31:「飛ぶ蝉そまれ、青いあお」
親は、いつも私についてきた。
この年になったら、どこにだって一人で行けるはずなのだけれど、いいから、と親は笑顔を作る。
海にいきたいと、思った。まだ一回もいったことが無かった。
学校や、家や、その行き帰りだって一人で行けるのに、変だ、と私は言った。
何かあったら危ないじゃないの、と母親は悲しそうな顔をする。
私は、ついてこないで、と機嫌悪く言う。確かめるように、絶対ついてこないでよ、と。
1
友達と一緒に行くと言った。初めての嘘。……正確には、初めての”大きな”嘘だった。でも、それだけ、胸が高鳴っていた。
張り切って、胸を張って家を出て、駅に着いて、電車に乗った。駅のホーム。雑音の混じったアナウンス。冷房の効かない車内のひんやりとした手すり。バス停にたどり着くまでは苦労した。
案内板のアナウンスを探して歩いたけれど、どこにも見つからなかった。歩いて、歩いて、赤信号の時に勇気を出して聞いてみた。
「すいません」
「はい」
人が居た。きっと同じくらいの子だ。私は、少しほっとして、胸を撫で下ろした。
「海に、行きたいのですが、バス停が分からなくて」
「えっと、そのバス停は……この交差点の……」
声が一瞬途切れたあとに、小さく聞こえた。
「もしかして、あなた」
私は慌てて軽く服を整え、髪も確かめながら、恐る恐る確認をしてみた。
「なにか、変なところありますか?」
「あっいえ、ごめんね、大丈夫、大丈夫」
「……そう、良かった」
私はほっとしていた。
青信号になったと同時に、その子は、「こっちよ」と私の前を歩いた。
「私も、たまたまそっちに用事あるから一緒に行きましょう」
「え、そんな、悪いです! 迷惑になるし、歩くのも遅いし……」私は驚き、気がつけばそう返していた。
「そんなことないよ」
その子は前を歩いていた。「そんなこと、ない。」
後ろを歩く私は自然と、ありがとう、と呟いていた。二人の歩く音が重なり、風がその音を運んでくれた。
バス停で待つ間も、バスに揺られる間も、バスから降りた後の潮の風に包まれた後も、その子との話は尽きることが無かった。
「へー、海に行きたかったんだ」
「うん」
「ほかに理由があるわけでもなくて?」
「うん、ただ海に触りたくて。……なんか、変かな、私」
「んー、別に変ではないと思うよ。私だって、たまにそういう気持ちにだってなることあるし……」
「そっか、……よかった」
私は自分自身に確かめるようにつぶやいていた。
そんな私に向かって、彼女は苦笑いしながら言葉を続けた。
「私だって、今日はただ海を撮りたくなって海に行くんだしね」
2
「じゃあ、私はこっちに用事があるから」
「うん、またね」私は小さく手を振った。遠ざかる足音。耳元で鳴る風。まだ聞こえない波の音に向かって、私は一歩一歩確かめるように歩いた。日差しが強いせいなのだろう、柔らかい砂からの熱で、汗が流れ落ちていた。
肌がひりひりする。喉が渇く。肩から下げた鞄から飲み物を取り出す。風に乗って波の音がここまで届いた。あと、もう少しだ。一歩、また一歩と不安定な砂の上、たまに固い小さな何かを踏みながら、私は波の手の届く所までやってきた。
波が足下までやってくる。合間合間の風が涼しかった。人の声が波の音の中に聞こえて消えた。とても、とても、楽しそうだった。
素足になって、波の届くか届かないところにしばらく居た。吹く風は冷たく、波も冷たく、横を子供が走って通り過ぎていった。その後を親が名前を呼びながら通り過ぎていく。親子の笑い声の後、誰かが私に向かって声を投げかけた。
「あっ、居た居た」
走って近づく案内をしてくれたさっきの子の声に私は振り向く。
一瞬の風に髪がなびく。息を飲む気配に私は髪をかき上げ、耳にかけた。私に投げかけようとしていた言葉を風に流されてしまったような無言。私は、言葉を待って立ち止まっていた。その冷たい風に私は素足をさらし、波の届かない熱せられた砂は私の歩みを拒んでいるようだった。そして、おずおずと紡がれる言葉に私は、思わず、少し、照れてしまった。
「……ごめん、あまりにも素敵な絵だったから、一枚撮らせてもらったけれど、よかった?」
「うん、別にいいけれど。」
と私は、恥ずかしさを隠すように、えへへと笑った。そして、気になることをたずねた。
「……用事はどうしたの?」
「そんなの、すぐに終わった、終わった。」
そして、近づき私の隣に立った。
「せっかく一緒に来たんだし、一人で帰ってもなんだしね」
私は、そう、とだけ返して、少し考えて、一応お礼を言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
無言、お互いに少し気まずくなったのか、一緒に小さく笑った。少しだけ、ホッとしていた私がいた。
「帰りは、どうするの?」
「やっぱり、バスかな」
「オッケー」と、あの子は、私の前を歩く。あっと声を上げた。
「どうしたの?」
「自販機あるけど、なにか買う?」
私は、嬉しかったから、口から言葉がこぼれた。
「私、冷たいお茶が飲みたい!」
「よしきた!」と、その子は軽やかに走り出す。私は、飲む前から嬉しさから笑顔もこぼれた。
私の歩く音が聞こえる。一歩一歩、歩いていると、同じように誰かが歩いてくる音がした。
私は立ち止まり、少し横へ逸れて避けようとする。縮まる距離に、砂を踏む音。風にはためく服の擦れるような音。軽い息遣いが空気を伝い、届く。私は、思わず、手に持っていた杖を落としていた。乾いた軽い転がる音の後に、立ち止まる足音、振り向く気配に私は口を開いた。
