第6話 奏でる人
技はないと俺が言った時、アトリが困った顔をしたわけがやっとわかった。
お披露目式、親から与えられた課題。きっと彼らにとっては大事な誇らしい儀式なんだろう。
だけど、なんと守護霊は技を持っていなかった。
俺は、自分にあてがわれた寝室のベッドに横たわって、格子窓を見つめた。
風が強くなってきた。ときおり厚い板ガラスの窓がビシッビシッと鳴る。
どうしよう。・・・どうすればいいんだ?
雨足はさらに激しくなり、夜の大地に容赦なく打ちつける。
俺はマンジリともしないで、格子窓に打ちつける雨をにらみつけた。
昨夜の雨は、すっかり上がっていた。
朝が待ち遠しいなんて、何年ぶりだろう。空が薄青く明けるのを待ちかねて、俺は、アトリの寝室に飛んでいった。
アトリは、本を枕に、机にもたれてうたた寝をしていた。ここまで来ると、本好きなどという表現では物足りない。依存症の領域だ。
俺は興奮していた。なので、アトリがこれまでに経験したことがない手段で起こしてやることにした。
アトリの頭の下の本をつかんで、スパッと引き抜いた。ゴキッと小気味のいい音がする。
アトリは、締まりのない顔で俺を見上げた。
俺は、昨夜思いついたことを実行したくてウズウズしてるんだ!
「俺の技、見たいだろ?」
そう言って、当惑顔のアトリの鼻先に手のひらを突き出した。
技の効果は抜群だった。
アトリは、椅子からガバッと起き上がって 抱きつかんばかりに狂喜した。
一抹の不安と後ろめたさは、俺の中から払拭された。きっと上手くいく。
「どうやるのだ? もう一度やって見せてくれ。」
アトリは、興奮冷めやらぬ面持ちで俺の腕をつかんだ。俺は、スルリと腕をほどいて背中のうしろにまわした。
「今日は、これだけだ。・・・そんなに力は使えない。」
その後、俺たちは、居間で仲良く朝餉を待った。
アトリも取りあえずホッとしたのだろう。本の知識をひけらかして饒舌にしゃべった。たしかに博学だ。本の内容を、寸分たがわず諳んじてみせてもくれた。凄い記憶力だ。もしも現代日本に生まれていたら、一流大学とかに簡単に受かったりするんだろうか。
俺はというと、アトリを笑わせて楽しんだ。同じ年頃の仲間との気のおけない会話なんて、アトリは一度も味わったことがないようすだ。
とは言え、カルチャー圏が違う人間相手に、ウケを取るのはかなり難儀だった。が、古今東西、人類共通の笑いというのは必ずあるもんだ。
そういえば、俺は、小学生の頃は人間関係をうまくやっていくのが得意だったはずなのに・・・。
俺のジョークに、ひときわアトリがバカ笑いをした時、アヤメが朝餉をワゴンに乗せて運んできた。
さぞ驚くかと期待したが、目を見開いたのは最初の一瞬だけだった。
クールな女だ。まるで何も見なかったかのように皿を並べる。
アヤメが給仕のためにそばに来ると、アトリが少し顔を赤くしたのを俺は見逃さなかった。
・・・俺の楽しみが一つ増えたようだ。
この日は、一日中何もかもが上手くいった。
昼時には、コハギもついて来た。俺は、自分のデザート皿をコハギに分けてやった。アトリは、もう何も言わなかった。
食事のあと、アトリは疲れたと言って、居間の長椅子で昼寝を始めた。
昨夜も夜更かししたに違いない。眠れないのか眠る気がないのかは分からないが、不健康な暮らしには変わりない。
かなりビックリな出来事に遭遇したのは、夕餉後だった。
アヤメが、金手洗のようなものを抱えて居間を訪れ、俺に声を掛けた。
「望様も、必要ですか?」
アヤメは、昨夜から俺を望と呼んでいる。だが、アヤメに呼ばれると、望もそう悪くないと思えてしまう。
「はい?」
「お虎子は、必要ですか?」
「お虎子って、何ですか?」
「お小水を入れる器でございます。」
「え・・・。」
何を言ってるんだ。この女は、涼しげな顔して何を言ってるんだ!
