第3話 俺の本体アトリ様
なんか気まずい空気だ。俺は男の凝視にたえかねて、こう叫んでしまった。
「・・・あ―、用を足したいんだけど。」
若い男は、整った眉をつり上げて、あきれたように言った。
「へえっ、やはり、実体化した精霊は、用を足したり酒を飲んだりするのだな。」
まだ飲んでない! と俺は心の中でツッコミを入れる。
男は、束帯に似た服の長い袖をひるがえして、俺を外へ手招きした。そして、外にいた衛士の一人に何やら言った。
俺は、決してこちらを見ようとしない衛士に案内されて、厠へ行った。
厠は、お堂からずいぶん離れた建物の裏庭にあった。戸を開けると、板間の下に甕が置いてある純和式だった。
今後、必要に迫られる都度、衛士に連れられてここへ来なければならないのかと思うと気が滅入る。しかも俺は、胃腸がとてもデリケートなのだ。
さっきの若い男は、お堂の中で俺を待っていた。
文机の前の座布の上に、座禅を組むように座ってくつろいでいた。
「ここは、私の〈 離れ 〉でね。一人でこうやって、本を読んだり精霊に語りかけたりして過ごすのさ。・・・あぁ、私はアトリだ。そなたの本体とでも言うか。で、〈精霊〉の一族の嫡子でもある。」
「本体!」
俺はいつから分身になったんだ? しかも俺でもない男の。頭がクラクラする。
俺は目の前の男をじっと見た。背格好同じくらい、年齢同じくらい。でもそれだけだ。顔は全然似てない。性格も違いそうだ。どう見ても、本体と分身(俺)の相関関係は希薄だぞ。
男は、俺の心の声などお構いなしにしゃべり始めた。
「ユリが、藁人形からそなたを紡ぎ出した。私に見たてた等身大の人形からね。」
「・・・・・・。」
「当てにはしてなかったんだ、母上も。ユリがそれを成すとは。・・・〈精霊〉の血を引く者でもない娘だし・・・。結果的に、これは三百五十年ぶりの快挙というわけだ。守護霊を召し出すことに成功した導師とはな・・・。ユリは、これでさらに名を上げるだろうさ。」
アトリと名乗る男は、面白くもない話をするように、眉をしかめた。
そして、ふと気づいたように俺の方に向きなおり、しばらく俺を眺めてからこう言った。
「話、わかってる?」
「さあ、どうだか。なにしろ異界からきたばっかりだからな。ていうか、本当に、俺は異界から来たのか? まあ、俺目線からすれば異界へ来たってことだけど。」
俺の言葉をスルーしたアトリなる男は、目を輝かせて饒舌に話を続ける。
「私は、前から知りたかったんだ。守護霊を召し出すということは、異界に住んでいた霊が結び目を通って此処へやって来るということなのか、それとも、藁人形が命を宿し、霊になるのか? もしも藁人形が命を宿すのなら、霊には、過去の記憶などないはずだ。」
「うれしいことに、俺は、異界での記憶を忘れてないようだから、前者の説が正しいんじゃない?」
俺は皮肉っぽく、そう答えた。こっちは不安でピリピリしているというのに、さっきから、こいつは・・・。
俺の目の前の男は、興奮した様子で小躍りした。
「そうか、そうだったんだ! 建国の頃までさかのぼる三百五十年前に、我が一族の祖がなしえた守護霊召還とは、異界に住む霊を呼び出すことだったんだな! それにしても、先ほどの儀式のおり、どうして藁人形が消えたんだろう。藁人形が消えたと思ったら、そなたが出現した。あれは、まるで藁人形がそなたに姿を変えたように見えたが。」
「・・・さあ。 お前のご先祖は、その三百五十年前のこととやらを何か書き残してないのか?」
俺は、調子を合わせてしゃべっている自分にあきれながら、そう言った。いろいろ、訊きたいことが満載なのはこっちの方だ。
しかし、相手は、俺の心情など斟酌する気もないらしい。
その時、男が語気をあらげた。どうやら、俺の言葉が、この男のプライドを傷つけたようだ。
「混乱の時代だったんだ! 天変地異、戦禍、疫病、あらゆる災難が一度に押し寄せてきた、らしい。それを、我が一族の祖は、守護霊を呼び出し、その力を操って、天を諫め地を平定した。しかし、当時のことを書き残したのは、三代目の長の時代になってからだった。召還の術式については、詳しく記されているが、その霊の体が藁で出来てたかとか、どんな性格だったかとか、そんなどうでもいいことまで書き残すわけがないだろう。」
歴史書なんて、まあそんなもんだろう。書いた人間にとって、書き残したいことしか書かないってことだ。
俺は、なかば捨てばちに、こう言った。
「じゃあその霊が、いつ、元の場所にもどったかなんてことも、書き残されてないんだろなぁ。」
「もどる!」
アトリは、奇妙な顔をした。
「・・・もどりたいのか?」
俺は、ちょっとあきれて声をあらげた。
「普通そうだろ! もしも、お前が、どっか異界にすっ飛ばされたと考えてみろよ。早く家に帰りたいと思うだろう?」
