11.最後の平和な晩餐
8
夕食の用意が出来ましたという、サラ子からの知らせがあった時は午後の六時だった。義高らは延々しゃべっていたから、時間の感覚がまったくなかったのだ。一階の食堂には西洋の騎士が身に付けていた鎧が二体オブジェとして左右に存在した。それぞれ武器を持っていて、右側の鎧は剣を、左の鎧は斧を所有していた。どんなボディーガード、SPよりも緊張感のある存在だった。縦長のテーブルには果物がバスケットに入っていて、トータル二十席の椅子が存在していた。テーブルクロスは食欲をそそるオレンジ色だった。その上には、人数分のグラスが揃っていた。暖炉があり、調理場へ続くドアが存在し、熊の剥製があった。義高は悪趣味だとは思わなかった。これだけ高級志向を貫いている毛利家に尊敬の念さえあった。普段味わえない空間を実感することで、又とない体験をすることが出来たことは感謝だった。上座は毛利剛であった。
皆が席に付いていて、ケンジは最後に姿を見せ、毛利静子とサラ子が協力して前菜の料理を運んできた。生ホウレンソウにベーコン、トマトを和えた前菜でも、雰囲気から高級感があった。食膳酒でシャンパンとワインのボトルが運ばれた。皆それぞれ好みのアルコールをグラスに注ぐと空気は静まった。
「それでは家族と、若者の集まりで乾杯をしましょう」
皆がグラスを手に持った。乾杯の音頭をとる毛利剛はとても楽しそうだった。皆がグラスを手に持った。義高はシャンパンをこれまでに飲んだことのない酒のように感じた。実際高値のシャンパンなぞ縁がなかった。お酒が飲めないのは総堂院幸子だけで、ノンアルコールのビールを用意してもらっていた。社交界が存在するのであれば、こんな感じなのだろうなと愕然に想像した。ケンジの表情も穏やかだった。亜紀とユキ子はオードブルが運ばれてくる前に酔っ払っていた。真っ赤に染まった頬がゆでダコを思わせる。それは、年配者かつエリート集団にフレッシュな空気を注いていた。毛利直哉も総堂院栄太郎も鼻の下を伸ばして接している態度は面白かった。両者とも酒豪であり、一人でボトルを一本開けても酔った様子は見せなかった。毛利静子は主菜を運び終えると、サラ子に後は任せて席に落付いた。
「皆さん食べながら聞いて頂きたい。今回集まって頂いたのは本屋敷の統領である毛利元也の遺産相続をどうすべきかということがメインになる」
場の空気が張り詰めた。誰もが毛利剛の言葉を聞き洩らさぬよう構えた。わかりやす過ぎるのではと義高は感じていた。所詮家族の絆はそれを核として繋がっているのだと落胆した。
「毛利元也は書き置きを残している。それを今から発表したいと思う」
毛利剛はワインを飲みほして一息ついた。誰もそれに釣られなかった。食堂に鳴り響く物音は風のせいであった。鎧戸で締め切った空間は外気を遮断していた。濃密な空気は食堂内を駆け巡り、生き場を失っていた。毛利剛は一枚の紙切れを出した。
「これは毛利元也の筆跡であることを証明している。過去の書類と照合すれば疑いは晴れるだろうが、今は手段がないことを了承してほしい。心配なら私に言って欲しい。直にでも過去の書類を渡す」
酷くじれったいと思った。アルコールの投入された体は早い展開を要求していた。
「では発表する。私は日々の業務をこなしている最中にたびたび片頭痛に悩まされるようになった。普通の痛みであれば気にしない程度であるのだが、時々頭が割れるのではないかと思う激痛がある。疾であると認めているわけではないのだが、万一のため、この書き置きだけは残そうと考えた。最初に言っておく。毛利家の人間は、私の遺産を相続した場合、毛利家に恥じぬよう、適材なる運用を心掛けるように。
■遺産について
