3.誘拐犯VSメイド
「ですから、警察の事情聴取の時には、気持ち援護気味に証言します。時間がれば口裏合わせをしてもいいかもしれないですけど、どうします?」
彼が何を言っているのか分かならなかったのだろう。男は勇ましく鼻を鳴らした。ただそれだけだった。
ちょうどその瞬間だった、一本の細い手が車窓をつかんだのは。
物と物が躊躇なくぶつかり、鈍い音がたった。
車体が大きく上下。走行中の車に人一人の体重が引っ掛かったのだ。いくら彼女が身軽でいくら大型車だといっても、ぶつかってはいけない物同士がぶつかればそれ相応の音が出る。安全運転する大抵のドライバーなら、まず聞いたことのない音。
湯崎も目で見て理解したわけではないのだろう、だがその異様な轟音と重力に悲鳴を上げた。何が何だか分からないまま、ただ反射的に急ブレーキを踏む。速度を出していたわけでもないが、男は車内でつんのめって頭をぶつけた。リラックスしきっていた横っ面をひっぱたかれて、男が異変に反応できたのはその時だった。
「なんだ今の」
「やば、何かぶつかった」
「お前、まさか猫でも轢いたんじゃ」
「違う。そんなんじゃない」
湯崎の顔が一瞬で真っ青になる。電話がつながらないのとはレベルが違う、最悪の想定外が脳裏を埋め尽くしているのだろう。
「もっと、大きな、ひ、ひ」
人.
轢き逃げ。
いや、まだ逃げてないが、二人はそう思っているに違いない。
その想像が間違っていることを浅瀬川は知っている。そして二人の心を占める最悪な想像をある意味更新するかもしれない、これからやってくる悪夢について考えた。
「きゅ、救急車ー!」
「ウアアアーッ!」
獣のような雄叫びとともに窓ガラスが飛び散る。
そのまま獣じみた機敏な動きで車内へ飛び込んできた影。それをよくよく見れば、かすり傷ひとつ負っていないことがわかるだろう。
「坊ちゃん、ご無事ですか!」
影は叫んだ。獣ではない、れっきとした人間だ。それもまだ若い女性。
彼女の名は山田。どこにでもいる金持ちに仕える、あまり見かけないタイプのメイドだ。軍人でもなければスタントマンでもない。しかし、その尋常でない身のこなしと怪力を見て、そう判断できるものがどれだけいるだろう。
「山田さん、ごめんなさい。少し、というかだいぶ油断してました」
衝撃でくらくらする頭を押さえて浅瀬川は言った。出来るだけ大ごとにならないように言葉を選ぶ。
「不埒者のふざけた宣戦布告を受けて一直線に参上しました。誘拐されたと聞いたときは私、どう責任を取ろうかと……」
山田は普段のエプロンドレスを着たままだった。本当に夕食の縦鼻中に電話がつながったのだろう。そして是も非もなく一直線に跳んできた。
彼女が言うのだから文字通り一直線に進んできたのだ。彼女にとっては走行中の大型車にダイブも、障壁を越えたり、その上を走り抜けるのも大した困難ではないことを、彼女との付き合いの長い浅瀬川は知っている。
浅瀬川が誘拐に対して、およそ動じなかったのには彼女の存在が大きい。十に及ぶ彼の誘拐経験のうち六回がこの山田によって阻止されてきた。その度にあまり器用ではない彼女は毎度毎度大立ち回りを起こし、混乱を大きくしながらも無事解決してきたのだ。初めのうちは怪物だのなんだのと蔑まれる時期もあったが、近所の人たちからはもうまともに驚いてもらえない。むしろちょっとしたヒーロー、とまではいかなくとも有名人のような扱いを受けている。
さらに浅瀬川の通う学校には、彼女のファンクラブも出来ているらしい。
彼自身金を持っているというだけで、周りからやっかみを受けている。なぜ使用人のほうが、と訝しんだ。話を聞かされた時点では碌に信じてもいなかった。
ある日の誘拐事件。気楽に誘拐された浅瀬川は、犯人を名乗る複数の女子生徒と話をしたことがある。今回の二人にも負けず劣らぬ気のいい子たちだった。誘拐の目的が浅瀬川本人でもなく、金銭でもなく、助けに来る山田にあると聞いて謎のショックを受けたのも記憶に新しい。
それにしても。と浅瀬川は不審に思う。
どうして山田さんは、毎回毎回自分の居場所が分かるのだろう。それこそ今回のような事件に備えてGPSがつけられているのはまず間違いないのだが、どこにつけられているのかがわからない。仕掛けたのは山田さんで、彼女なら場所を知っているのだろう。