「遠慮せずに使うとよい。夜は便利だぞ。外の厠まで行かなくてすむ。」
アトリが会話に割り込んできた。
俺は椅子からガバッと跳ね起きて、アヤメが抱えているお丸を指差しつつ、アトリに向かってこう叫んでいた。
「お前は、使っているのか・・・コレを!」
俺は、椅子にドカリと倒れ込んで、両手に顔を埋めた。それから小さな声で返答をした。
「・・・ぉ、俺は、結構ですから。」
俺は、アヤメが、アトリの寝室にお虎子を置いて出て行くまで、頭を両手で抱えたままだった。
ベルサイユ宮殿にも江戸城にもトイレはなかった。では貴族や殿様はどうしてたのか。つまり、そういうことだ。
アトリがこの世界の貴族として、特別な育ち方をしているわけでないのは分かる。でも、それって人間としてかなり歪だろ-。病人でもないのに自分の排泄物を他人に始末させるとか。
初めてこの世界に踏み込んでしまった日、土蔵の外は、秋かと思うようなあせた光におおわれていた。
それ以来、夏らしくもない曇り空が続いていた。
これがこの世界の気候の変調ということだろうか。アヤメに訊くと、最近の夏は、おおかたこんな具合だと言った。
ところが、そんな話をアヤメとした矢先、猛烈に暑い一日が襲来した。
窓の向こうには、あきれるほど肥大化した入道雲が見えた。俺は、流れる汗をぬぐいながら思った。エアコンが恋しい!
涼しげな顔で何か読んでいるアトリに、俺はトゲトゲしく言った。
「暑くないのか?」
興味のない話題には聞こえなかったふりをするアトリは、知らん顔をした。
まさにその時だった。突風と共に雹が降り始めたのは。
白い礫が、バンバンバンッ・・・と屋根や地面に打ちつけられ、それは二十分も続いただろうか。
さすがにアトリも窓辺に寄ってきて、二人であっけにとられてそれを眺めた。
見る見るうちに、夏の庭が白いものでおおわれてゆく。
はかなげに咲いていたテッセンが無惨にちぎれていくさまは、俺の心を不穏な気分にさせた。
後で聞いた話によると、屋敷の別棟で、窓ガラスが割れる被害があったそうだ。部屋の中に、大人のこぶしほどの雹が飛び込んで来たらしい。
ちなみに、窓ガラスは此処では宝石並に高価な物なのだ。しかも、受注生産なので、お披露目式までに新しいガラスが間に合わないと、アトリの母親がひどく嘆いているそうだ。
しかし、俺にとっては、お披露目式が取り止めになるほど、ガラスが割れてくれなかったことが残念だった。
とうとう、お披露目式の日が来てしまった。
昼過ぎに、アトリは迎えが来て先に行ってしまった。一人取り残された俺は、正直、大学受験に望んだ時よりはるかに胃が痛んだ。
やがて、時間になったのか下男が俺を連れにきた。
アトリの館というのは、いわゆる別館だ。敷地の中には、とうぜん本館がある。ここの人たちが母屋と呼んでいる本館へ、俺は初めて足を踏み入れた。
俺は、あてがわれた煌びやかな衣装を着て、広間に入って行った。
ここまで来れば、あとは早く終わることだけを願って。
優雅な服装をした男女の視線が、俺を迎え入れた。視線が痛い。間違いなく、好奇に満ちみちた視線の渦。
息苦しくて溺れ死にそうだった。
錦の布を貼り巡らした煌めく天井を、俺は見上げた。
神様―――。
上手くいってくれ。
中年の男が、俺の腕を取って広間の中央に連れて行った。
そして男はアトリの〈守護霊〉を皆に紹介した。
俺はアトリを探した。
アトリは母親の横に立っていた。母親は、アトリの袖を引っぱって前へ行かせようとしている。アトリは堅い表情のまま、頑として動こうとしない。
アトリと視線があった。一瞬だったが俺を見てニッと笑った。
よし。
俺は、広間の壁に張りつくように立ち並ぶ人々に向かって、腕を伸ばした。
俺の手から音楽がこぼれた・・・。
固唾を呑んで見つめていた人の輪から、当惑と感嘆のざわめきがもれた。
・・・反応は五分五分か。
それにしても、巡礼の旅に先だって スマホの曲のラインナップにスピリチュアル系をダウンロードしておいて本当によかった。この世界の雰囲気にぴったりじゃないか。
フルオーケストラの音色が広間に響きわたる。
三曲ほど進んだところで、聴衆の誰かから『歌姫の声を!』というリクエストが入った。なごんだ笑いが広がる。
俺は、サラ・ブライトンの[ time to say goodbye ]をチョイスした。
唄が終わると、パラパラと拍手がおこった。
