梅雨の谷
ああ、もう!
最悪だ。予想よりも雨が強かったせいで、濡れネズミのような見た目になってしまった。
下駄箱の前で、シャツを絞り、靴下を脱ぐ。
はぁ……と一息ついた。こんなみっともない姿でミネ キョウコには近づけない。今日ミネと話すのは諦めよう。そんな事を考えていると、後ろから声をかけられた。
「あの」
一瞬、我が目を疑った。
「あ、……はい?」
何故、僕に、ミネ キョウコが話しかけている?
「大丈夫ですか?」
「あっ、はい、何が、ですか?」
「濡れたままでいると、風邪ひきますよ。これ、使ってください。」
彼女は僕に向かってハンカチを差し出している。
ピンクの布地、端にウサギの刺繍がしてある、女の子らしいと言えばらしいが女子高生には似合わないのでは、と思ってしまうようなハンカチ。
「?どうぞ。」
ミネに声をかけられ、一気に現実に引き戻される。
彼女は硬直している僕を訝しげに見つめている。やってしまった、これじゃあ挙動不審の変な男だ。早く返事をしなければ。
「あっ、ありがとうミネさん。明日洗って返すよ。」
「……ごめんなさい、あなたの名前を思い出せないのだけれど、どこかで話したことあった?」
無い。話したことなど一度たりとも無い。
「あっ、あの、偶然僕の好きな作家の本読んでいたから?!それで、あの、柳下、透っていう……」
ミネ キョウコの名前を知ってる事の説明になっていない説明を必死にして、落ち着いた。
もう、終わりだ。彼女の中での僕は挙動不審なストーカーだ。彼女の事は諦めよう……
「嬉しい!」
「えぇ?」
「柳下透、マイナーな作家だから語り合える人がいなくて…よく本読むんだね!……ええと、お名前は?」
「……ジュン。ミナモト ジュン。です。」
「ミナモト君ね!今日はもう授業が始まるから行くけど、明日話しましょうね!」
「うん」
じゃあね!と言い、彼女は急ぎ足で階段を登っていく。
フラフラと立ち上がり、靴を履き替え、教室に向かう。
「ジュン、おはよう。」
「ああ、うん。」
「どうした?調子悪いのか?」
「いや、大丈夫。」
「そう?ならいいけど。……ん?そのハンカチどうしたんだ?」
「何でもない!」
急いでハンカチをバッグに押し込み、席に着く。
ハンカチを持っていた手を、鼻の前に近づけてみる。
甘い香りがした。ミネ キョウコの香りだろう。きっと。とにかく、夢じゃないんだ。そう思うと思わずにやけてしまう。
「……ジュン、本当に大丈夫か?」
慌てて、にやついた顔と心を引き締める。
「うん、大丈夫。」
そのあとは冷静に授業をうけたつもりだったが、何の授業だったか全く記憶にない。
ミネ キョウコは 明日話しましょう、と言っていた。
また明日、ミネ キョウコと話せる。それだけでとても幸せな気分になれた。
いつの間にか、雨は上がっていた。空には雲が広がっている。