私は家族全員へ平等に分け与えることを望んではいるものの、本心としては戦争を経験した兵隊としてはそれを満足しないのだ。自己の性分として承諾してほしい。平穏に暮らしていて、いずれ私の遺産が入ってくると安心し、道楽に進んでもらっては子孫としても恥じるべき存在になってしまう。弱き心を持ったままにして貰いたくはないのだ。それは私には耐えられない。後悔の念を持って去っていきたくはない。そこで考え出した結論は、兄弟で争ってもらい、相応しい人物に遺産を与えたいと考えている」
「どういうことだ?」
間に入ってきたのは総堂院栄太郎だった。
「よくわからないですわ。何で争えば良いというのです?」
毛利薫も同調していた。むしろ分かっているのは毛利元也だけだと感じた。これ以上家庭環境の悪化を促進してどうするのだと義高は思った。
「父親らしい書き置きだとは思わないかね? 皆は父親にあまり関わり合いがなかったから、このような単純な内容も理解し難いのかな?」
「なんだと。兄としても聞き捨てならないぞ」
毛利直哉は対抗意識を燃やしていた。
「まあ、そう腹を立てるな。争えと言いつつ、具体的な内容については一切触れていないのだよ」
毛利剛はそう言うと、紙きれを皆に提示した。ボールペンのようなもので書かれた毛利元也の直執用紙は、うらぶれたもので、誰でも書けるような代物だった。毛利家一同が異論を言わないのは、恐らく直執であると認めていた証拠なのだろう。育ての父親にそれだけの関心があったのだと信じたかった。
「この平和な世の中で争えなんて物騒な内容でもある。私は穏便にことを済ませたいと思っている。それだけは理解してほしい」
毛利家の人物は皆、頷いた。まるで寝たきりの毛利元也に、別室で食堂のやり取りを聞かれているかのように大人しくなった。
「そこで私の提案だが、明日の朝までに皆の意見を聞きたいと考えている。ご存じの通り毛利元也は何も判断できない状況だ。私が遺産相続の条件を決めてしまってもよいのだが、皆の言い分もあるだろう。それ故、時間を与えるので考えてほしい。今ここで突発的な意見を聞くよりも、練った意見が聞きたいのだ。異論はないかな?」
「意見が分かれた場合はどうするつもりなんだ?」
毛利直哉は質問した。
「私には権限はないのだよ。皆で納得するまで議論すればいい。すでに毛利元也から離れているんだ」
義高は今から朝まで議論すると言いださなくてよかったと思った。既に慣れない環境での緊張から眠気さえ覚えていた。とは言え、自分がいなくても議論してもらっても支障はないのではあるが、依頼された側としての責任感があった。
食事が終ると、張り詰めた空気は和やかになった。遺産相続の話はなかったことにしているぐらい切り替えが早いのだ。部外者であるケンジ始め、遺産相続の会話へ入りこむ隙がなかったので非常にありがたかった。
ケンジは総堂院幸子と話をしていた。義高は会話に入れず、何となく聞いていた。女性陣が二人のやり取りを気にしていると、男性陣も釣られていた。但し毛利剛だけは酷く落ち着いていた。
「お酒はまったく飲まれないのですか?」
「飲まないの。下戸なものでまったく飲めないわ。飲むと眠くなるもので。でも今日は雰囲気で酔った気がする」
総堂院幸子は微笑んでいた。最初に見たときと比べても、顔色がよくなっていて、健康的だった。
「雰囲気で酔えるなんて良いではないですか。非常にヘルシーですし、場の空気というのは大切なんですね」
ケンジも顔を傾けて微笑んだ。自分との対応が全然違うと義高は思っていた。ユキ子は睨んでいた。
「趣味とは習いごとはされているのですか?」
「そうね、茶道等はしているわ。礼儀作法はそのような習いごとで覚えたと言っても過言ではないの」
「素晴らしいですね。日本的な女性には憧れがあります。ご主人が飲食店経営をされているということで、お茶も含めて食に拘りはありますか?」
「ないと言えば嘘になるわね。新メニューの試食をしたりしているの。極力味覚が鈍らないよう努力はしているわ」