別にそれを見つけ出して解除しようという気もない。何となくむずむずするから知っておきたいだけなのだが、答えを聞いたら負けな気がして尋ねられないでいる。
「無事だからよしとする」
山田は頭に乗っかったガラス片をそのままに、顔をくしゃりと歪めた。今にも泣きだしそうな顔だ。そんな視線を受けている浅瀬川の方は、彼女の衝動的な突撃で頭がだいぶクラクラしていたが、今彼女へそれを言ったら腹でも切りかねないと判断して黙る。
「ええと、無事ですか?□人を轢いちゃったわけじゃ……ない?」
湯崎が尋ねてきた。ハンドルをまだ握ったままだ。
「熊?□ライオン?□メ、メイド?どうして車内にメイドがい――」
「お前ーッ!」
腰を抜かしている狼男、阿久を遮って山田は腕を伸ばす。尋常でない怒気と共にのどを抑えられて、彼は呻くことも出来ない。
「ええ、この通り無事ですとも。でもな、十秒後のお前らに比べれば誰だって無事といえるだろうよおッ!□よくも坊ちゃんに怖い思いさせたな、薄汚ねぇ賊野郎が。覚悟はいいか」
運転席の湯崎はというと何事かわからないなりに、両手を上げて動きを停止している。何度か口を開いては閉じ、と繰り返し、
「ホホホホ……、本日の営業時間は終了しました。またのお越しをお待ちしております」
電話の時のように無感情に繰り返す。
「さっきから、何かぶってやがる。脱げ!」
狼男のマスクが?がれて、中から白目をむいた男が現れる。
「外出ろ」
山田は二人の誘拐犯を車の外へと放り出す。一人は腕一本で、もう一人は足一本で。その顔にはおよそ二十歳前の乙女がするはずのない、悪魔的な表情が浮かんでいる。
浅瀬川は彼女たちの後を追って外へ出る。
しかし、これではどちらが悪漢だかわかったものではない。いや、もとからこの二人は良くも悪くも、誰かを誘拐できるような、悪人の器ではなかったが……。
「ままままたのお越しをお待ちしております」
「山田さん、落ち着いてください。この人達は思ったほど悪い人じゃありません。それに、僕にも悪い所はある。誘拐なんて久しぶりだったから、つい楽しくなっちゃいました」
彼は山田の背に向かって言う。振り返った彼女に向けて両手を広げて見せる。
「別に暴力を振るわれたわけでもないですし、猿ぐつわも手かせもされませんでした。催涙スプレーの類とも無縁。ほら、どこにも跡はないでしょう?□この町にふさわしい平和な犯罪でしたよ、ハッハッハ」
笑い声は細い路地に広がったと思うと、あっという間に消えていった。
二人は惚けながらも、「その手があったか」とでも言いたげな顔をする。だがさすがに言葉にしてしまうほど考えなしではなかったようだ。
「暴力の問題ではありません。坊ちゃんに怖い思いさせたのなら」
「怖くなどありませんでしたよ。山田さんが助けてくれますから。今までだってそうだったでしょう。そして今回も、夕食の準備を放ってまで来てくれた」
少年はちらりと横を見る。ワゴン車は窓ガラスを砕かれて道の端で止まっている。誘拐されてワゴンに押し込まれて、なお何一つ泣き言を言わなかった彼だが、今のその背にはひっそりと汗がにじんでいる。
何回見ても人間離れしている。人通りのない場所でよかった。
この辺りに住むのは皆山田のことを知っている人たちばかりだ。普段の愛らしさも、ふとしたことで暴走してしまう沸点の低さも、その怪力もすでに知れ渡っている。今更騒ぎの一つや二つ起こしたところで、「ああ、山田ちゃんまたやってるよ」と夕食の会話のタネになる程度だろう。
そして、その際に自分の名前は出ないに違いない。
とにかく信頼されているというのはいいことだ。ほかの町でやったら一発で騒ぎになるだろうな。
「良き主には、山田さんのように良いしもべが付くのが道理。そして浅瀬川が良き主ということはこの誰よりもこの僕が知っています。救済が約束された上での困難など、いちいち恐れるほうがおかしい。誘拐ごときにパニくるのは庶民のすることですよ、フフン」
山田は形のいい眉をかすかにひそめて、どこか物悲しそうな目で主を見返した。彼女はよくこういった顔をする。人のやることなすことが自分のフォローに見えてしまう。
そんな真面目なところが好きだ。
今も浅瀬川が気まぐれを起こして、誘拐犯を庇っているように見えるのだろう。いや、より正確に言えば誘拐を丸ごとなかったことにして、山田の落ち度を根っこから消し去ろうとしているように映った。