「・・・家があるのか?」
俺は、思わず声を荒げてしまった。
「当たり前だろう! 親もいる、姉ちゃんもいる、少しだけど友達もいるんだ。俺は、藁人形なんかじゃないぞ!」
なんだか、言っているうちに胸が熱くなってきた。
家なんて、当たり前に帰れる場所だと思っていた。それなのに、こんなに帰ることを切望する日が来るとは。
旅は始まったばかりのはずだったのに。
アトリは、しばらくの間、視線を宙にさまよわせていたが、やがてボソボソとつぶやいた。
「・・・命じられたことを此処で成しとげれば・・・その暁には解放され・・・。」
何かを暗唱しているような物言いだ。
「はぁ? 命じられたことって何だよ?」
「えっ、そなたは、ソレを知らないのか?・・・ 術を施したユリは、そなたに何も命じなかったのかな? それともユリの術が不確かだったのか。」
アトリは混乱した顔をした。俺は、肩をすくめるほかなかった。
俺たちは、間近に対峙したまま相手を凝視した。
顔は似てないが、身長や骨格は瓜二つだった。変な感じだ。俺は、ため息をついて視線をはずした。
アトリは、腕を組んで目を閉じた。
やがて、はっと目を開いて、こう言った。
「そういえば、そなたは、どんな技を持っているのだ?」
「はぁっ?」
「技だよ。三百五十年前の霊は、疲れを知らぬ駿馬にまたがり、雷を放ち、遠くにいる者に瞬時に伝令を送り、また聞くことができたと書き記されている。その力を操って、我が祖先は、天と地を治めるにいたったのだ。ユリは、再び訪れた昨今の災禍を収めるよう、そなたに命じて、此処へ呼び出したはずなんだ。だから、その命を完遂しおえると、そなたはユリのかけた呪縛からはなたれる。その後に修復の呪文をユリが唱えると、たぶん、そなたは元の世界にもどれるのだ。」
それにしても、三百五十年前の霊ってどれだけ超人なんだ!
俺は、アトリの質問には答えず力なくこう聞いた。
「二つ、質問してもいいか?」
アトリは、コクリと頷いた。
「再び訪れた災禍って、言ったよな。ということは、今は、いろいろ問題が起こってるということなのか?」
「ああ、父上たちからそう聞いている。といっても、ここ数年、私は屋敷から出ていないので見聞に過ぎないがな。都の外では災難が次々に起こっているらしい。疫病、大水、干ばつ、冷害。ここ数年来、天候不順は甚だしく、おかげで作物は実らず、大飢饉だ。 餓死者が出ている所もあるらしい。都でも物資が滞り始めている。こういう災いは近隣の国でも起こっているようで、土地を捨てて賊となった民が作物を強奪したり、漁場で刃を交えた奪い合いがあったり、そんな諍いが日増しに激しくなっていると聞く。大きな戦争が始まるという噂も流れ始めた。こんな不穏な事態は、私はもちろん経験したことがないし、年長の者たちも、記憶にも記録にもないと言っているよ。」
「三百五十年前以来だってこと?・・・で、それを解決する切り札として、俺を、あっいや守護霊を召還したと。」
「そうだ。」
俺は、目眩を起こして倒れそうになる自分をふるい立たせて、こう聞いた。
「じゃあ、もう一つの質問。お前は、さっき、たぶんもどれるかもって言ったが、たぶんてことは、もどれないこともあるってことか? ちなみに三百五十年前の霊は、向こうにもどったんだろう?」
アトリは、明らかに気まずそうなようすでこう言った。
「書物には『霊は、我が祖先の命を遂行したのち、解放された。』と書かれているだけだ。・・・ただ、実は・・・修復の術式は、あるのはあるが、たしか我が一族の蔵書から消失していて・・・。」
アトリは、俺の顔が青ざめるのを見て、あわてて言葉をつけ足した。
「もちろん手はある! 我が一族に伝わってないだけで、他に幾つか思い当たる場所が。そう心配するな。必ず私が探し出すよ。」
アトリは、女のように白い手で、胸を叩いてみせた。ものすごく不安だ。
「じゃあ、ユリという娘は、修復の術式がないのがわかっているのに、俺を召還したのか?」
可愛い娘だと思ったのに裏切られた気分だ。
アトリは俺の落胆など気づかぬ様子で、楽しそうにこう言った。
「当然だ。ユリは、施術にたけてはいても、ただの導師だよ。一門の長の意に従うのは当然だ。召し出すことを決めたのは、我が〈精霊〉の一門の長、と母上なのだ。長は私の叔父でね。もしも、母上が男だったら、母上が長となっていたはずだが。つまり、父上は養子なんだ。」
自分がしゃべりたい話になると、とうとうとしゃべるんだな。こいつ。
「で、そなたの技だが。どんなものがあるのだ?」
技? あぁ、さっきも訊いてきたな。エラシコとかマルセイユルーレットなんて答えじゃだめだよな。
「・・・ない。悪いけどありまセン。」
俺は、異界にまできて、何でこんな懺悔をしなければいけないんだ。
俺が無能だということは、すでに痛いほど認識してますから!