味覚は煙草や酒、濃い食物でも低下するということだ。栄養素では鉛が不足しないよう心がけているという。総堂院幸子は説明に熱が入っていた。落ち付いていた毛利剛が、一瞬険しい顔になった。
「ケンジさんは何か遣られているの?」
「ギターを弾くぐらいで後は、ジムで体を鍛えているぐらいですね」
ケンジはどのような曲を演奏するのかを聞かれ、いつものロックバンドではなく、聞いたこともないような古い歌謡曲を回答し、総堂院幸子は若いのに気が合うわねと喜んでいた。
見習った義高は、詰まらなそうにしていた毛利薫にシャンパンを注いだ。
「若いのに、気を使わせちゃって」
「いいえ、僕のような普通の若者が、この屋敷きに招かれただけでも嬉しいんです」
正直な感想だった。
「あなたは大学生?」
「ええ、そうです」
「恋人はいるの?」
「あ、いや募集中です」
「女の子のどちらかが好きなのかしら?」
酒の力なのか判別できなかったが、毛利薫の眼は、身に付けている宝石よりもぎらついていた。
「そういうわけではありません」
引きつった微笑みをし、純粋なのねと返してきた。
「アクセサリーが好きなのですか?」
「そう、集めるのが好きなのよね」
あまりそっち方面の知識は明るくなかったせいもあり、会話が盛り上がらなかった。
「おばさん相手でごめんなさいね」
「いえいえ、人見知りしているだけですので」
「そう。社会に出たら、少しずつでも直して行かないとね」
「はい」
目が座ってきていると指摘され、夕食の時間は和やかムードで終わった。総堂院夫妻を除き、プレールームでビリヤードと卓球を行った。立場を忘れて楽しいひと時を過ごせた。
ビリヤードは毛利剛とケンジが圧倒的に上手であり、卓球は毛利静子が一番上手だった。義高はビリ決定戦と、敗者への罰ゲームがなくてよかったと思うばかりだった。以前まで所属していた大学のサークル合宿では必ず行うからだ。自分がそういう立場になっても笑えるリアクションが出来ない。さすがに大学生でいじめ的な要素を求める人物はいないので、痛々しい光景を見ることになると皆引いてしまうだけだ。
酔い覚ましで大浴場に入った。脱衣所から人の気配を感じ、中に入ってみると総堂院栄太郎がシャワーで体を洗っていた。義高も手早く体を洗って、大理石の浴槽に漬かっていると、総堂院栄太郎は裸体を隠すことなく隣に座った。
「良い湯だな。君は大学生か?」
義高は自分の名前を付け加えてそうですと言った。
「俺が大学生の頃は大変だったな。戻りたいとは思わない」
「なぜでしょうか?」
昔の追憶を美化する話は頻繁に聞いていた。が、その対極はなかった。
「制度が安定していなかったし、暴れる生徒が多かったからな。身の危険を感じる時が多かったよ。武装したもの同時が争いをしている状況で、勉強など出来ないだろ」
「確かにそうですね」
「社会に出ればお金を持って、自分で環境さえ選択できる。すごく大切なんだなこれが」
総堂院栄太郎は悦に入っていた。湯をすくって顔を洗らう様子は普通のおじさん、もちろん口には出さなかった。
「但し、今の状況は争いの前兆になっている。ひどく嫌な予感がするね」
開ききった毛穴が、閉じていく感覚があった。
「具体的はどのような予感ですか?」
「それはわからんよ。でもな、お金の争いは必ず起こるよ。金額の大小というよりも、毛利家には天性の負けず嫌いが揃っている。争い嫌いな自分から見ると、異常なぐらいに思える。遺産を受け取らずに、はいそうですかと言い切れるやつは、自慢するわけではないのだが、俺の妻ぐらいしかいない」
わかりますとも言えず戸惑うばかりだった。
「だから、私達夫妻は早々に面倒なことを肩付けてほしいんだ。遺産なんてどうでも良いから、ただ新戚の交流として楽しみたい」
総堂院栄太郎はのぼせてしまうと言って先に浴槽から出た。義高は湯船に潜って懐かしい感覚に捕らわれていた。
この感覚は読心だった。
総堂院栄太郎は嘘を付いていた。
彼も遺産に執着しているのだと確信した。