浅瀬川はふんと鼻を鳴らした。彼女の疑惑と心配には気づいているが、特に説明も弁解もしない。
浅瀬川はすごい。
故に浅瀬川に仕える山田さんもすごい。
そのすごい山田さんがいるから誘拐の一つや二つ恐れるに足りず。
たった三つの情報からなるシンプルな答えだ。強がりや気まぐれなど入る余地がない。
若い浅瀬川家の長男は、自明を一々話すことはしない。
「当然でしょう?」
生まれついての自信家は、自分に自信があることすら気が付いてないのだ。そしてその幸運にも実感がないため、奇特な目、はっきりと言えば馬鹿を見るような目で見られるのには慣れている。
「それに彼らは誰かに頼まれてやっただけでしょう。無駄に痛めつけても、浅瀬川の名が下がるだけです」
「坊ちゃんがそうおっしゃるのならば、私に異存はありません」
山田は一度怒りの顔を伏せた。すぐさま顔をあげるが、その時には先ほどまでの顔はどこにもない。線の細い柔らかな印象の少女が立っているだけ。
これが普段の彼女だ。
その隙を見て素早く誘拐犯が口を開く。
「よく分かったな!□ばれてしまったら仕方がない。確かに俺たちは雇われただけで、何も悪くない。悪いのは裏で糸を操っている町長だ。な、湯崎?」
「そうそうそうそう!□阿久の言うとおり。町長さんはなんか伝統ある祭りを守るとか言ってたよ。ずいぶん困ってたんだろうね。誘拐経験皆無の私たちに頼むなんてさ」
「坊ちゃん、この者たちの処遇はいかがいたしましょうか」
彼女らはまだ何かを言いかけていたが、山田がぴしゃりと断ち切るように言う。
「何もすることはないですよ。何もされてないんですから」
二人は嘘をついていない。と浅瀬川はふんだ。
心配性な山田さんは今、取り返しのつかない犯罪が起きている最中だと思っている。
だが、何のことはない。町長はただ浅瀬川を困らせたかっただけだ。傷をつけるつもりはない。むしろこの件がきっかけで怪我人でも出てしまったら、困るのは向こうの方だ。
二人組は自分たちが窮地にいるのか、安全になったのかを図りかねているようだった。それを探ろうとして互いに顔を合わせている。
「私たち、失敗したの?」
「どうだろ。生きているから成功というべきか、金を逃したから失敗というか」
道を乾いた風が吹き抜ける、ずいぶんと冷たい。空を見ればもう日が落ちるところだ。
浅瀬川は町長からのじゃれつきが終わるのを感じながら、今の時間を確認する。
「待ち合わせには間に合いそうにないな」
浅瀬川はある業者へ話を聞きに行くところだった。最近頭角を現してきた新鋭企業だ。新規魏行を始めるにあたって、足場を固めるための土地と、浅瀬川のネームバリューを欲しがっているという。その会合のためわざわざ町はずれまで足を運んでいたのだが、その道すがら運悪く誘拐にあってしまった。
もちろん町長がその予定を知ったうえで邪魔してきたに違いない。町長は山田と違って、その辺り手ぬるいというか、情のある手を打つ。
不良を使って驚かすのはありだが、直接刃傷沙汰には絶対にしない。浅瀬川にはそのラインがよく分からないのだが、それでも町長のことは結構気に入っているつもりでいる。
もちろんそれを理由に祭り廃止を撤廃するつもりはないのだが。
「実りある話を聞けるはずだったけど、まあいいさ。彼らが本気なら、向こうから接触してくるでしょう」
「坊ちゃん、あんた神轢祭りが嫌いなんだって?□町長から仕事を頼まれたとき、俺はてっきりあんたのことを……」
男は言いにくそうに言葉を濁す。それは巨漢の男がするような仕草ではなかった。
「町の伝統を破壊する悪人だって聞いた。花畑をつぶして、町の再開発計画を進めているって。俺はよ。よそ者だから詳しくねえけど、そういう悪人なら誘拐しても罰は当たらないかな。って思っていた。いや、借金返済も魅力的だったがよ。でも……、変な感じだ。俺は間違ってたのか?」
「何も間違っていませんよ。僕は神轢祭りが嫌いです。来年には廃止したいですね。辺り一帯を更地にして、浅瀬川が作り直します。全て全て。気持いいだろうな!」
「じゃあ、坊ちゃんは悪人なの?」
湯崎さんがうつむかせていた顔を上げる。浅瀬川はいったん考えるように首をかしげた。
「どうかな。お金ならありますけど」