拍手が収まりかけた頃、威圧的な若い男の声がした。見ると、ひときわガタイのいい男が腕組みをして立っていた。
「鳥の歌声を。」
またしても広間がざわついた。俺は、頭をフル回転させて思い巡らした。
そして・・・姉貴に助けられた、と思った。
二ヶ月ほど前に、姉貴が、〈環境音楽〉をプレゼントしてくれたんだった。川のせせらぎとか鳥のさえずりがひたすら続くやつだ。
広間に、清冽な水音と鳥のさえずりが流れた。
驚いたことに、人々は今や俺を見てないようすだった。目を閉じている者もいる。皆〈環境音楽〉に聴きほれているのだ。
しばらくして、一人の老人がうっとりとつぶやいた。
「オオルリじゃな・・・。」
そうか、オオルリという鳥の声だったのか。
俺は、そろそろ潮時だと感じた。今度はニワトリを出せとか、ネコを出せとか言われたらおしまいだ。俺は音量をゆっくりと絞った。
ヤンヤの拍手が沸きおこった。俺は、人々に頭を下げて礼をすると、アトリの立っている方へと下がって行った。
母親は、微妙な笑いを浮かべて俺を見ていた。
アトリは、固い表情のまま俺の腕をつかんだ。そして、人の輪をかいくぐって広間の外へ俺を連れ出した。
広間を出たとたん、アトリは感無量なようすで、俺の両手を握りしめて小躍りした。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう!・・・本当に、ありがとう!」
それから声をひそめてこう言った。
「もっと、聴きたいものだな。」
俺はあわてて首を横にふった。
「もう電池が、あ、いや、力が消耗してしまった。きょうはダメだ・・・。」
後ろめたさが込み上げてきた。アトリには、いつか本当のことを話そう。
広間から出てきた人々が、俺たちを興味深そうに眺めながら通り過ぎ、何人かの人は、声をかけてきた。
「〈奏でる人〉よ。音楽の精霊を小箱に閉じ込めて操る技は、秀逸でしたよ。ましてや、鳥や水の精霊まで御するとは偉大なことです。」
女連れの中年の男は、そんなことを言った。
男が去ると、今度は、赤い髪の若い女が笑いながら寄ってきた。
招待客の中には アフリカ系やムスリム風の人たちも見かけたが、赤い髪は、ひときわ異質だ。顔は日本人で、背が高くてモデル体型の女だった。姉貴ぐらいの歳だろうか。
「やぁ、〈精霊〉の坊やたち。」
かすれたハスキーボイスだった。
知り合いなんだろう、アトリがちょっとうなずいた。
赤毛の女は、やおら、俺の肩を両手でバンバン叩いて、キャッキャッと笑った。あのぅ、結構痛いんですけど。
「わぉっ、藁じゃないんだ!」
俺を少し見おろす感じで、言葉を続けた。
「お前の手、面白いなぁ!」
そして、いきなり、俺の耳元に顔を近づけてささやいた。
「今度、私にだけ精霊の唄を聴かせておくれ。」
それから、また俺の肩をキュッとつかんで立ち去ろうとした。
立ち去り際に、こう言い残した。
「・・・あ、そうだ。私の名はカンナだよ。覚えておいて・・・」
不意打ちに、つい顔が熱くなった。アトリは何事もなかったような顔をしている。きっとカンナという人はいつもあんなふうなんだろうか。
「〈火〉の一族の姫だよ。ちょっと変な姫なのだ。」
俺が立ち去るカンナの背中を見送っていると、アトリがそう寸評した。
そして〈五つの高貴な一族〉とやらについて、かいつまんで語り始めた。
「この国には、〈精霊〉〈火〉〈土〉〈風〉〈水〉の五つの高貴な氏族がいて、・・・で、その五つの氏族が力を合わせて、三百五十年間この国を統治してきたのだ。なかでも元老院というのは、それぞれの一族の長や、有力な眷属で構成され・・・」
その時、急にアトリが言葉を止めて、俺の肩越しに視線を泳がせた。
振りむくと、取り巻きを引き連れた小太りの男が近づいてくる。眉が太いが、どことなくアトリの母親に似ている。
「〈精霊〉の長オオルリだよ。叔父だ。」
アトリが低い声で俺に言った。
オオルリは、ギロリと俺をにらんだ。
「そなたが〈奏でる者〉か。」
それから、クルリと甥の方に向き直った。
「アトリは、やっぱりアトリだな。守護霊までも軟弱とは。音の精霊など操って、天と地を再び統べる大事を、はたして全う出来るのかな?」
「・・・・・・。」
アトリは、表情の消えた顔で叔父を見すえて固まっている。
しばらくの間、オオルリは、自分とよく似た甥の目をにらみつけていたが、やがて、苦々しげに溜息をついて歩み去った。