「あの、すいませんが杖を拾っていただけませんか?」
無言の後に、動く気配があった。そこへ、「あっ」というあの子の声がした。同時に声の聞こえた方へと振り向いた気配を感じた。私が杖を落としたことに気がついたのか、慌てたみたいで、せっかく買った飲み物を落としてしまったようだ。杖を拾った人は、急いで私の手に杖を持たせ、足早に立ち去っていった。
走って戻ってきた女の子は、私の前で立ち止まると口を開いた。
「落としたの? 大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「そう……」
おそらく、訝しげにさっきの人を見ているであろう彼女に、私は飲み物ありがとうね、話を振った。
「あー、それなんだけど、ごめん、お茶、一度落としちゃった。」
「いいよ、そんなの」
「はい」と、私の手にペットボトルが渡される。
「ありがとう」
「どういたしまして」
私たちの間に交わされた言葉が尽きることはなかった。
「用事って、写真を撮ることだったの?」
「そう。って言っても、写真をそのまま飾るわけじゃなくてね。部活で絵を描いているんだけど、今回のテーマが海だったわけ」
「そうなんだ」
私は、ふといつも感じることが頭に浮かんだ。今までずっと疑問に思っていること、だけど誰にも聞けなかったこと、それを彼女に聞いていた。
「どうして、……絵を描こうと思うの?」私の周りには、絵を描く人はいなかった。だから、誰にも聞くことができなかった疑問。わざわざ、今見ているそのままを写せる写真があるのに、同じ景色を描くことに意味があるのか、という。
「んー、随分と意地悪な質問だなぁ」と、彼女は困ったような声で言った。
「あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」私は、自分のした質問の意味に気がつき、慌てた。
「いいよ、いいよ。意地悪で言っているかいないかくらいの区別はつくし、真面目な疑問には、真面目に答えなくちゃ、ね」と、彼女は笑う。
そして、んー、とか、おー、とか、ふーん、とかと言葉を選んだ末に、私に言葉を返してくれたのは、「私の中の今を、とどめておきたいから、かな」だった。
3
「バスはどっち?」
「えっと、今向いている方へそのまま歩くと着くよ」
「そう、……ありがとう」
わたしと彼女は、横に並んで歩いていた。
こうやって、ただ歩いていく間にも流れていく、かけがえのない一瞬一瞬を私は本当に感じられているのだろうか。みんな同じ景色を見ていても、感じるものはそれぞれ違う。その違いを知りたいし、知ってほしい。今、私が何を感じて生きているのか。未来の私がその絵を見て、ああ、あの時の私はああだったんだなって言えるような。今の私は、こういう風に感じているけれどな、と言えるように。
私たちは、バスに乗った。言葉はほとんど交わさなかった。あの子がどんな表情をしているのか、何を見ているのか。さっきまで同じだと思っていた彼女のことが、私には想像することができなかった。たくさん聞きたいこと、言いたいことはあった。でも、全部、胸の中にしまった。遠いどこかに向かって進む姿勢に、胸を打たれなかったわけではない。でも、それ以上に激しく沸き起こる感情のために、胸をさすらなければならなかった。家から出たばかりの胸を弾ませていたときの気持ちはどこに行ってしまったのだろう。この胸の痛みはどこからくるのだろう。この子の言葉が私の胸を突いた。でもわたしに、胸の中の気持ちを打ち明けるだけの勇気はどこにも見当たらなかった。私はずっと頭のなかで繰り返されるあの海の波の音の中にいた。名前の知らないこの感情は一体何なのだろうか。
あのさ、とバスから降りた別れ際に彼女が口を開く。私は、どうしたの? と、返した。
「私と一緒に、写真に写ってくれない?」
私は、頷いた。
「うん、いいよ。その変わり、……」
私は手をにぎりしめ、覚悟を決めて口を開いた。
「あなたの……顔を見せてくれないかな?」堂々とはいかず、おずおずとも言い切れず、おどおどが一番近かったかもしれない。
そんな私に、一瞬の無言の後、彼女はあっはっはっと声に出して笑った。
ムッとした私は、「何がおかしいのよ」と唇を尖らす。
「はっはっ、ごめん、だって、今までそんなこと言われたことなかったから」と、まだクスクス笑っている。
私は、はぁとため息をつき、やっぱりダメかと諦めようとした時、彼女は言った。
「良いよ、どうすれば、私の顔を見れるのかな」
諦めかけた息を飲み込んだ私は、口を開いた。
「えっとね、……」
4
「お帰りなさい」
私は無言で、お母さんに向かって歩いていた。体に手を触れ、顔へ触れて表情を確かめる。
「ただいま」
ああ、お母さんだ。そして、ぎゅっとお母さんの着ている服に顔を埋める。香水の匂いや潮の香りもしなかった。だけど私は、嘘をついた。
「お母さん」
「んー、どうしたの?」
「私の後をついてきたでしょ」
無言、お母さんはいつも、何か隠そうとするとき言葉を選んで話す癖がある。
私は、そんなお母さんをぎゅっと抱きしめてつぶやく。
「お母さんの嘘つき」
大好きな、お母さんに向かって。
「でも、お願いを聞いてくれたら許してあげる。」
「……どんなお願い?」否定しないお母さんに、やっぱりと、私は思いながら、笑顔が溢れる。
「あのね、私、今度行きたいところがあるんだ。友達が、絵を描いているんだけど……」