幼馴染の訃報
幼なじみが死んだ。もうずっと、病に悩まされ、闘病してきた彼女が死んだ。小さい頃から、ともに遊び、いつしか同じ夢を持ち、同志ともいえる彼女と、生活が変わって会わなくなって久しい。
訃報が届いたのは、日曜の朝だった。同じく仲のよかった友人が、一年の煩悩を払おうと忘年会を企画したが、彼女には連絡がつかなかった。全国的に寒波が襲い、朝から殴りつけるように霙が降っていた。夜に降り積もった雪で、ふだん降雪地帯ではないこの地域は、すでに交通網が麻痺し、慣れない雪に車も出せず、バスも電車も遅延した。
今日が、日曜日でなければどうなっていたかと、ぼんやりと窓の外を眺めて、どれぐらいの時間が経ったろうか。彼女の不在を信じることができない。
ふと何も考えられない頭で、電話を取った。気が付けば実家に電話をかけていた。思考が停止した後は、ずっと深くにインプットされた行動様式が発動する。電話にでたのは母だった。
実家はこの寒波でも雪は降らなかったらしい。ほんの少し霙のようなものが降っただけで、後はずっと雨だったと、母が言った。美野里のことは母も知っている。私たちは幼なじみで、よくお互いの家に行き来して、二人してずっとお絵描きをしていたのだから。
上手く話せたかは分らない。泣かずには話せたけれども、自分が何をしゃべったのか、頭の中はまとまらず、必要なことをきちんと話せたのかは分らなかった。それでも美野里の訃報を伝えたら、母は電話口で押し黙った。昨日の朝、メールで訃報を受けた時に、周囲の時間が止まったような感覚になったことが想起される。あの時の私は、裕に一時間以上、窓から交通網の麻痺した雪の日曜日を眺めていたのだった。時間の感覚なんてない。束縛が解けた時、時計を見て時間の経過を知ったのだ。
電話口から伝わる、そんなデジャブのような感覚。凍結が解けた時、母は言った。
「やっぱり、そうだったの…。何かあったんじゃないかって、思ってたの」
美野里はうつを煩ってパッケージデザインの会社を退社した後は、ずっと実家に戻っていた。母はこの数年、時折彼女をスーパーなどで見かけたのだという。他人の目が怖いのか、いつもうつむくように、そして見つからないように息をひそめているようだった、と母は言っていた。それでも、昔から知っている母と出会った時には、昔ながらの人懐っこい笑みを浮かべて、挨拶を交わしていたと、母は言っていた。
美野里にとって、それが、そんなに簡単なことだったとは思えない。人目に怯えながら、それでも人のいる場所に出向いていたのは、きっと、何かと闘っていた証なのだと思う。
そんな美野里に、この数ヶ月、母は全く会ってなかったと言った。こんなに長い間見かけないのはこれまでに無かったらしく、美野里を心配する母は、病気が悪化して外出がままならなくなった可能性を危惧していた。さすがに、亡くなっていたとは、ついぞ思っていなかったが。
ちょうどそう思い始めた矢先、美野里のお母さんとも、母は会わなくなってしまったらしい。なんとなく避けられているような気がして、母は自分の危惧があたっているのではないだろうかと思ったと行った。
美野里は大丈夫なのか、と年が明けたら私に聞くつもりだった、と母は言った。そこまで言って、母はもう電話では何も言えなくなってしまった。
私は美野里に腹がたった。どうして、一人で逝ってしまったのか。どうして、これほど悲しい思いを私たち周りにさせるのか。もう少し、頑張れやしなかったのか。ちょっとだけでいいから、手を差し出してくれれば、という気持ちをどうしても抑えられなかった。




