17.河川ダイブ
タクシーを降りて、呆然と眺めた菅野の目先にはコーヒー牛乳色の河川があった。馬場は切り返しをして、車体を反対方向に移動していた。
「ちょっと待ってください!」
当然だろうと考えていた馬場は、アクセルを止めた。エンジンまで止めて、菅野に歩み寄ってきた。
「ここら辺では、橋が破壊する位の豪雨もあるんですね?」
支えとなるワイヤが垂れさがり、コンクリート部分が少し捻じれている。
「うーん、あまりこの道は通らないんですが、初めて見ましたよ」
後頭部を掻き、無線で他のタクシーに情報展開しようか迷っていた。
「それにしてはあっさりしていますよね。本当に初めてなんですか?」
「あの〜疑っているのですか?」
鋭い眼光だった。小太りにパンチパーマ、昔はやんちゃしていたタイプの男だ。
「いえ、橋が破損するのは良くあることかを知りたかっただけです。ちょっとした推理をしているのです」
客のたわ事には慣れていた馬場は、会話が広がらないよう旨く交わしていた。
「どうしますか? とりあえず進めませんから、戻るしかないですよね?」
念を押してきた馬場の返事を返さず、菅野は携帯電話が圏外になっていることを確認すると、握りしめてギシギシ音を立てた。財布の残金が、帰りの交通費を下回っている。
「今から言う人に連絡してください」
「はい、どうぞ」
それを聞いた馬場は地元村長への報告を思い浮かべていた。
「東京都Y警察署捜査一課の根本孝治、目の前にある状況を説明して頂き、目的地である毛利家屋敷に連れてくるようお願いします」
根本の電話番号までは知らなかった。馬場はメモを用意し、指にツバをつけてページをめくる。
「えーと、はぁい?」
素っ頓狂な声をだした馬場に対し、気にせず波打った河川を見ていた。
「お客さん、東京都の警察って、ここからじゃ連絡できませんよ」
「かまいません」
「じゃなくて、ここからタクシー会社の事務所に戻ったら、連絡まで最低二時間はかかりますよ?」
無益で頼んだ手前、流石に二時間はかかり過ぎだろとは突っ込めなかった。
「知っています」
あまりの態度に諦めた馬場はタクシーを発進させた。どう考えても泳いで向こう側に渡れないだろうと思った菅野は、歩き始めた。
強気に出たはいいものの、川沿いを歩いて間もなく道がなくなった。草木が人間の侵入を拒み、足元のぬかるみが不快感を与える。
「飛び越えるしかないか」
と言うと、つり橋の方まで戻り、煙草に火を付けた。向こうまで距離にして十メートルはある。濁りきった水面から深さを特定できなかった。流れの強さは大人が流されるのには充分である。
携帯電話や推理小説が入ったバックを茂みに隠すと、両手で頬にビンタを食らわした。毛利家到着という使命感を課し、自分がどれだけ無謀なチャレンジをしようとしているのかを失念していた。
助走距離を三十メートル取り、三回目まではつり橋の直前で足が止まった。もうこれ以上臆せば二度と飛べないのではないかと懸念した菅野は、雄たけびを上げ、一気に駆け抜けた。
「やっぱ無理!」
体は五メートルの距離を飛ばすして落下していった。みるみる川底に吸い込まれて、鈍い音と共に着水した。必死に足掻いた。全力で手足を動かしても体が流されて行く。
「助けてくれ!」
という叫びも空しく、近くに人などいなかった。運動不足の脚が悲鳴を挙げ、断末魔の表情となる。手だけを動かし、脚を弛緩させた。
「あれ?」
伸ばした足裏が底に置かれていた。深さは肩ぐらいまでしかなく、地に足を付いていれば、大きく流される心配もなかった。それを知った菅野は急に安心し、再度泳ぎ出すと、向こう岸まで辿りついた。
その場で服を脱ぎ、雑巾絞りした。上着、ズボン、下着まで終えると、ポケットに入っていたよれよれの煙草を見て舌うちし、仕上げの靴下に取り掛かった。
距離的にはそれ程ではないというのが推測だった。道なりに歩いて行けばいずれ付くだろうと考えた菅野は、靴に沁み込んだ川水で間抜けな音を立てながら歩いて行った。
「待ってろよ、美辞麗句探偵事務所の皆」
突き動かしているのは正義感だった。表情は晴れやかだった。今度は皆の役に立ち、あわよくば主役になる。自分勝手な想像が本当の事になり、それを上回る事態になっていることは知る由もなかった。