21.沸騰風呂
義高は慌てて履きっぱなしだった靴と靴下を脱いだ。鏡に映った疲労困ぱいの顔で幻滅しつつも、待っているだけで、瞼が下がってきた。スライド式ドアに寄り掛かり、立ったままひよっとして寝ているのではないかと考えた義高は、すべって風呂桶を蹴とばした激痛で完全に覚醒した。
まずは、洗場が見えるようになってきた。十個ある鏡はすべて曇っていて、脱衣所から入ってくる空気では取れそうになかった。そこで限界点があった。脱衣所にも湯気が充満し、白い気体が押し戻される形となった。湯気は湯船から際限なく発生してくる状態だった。あまりの量だったので、義高の肉眼でははっきりわからなかった。後は湯船の向こうにあるガラス窓を開けるしか手立てはない。そうするには、タイルの部分を伝って行く必要があった。
義高はお湯の異常な暑さを体感した。裸足の状態で、お湯の近くにさえ足を踏み入れるのは危険だった。仕方なく、地面を踏みしめるたんびにピシャピシャと音がする靴を履きなおし、熱気で顔をしかめながらガラス窓を開けた。
雨は幾分弱くなっていた。白い気体が逃げて行き、視界が晴れて行く。音の感覚から一部分は沸騰しているようだった。ボコボコと音を立て、周期的に水面で弾けている。
タイルを伝って戻った瞬間だった。露わになった湯船に、毛利直哉の体が浮いていた。
「うぁ」
実際は聞こえない程度の声にしかならなかった。喉の奥になにかが詰まっているようなものだった。
全裸で赤黒くなった皮膚は、健康的な日焼けした肌とは程遠かった。
今にも飛びだしそうな目玉が真上を向いていて、
息絶える瞬間まで呼吸をしようと空きっぱなしの口、
両腕は生きることを諦めたかのように開いていた。
奇妙だったのは、左足だけ沈んでいるということだった。
自分のものとは思えない足が力を失い、床に尻を付いた。しばらくそのままで放心し、汗まみれとなった顔を左右に振った。
遺体観察に少し慣れてきた義高は、身を乗り出してみた。当然ながら、脈はなかった。左足の先は排水溝にあった。穴の中からひものようなものが出ていて、足くびに縛られていた。
どうみても、お湯から出られない状況である。これで、ボイラー室なりでお湯の設定を変えてしまえば、立派な殺人である。
義高達客人は、ボイラー室なる部屋を案内されていなかった。少なくとも、これだけの湯船を温度調節するのに、家庭用のガスでは追いつかないだろうと考えた。
シャワーから出てくるお湯は温度調整可能だった。義高は、ぬるま湯を全身に掛け、次に取るべき行動を考えた。
残っている人間で、犯人候補をねん出すると、ケンジ達を抜かし、毛利剛、毛利静子、サラ子、総堂院栄太郎そして寝たきりになっている毛利元也だった。義高の予想では毛利剛か総堂院栄太郎が怪しいのでは? と考えていた。どうあがいても、屋敷のお手伝いであるサラ子に遺産が入ることはないのだし、毛利静子はそもそも、ケンジに依頼をしてきた本人だ。毛利元也は寝たきりだから問題外だとすると、おのずとその二人に殺人動機があると絞られてくる。
昨日、この湯船で総堂院栄太郎と話をしていた際、嘘を見抜いた。犯人を決定するには証拠が不十分だった。早期解決よりも、次は自分たちが狙われるのではないかという恐怖が優っていた。
それ以上、自分がなすべきことがないと判断し、重い足取りで食堂へと戻っていった。ドアを開けると、会話しているわけでもなく、さっきの三人が身を潜めるように座っていた。
「ひどい顔しているけど、どうしたの?」
それを聞いた義高は自分の顔に触れた。
「大浴場に……毛利直哉さんの死体があった」
「何だって!?」
真っ先に反応したのは総堂院栄太郎だった。同時に興味深々であり、彼は妻の後追いだと思い込んでいたようだったが、現場の状況を説明すると、急に大人しくなった。
「またなの」
いつの間にか髪の毛をブローし終わっていた亜紀が言った。それにはどう応じて良いのか分からないでいた。
「他殺、なのね」
亜紀は上目使いで聞いてきた。唾を飲み込んで喉を潤した。
「明らかに、そうだろうね」
言い切った。サラ子は排水溝にそんなひもが吊るされているなんて考えられませんと言った。
「まずは、大浴場の温度設定はどこで行っているのか教えてくれませんか?」
「管理室にあるボイラーで管理しております」
さらりと答えたのだが、総堂院栄太郎さえもその存在については知らなかった。
「ということは、この屋敷に住んでいる人しか知らないのですか?」
「ええ、そのはずです」
しばらくして、サラ子は答えた。
「では、最近ですと、いつ温度設定をされたか、または見たのはいつになりますか?」
義高は間髪入れずに聞いた。
「昨日、夕食後になります。その時は四十二度設定にしてあるのは確認しておりました」
「はい、丁度その頃、僕も大浴場を利用していましたから」
