについても、男は信用した。
「わ、私は総堂院栄太郎というものだ」
脇腹から血液が漏れ、衣服を血染めにしていった。その量は助かる見込みがないことを暗示していた。
「何があったのですか?」
「部屋に侵入してくるなり、ズドンだ。うっ、私は逃げてきた」
菅野は聞くべき話が多すぎて、どれからにしていいのか分からなかった。自分も狙われているのかもしれない。
「この屋敷きでは何が起こっているんですか?」
「遺産相続の殺し合いだよ」
「殺し合い……」
「そ、そうだ」
総堂院栄太郎は、上半身を支えられなくなり、菅野が抱え込んだ。傷口を押さえる力さえもなくなってきていた。
「毛利家全員が生き残りをかけた戦争をしている。私は巻き込まれたんだ……」
「あなたは毛利家の人ではないんですか?」
「み、苗字でわかるだろ? 私は毛利家の幸子を妻にもつものだ。妻も殺されたがな」
「妻もって、あなたはまだ死んでいません!」
「へへ、この場所じゃあ、ヘリを呼ばん限り助からん。私がそれはでもつとも思えん。最悪なことに、通信手段も断たれている」
警察と名乗ったのに、携帯電話はおろか無線も持っていない自分を恥じた。
「殺された妻に聞いたのを思い出したんだ。毛利薫の付けていたネックレス、あれは毛利剛から贈られたものだ」
もちろん、菅野にはなんのことだかさっぱりだった。
「調査の役に立つかも知れん。私は人生の最後に役に立ったと思わせてくれ」
「あきらめないでください」
「ありがとよ。最後にまともな人間に会えてよかった」
それを言うと、虚ろな目を閉じた。菅野はそのまま揺り動かすこともできないで固まっていた。
「弱気にならずに」
「伝えてくれないか? 私は飲食店経営をしていた。これからやるべき仕事も沢山あったが、後は任せると……」
「そ、総堂院さん?」
総堂院栄太郎の全身はダラリとなった。脈拍を見ずとも、絶命したのは明白だった。
菅野は誰がやったのか? を聞き忘れていた。