22.ヘンテコ探偵の冒険
16
千歩進までもなく、菅野のモチベーションは下がっていた。都会で育った菅野にとって、自然と向き合うのでさえ苦労を強いられる羽目となった。さらに川の泥が混じっている水で濡れた服は、不快感を与えた。勢いあまって、ちょっと飲んでしまったので、体を壊さないかの心配も増幅し、精神が衰弱した人がそうであるように、半乾きとなって、悪臭を発していないか、繰り返し鼻で息を吸い込んだ。
いくら進んでも曲がりくねった道が続いた。そこにはデジタルカメラでは伝わらない、地味なアップダウンの繰り返しがあった。木々が比較的密集していないポイントからは、本来なら見下せるであろう景色も、霧のせいで大部分が見えなくなっていた。かといって、菅野は時間を持て余しているわけではなかった。寝不足、運動不足や喫煙で弱りきった体からいろんなものが抜け落ちて行く感覚を味わっていた。救いはちゃんとした道があることだった。
車が通りかかれば、この先は通行できないと忠告し、あわよくば、屋敷まで乗っけてってもらおうとしていたのにと考えていたのだか、いつまでも叶わなかった。ポジティブに考えれば、自然をまるごと貸切、ネガティブに考えれば、この世で自分だけが存在している。後者の妄想が優っていた。
少し歩いただけで立ち止まり、大胆にも道の真ん中で胡坐をかいた。アスファルトは乾き切っていないが、彼のズボンの方が水分を多く含んでいたので気にならなかったのだ。さらにそのまま寝っ転がってみて、ここち悪さに、すぐ上半身を起こした。
ポケットに手を入れ、煙草がないことを再確認し、舌うちをした。携帯もない状態である。
膝に手を当て、立ちあがった。よろけそうになりながらも、近くにあった杉の木に手を当てて転倒は免れた。
「つれえ」
と、木々へ向けて呟き、前へと進んだ。深い森がどこまでも続いているかのようだった。
どのぐらい歩いたのだろうか確認する術をもっていなかった菅野は、アーチ状の穴を発見した。穴の中から発せられた向かい風は菅野の体温を奪った。
斜面を削ったトンネルだった。長年、自然と触れてきたせいなのか、大部分に苔が生えていた。トンネルの間上に、長方形の石には、名称が描かれていたが、それも苔のせいで読めない状態になっていた。何処から見ても、心霊スポットのロケーションにぴったりな場所だった。
大型トラックであれば、すれ違いできないぐらい道幅は狭く、高さも心もとない。菅野は本当に国からの設計基準を満足しているのか、疑いたくなっていた。
ただ、一番の問題は、入口前に来ても、出口までは見えなかった。その理由としては、トンネル内に明かりが付いていなかったからだ。これでは、危険すぎると察知した菅野は足をと止めざる負えず、腕を組んだ。
左手側にある看板を見つけ、近くで読んでみた。
管理人が毛利剛となっている。電話番号も恐らく屋敷のだろうと考え、どことなく安心したと同時に、どこまで土地を所有しているんだと考えた。いくら田舎の土地が安いといっても、ここら辺一帯にはアスファルトで舗装された道もあれば、トンネルもある。さらに行けば、橋だって存在する。維持費だって相当かかるのではないか。第一、トンネルの明かりが付いていないから、今すぐ付けれくれと連絡すれば、対処でもしてくれるのだろうか。そう考えた菅野は、再度、携帯電話をもっていないんだと落胆し、他に道がないかを調べた。
案の定、トンネルの向こう側へ続いている道と呼べるものはなかった。山を張っていったとしても、迷ったら……
最悪のケースを考えないようにして、暗闇に包まれているトンネルへと入った。
「あ!!」
そう、大声で叫んだ。声が密閉された形で反射し、消える。静寂に包まれた瞬間があまりにも恐怖に思った菅野は、静寂を歌で埋めた。低音でHEATHの『迷宮のラビリンス』を歌い終えた頃、出口の光が見え始めてきた。
「しゃ!! ふゃっほう」
あまり頭が良さそうではなく、新しくない喜びの表現をし、入口の景色と指して変わらない出口から姿を現した。木々の枝で休んでいた野鳥は、菅野のハイテンションに仰天し、急いで空へと飛び立った。
当然のことながら、ハイテンションも長くは続かなかった。山の天気よりも移ろいやすい機嫌、それを客観視する集中力もなかった。衝突でねじ曲がったガードレールを見て溜息をつき、湿気があるとはいえ、体は水分を要求していた。
菅野は、ある恐怖小説を思い出した。確か、どこへ行っても同じ場所に辿りつき、餓死寸前で助けられたのだが、結局精神崩壊してしまうという話だった。それに比べれば、自分はまだマシだんだろうな、と考える余裕も薄らいできた。毛利家ではアガサクリスティーの『そして誰もいなくなった』が繰り広げられているかもしれない。身ぶるいした菅野は、張りで指せば破裂するのではないかと思うぐらいの足で早歩きをした。
二手に分岐している場所に、宿として使っていた頃のものと考えられる、行先表示板が設置されていた。
「お!!」
屋敷の名前が載っていた。確かに、調べたものと一致する名前で嬉しくなった菅野は、不自然に矢印が消えているのに気が付くまでに時間がかかった。矢印消されていても、大よそ、予相が付くような消され方ではなかった。紛れもなく、五十パーセントの確率である。片方は昇り、片方は下り。どちらも屋敷に通じても可笑しくはない。
無意識のうちに下り道を選んでいた。十分と経たないうちに、車両行き止まりの表札を発見し、その先は獣道へと変化した。戦国時代以前から強く! たくましく! 生息していると言われても疑問をもたないであろう太木がそこには多数見受けられた。
獣道には、土が痩せ、木々の根がむき出しの状態となっていた。それらの連なる根は、角度によっては昇り階段のように見えた。
さすがに、この先に屋敷はないという判断力は失っていなった菅野は、同じ道を、今度は昇って行った。自分が後、何回裏切られた気持ちになれば目的地に辿りつけるのだろうかと、絶望に満ちた詩人のような心境で、ひたすら進んだ。
頭を垂れていないと歩くのもつらくなった菅野の踵は、ふやけていき、やがてベロりと皮がめくれていた。靴下に滲んだ赤い血を確認し、痛みが増していた。応急処置として、靴の踵の部分を踏みつけ、引きずるように歩いた。
「あれは!」
思わず叫んだ。菅野の目に、毛利家屋敷の三階が写っていた。今まで徒歩で進んできた山道には相応しくない屋敷きだなと感じ、全貌を見てみようと、浮足立った。
喜ぶのは束の間であり、駐車場に並んでいる車の殆どが、使い物にならなくなっているのに唖然とした。一台は元形を留めていない状態で焼け焦げ、地面から外壁まで及んでいた。森に達する直前でそれらは消えている。火災の後みたいだった。外は明るくなっているというのに、もの静かすぎた。出かけるにも、美辞麗句探偵事務所で使っているセダンはここにある。
「もしかしたら……冗談が本当に」
身震いした自分に言い聞かせていた。屋敷の中でも、壮絶な事件が起こっているのではないか、と考えた。細部まで観察し、あらぬ想像をしている時間はないのだというのは分かっているのだが、菅野は体が侵入を拒んでいるかのようになっていた。
力が入らない手で開きっぱなしの門を開けた。さほど暗くないというのに、玄関口は電気が付いていた。毛利家屋敷の広さで圧倒され、自分のイマジネーションで牛歩となっていた矢先、建物から女性の叫び声がした。それを聞いた菅野は、一心不乱に玄関ドアへ手をかけた。