そう言うと、総堂院栄太郎は一緒に入っていたっけかな、と曖昧に答えた。案の定、異常設定であったら皆に注意を促すわけで、内緒にしていたらどうなるかぐらいは想像が付くのだろう。
「お湯は変えていませんか?」
「はい。昨晩から、大変なことが起こっていまして、そこまでは余裕がなかったので」
「わかります」
考えている時間はない、と判断した義高は、
「見て確認しましょう。管理室に案内できますか?」
と聞き、サラ子が目を泳がしたのを見逃さなかった。
「え、あはい」
明らかな動揺があった。昨日今日に知り合った人にしても、ちょっとのことでは落付きを無くすような女性ではないことぐらい分かる。その時、義高はあえて聞きだそうとはしなかった。
「少々お待ちいただけますでしょうか。管理室の入室となると、毛利剛様の許可がないといけませんので」
「なぜそこまでするんだ?」
しびれを切らしたのは総堂院栄太郎だった。動揺かと思うと、今度は誰よりも冷静に見えた。
「規則ですので」
サラ子はきっぱり言う。
「あやしいではないか。人が死んでいるんだぞ。常識的に考えろ!」
威圧されても引く様子は無かった。
「管理室には毛利元也様の延命装置まであります。それに誤って触れてしまうだけでも、大変なことになる可能性があるのです」
「まさか、三階の毛利元也様がいる部屋だったりしませんよね?」
「違います」
執拗に問いかけても、どう転としても、それ以上は決して口にしない頑なさがあった。ご主人様への忠誠だとしたら、義高の方が折れるしかなかった。
「わかりました。でも、この中に必ず犯人が居るんですよ。そのことだけは忘れないでください特に」
サラ子は察していた。温度調整が出来るのは、自分を抜かして二人であると。
「皆で、一緒に行きましょう」
反対するものは居なかった。皆、共通して五十段余りの階段でつらい表情をしていた。三階へ上っていくと、毛利剛の部屋から出てきた毛利静子と出くわした。サラ子はさっきまでの出来事を迅速に説明し、あっけなく許可を得た。
「そもそも、管理室ってどこにあるんですかね?」
毛利静子は大事な用事を思い出したかのような反応をした。
「申し訳ございません、説明不足でしたね。管理室は地下にあるんですよ」
「地下って?」
どっからどうみても、一階の階段から下に行けそうにはなかった。床の下に隠し階段のごとく的展開であれば別だった。顔を見合われせていた義高達を見かね、
「非常階段から下に行けるんです。鍵を取ってきますので、もう少し待っていてください」
そう言って、自室に戻り、輪にいくつかの鍵と、海賊船のキーホルダが付いたものを持ってきた。
「付き当たりを左手方向です」
三階からの非常階段を下りて行くと、二階のバルコニーに通じていた。
「鍵は、毛利静子さんの部屋のみにあるんですか?」
「いえ、私の他に、主人の部屋とサラ子さんの部屋にもスペアがあります」
亜紀が顔を向け、サラ子は大きく頷いた。
さらに階段を降りて行くと、一階から外へ行くドア、そして地下への階段もある。丁度一階分降りたところで締め切っていたドアがあった。毛利静子はドアノブに鍵を差し込み、時計回りで半周させていた。
「あれ、可笑しいわね」
完全に素になった毛利静子を見て、噴き出しそうになった。疲労とかでバイオリズムが狂って来ると、誰も笑わない場面であったり、笑ってはいけない場面において、笑いそうになる習性が義高にはあった。
ドアに引っ掛かりがあり、力を込めても、金属同士の鈍い音が聞こえるだけだった。結局元の状態に戻すと、ドアが開いた。
「誰か、閉め忘れたのかしら?」
毛利静子はドアを開けながら、サラ子に訪ねた。その目は真剣だった。
「いえ、昨日は閉め切ったのを確認していましたので」
「そう」
不穏な空気が流れた。こうなっては総堂院栄太郎であろうと、どうにもならない。
地下室は、建物の面積の半分以下しかなかった。二部屋の内、右手側に見えたのが倉庫だった。
「物はあまりありませんので」
確かに、倉庫がいくつあったとしても、エレベータもないので不便である。左手側にあるのが管理室だった。地下室の入口と同じく、最初っから鍵はかかっていなかった。
他の階と比べると、あまり手入れされていない様子だった。セメントバリの壁もくすんで、今にもカビが生殖しそうな感じであり、配電盤に似た温度調節器も古く、ほころんでいた。
「ごらんのとおり、あまり高い温度には設定できないよう、ストッパーは付いていますので」
セブンセグメントのデジタル数値には42℃と書かれていた。
「じゃあ、故障ではありませんか?」
「ちょっと、そこまではくわしくありませんが……」
どうしてだか、毛利静子は毛利剛の死因よりも、管理室に立ち入ったものに心を奪われているようだった。
大浴場の温度異常設定の原因は不明のままだが、一度、ケンジ達と毛利剛を集め、現状の報告をすべきだと思っていた。その時点で時刻は午前九時になっていた。