24.城の不倫
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女は見てしまっていた。薄らルージュの跡が残る、男の唇を。身だしなみに気を使う男のズボンが、皺となっている様子を。食堂に入ると、誰も入ってこれないよう、内鍵を閉めた。金属のひねり部分が汗で何度もすべっていた。
それらを見て、特殊精神カウンセラーで弄った記憶が誤動作していた。忘却していた記憶を呼び起こすきっかけになった。
お手伝い女との密会の日、日時まではっきりと思い出せるようになっていた。一九九八年十月十一日、丁度一年前だった。遺産相続の話を、なぜその日に選んだのか、今となっては不倫記念日と重ね合わせたとしか考えられなかった。信じられないことに、自らの父親が寝ている部屋で白昼堂々、不倫をやってのけたのだ。
正気の沙汰ではない。それまで、女は、男がそのような趣向を持っていることを知らなかった。一夜を共にした経験も、もう何十年も前なのだし、彼に欲すら残されていないのではないかと疑っていた。
どうして、悪びれもなく不倫なぞできるのだろうか?
ましてや、女の外出予定があったなら別である。まるで、見せつけるかのような按配である。男は少なからず、一夫多妻の制度へ憧れを持っていた。いくら屋敷が二人で住むのには広すぎても、直接的に性交の現場を覗いていなくとも、彼らの発つ交情を観察すれば、只ならぬ関係であることは火を見るより明らかだった。女は禁断の場所から離れ、話し合いもしなかった。核心に触れる前に、精神崩壊を起こしたからだった。
自ら離れようとも考えていたのかもしれない。女はそう思った。その反面、男に捧げた半生を無駄にしたくないと思い、意地でもしがみつこうとしていたのかもしれない。
異性としての感情がそうさせるのか、嫉妬なのかもひどく曖昧だった。女は恐れと共に、男を軽蔑し始めた。
お手伝いの女は未だに結婚はしてなかった。二十六歳で独身というのは、なんら浮世離れしてはいないし、若くてきれいだから、男よりも魅力的な人は沢山寄ってくるだろう。
なぜに、あのようなファシズムを持つ男に惹かれるのか?
経済状態を考えても、もし遺産相続がなしになったら、将来性はない。
決定的な弱みを握られているなら話しは別なのだが。
毛利直哉が大浴場で死亡した原因は、お手伝いの女にあると確信していた。鍵が開いているなんて、彼女らしいミスだ。どうせ、全員始末するのだから、ケアレスミスは関係ないと余裕なのかもしれない。今頃、通常の温度に戻っているはずだ。とうぜんのごとく、お湯の温度設定から実際そうなるまでにはディレイがある。不倫関係を持続するため、殺人に加担する。そう考えた女は急に馬鹿らしくなり、心は居座っていた。
手元のグラスに水を注いだ。本当に金髪の探偵が死んだのであれば、まだ毒薬は残っている可能性がある。
……どうせ、全員始末するのだから
そのまま出してしまおうと考えた。誰かが死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。
――どうせ、全員始末するのだから――
くくくくくくっ
両手で口を押えた。こみ上げる笑い声をかき消すようにだった。
女は、まるで、男のファシズムが乗り移ったかのようだった。