しかも、いま俺に要求されているのは、『疲れを知らぬ駿馬に跨がり、雷を放ち、遠くにいる者に瞬時に伝令を送り また聞くことができる技』に、匹敵する何かなんだ。そんなの無理デス!
「ない?」
アトリは、貧血でも起こしたように額を手で押さえて、しばらく押し黙っていた。
「本当か。」
アトリは、上目づかいに俺を見ながら言った。
俺は答えるかわりに、首を横にふった。ないものはない。俺は、アトリの困ったような顔を見返した。
いつの間にか日が暮れたようで、お堂の中は薄暗くなっていた。
アトリは、ふらりと立ち上がって、人を呼び、燭台に火を入れさせた。
それから、とうとつに、すっかり長話をしてしまった。夕食が冷えてしまったようで申し訳ない、などと大人びたというか、木で鼻をくくったような挨拶をすると、こちらの返事も待たずスタスタと立ち去ってしまった。
衣ずれの音が遠ざかり、扉が閉まる音と閂をかける音が響いた。
あっけに取られているうちに、一方的に、会話というか面会は終了されていた。
取り残された俺は、ふと、目の前のお膳に視線を落とした。何はともあれお腹が鳴る。
それは懐石料理みたいだった。吸い物、煮魚、煮浸し、酢の物など、七皿が並んでいた。いろいろなハーブやスパイスが使われていて和食とは違う風味になっているが、なかなかおいしかった。デザートの皿は、桂皮の香りをつけた牛乳寒だった。俺は、異国の地、いや異界にいることも忘れて堪能した。酒もせっかくなので、少し味わってみた。
料理を完食すると、もうすることがなくなった。
俺はこれからどうなるんだろう。そんな、当たり前の不安が頭をもたげる。
なんとなく周りを見回し、俺はぎょっとした。
いつの間にか、暗闇が、お堂の隅からヒタヒタと押し寄せてきていた。
そうだった。この世界にはおそらく電気がない。ということは、電灯もないんだ。
俺は二本の燭台を見やった。燭台の火がゆらめくたびに、俺や祭壇の柱の影がチカチカとうごめいた。
異界に飛ばされたことよりはるかにリアリティのある恐怖が、俺を支配した。
しかも、あまりにも静かだ。
これほど深い静けさと闇を、俺は初めて体験したと思う。
そういえば小学校の時、林間キャンプに参加したことがあるが、キャンプ場は、大人や子供たちの晴れ晴れとした声や車のエンジン音がひっきりなしに聞こえていたし、外灯や懐中電灯の光があちこちで灯り、夜の闇はずっと遠くにあった。
此処は過去なんだろうか。だとしても、俺たちの過去じゃない。服装にしろ建物にしろ、和風とも大陸風とも少しずつ違う。なにもかもわけが分らないことだらけだ。
わかっているのは、俺が此処に飛ばされたこと。そして、〈精霊様〉とか呼ばれてて、何かをどうにかしなければ、元の世界にもどしてくれそうにないということだ。
もどれないかもしれない可能性のことは、今は考えないことにしよう。
不安なのは、何をどうすればいいのかが、わからないということだ。
アトリは、こう言っていた。
天変地異、饑饉、戦争・・・これらを収めれば・・・解放され・・・。
だけど、こんな事態を収められるのは神様くらいだろ! って、だから俺は〈精霊様〉なのか。神様≒精霊様だもんな。
にしても、俺はただの18才、巡礼の旅人なんだって。 なんの特技もないダメダメの若造なんですよ?
神様なんかが本当にいて、すがれるもんなら、俺の方がすがりたいよ!
と、その時だった。一本の蝋燭がジッと音を立てて燃えつきたのだ。
息を殺して見つめる俺の目の前で、ほどなく二本目の炎も闇の中に溶けていった。
背筋がゾクッとなる。
俺は、そばに置いたはずのリュックをたぐり寄せた。そして手探りで探した。
冷たいなめらかな金属の感触。電源をONにした。小さな四角い画面が、闇の中で白い光を放った。
[9:08 7月4日]
いつも通りの待ち受け画面が現れた。しかし、電波状況は当然のこと、圏外だった。
分かりきっていることを、それでもせずにはいられない。俺は少しためらったあと、こう話しかけた。
「家に、電話。」
・・・・・・
きっかり十秒後、スマホは自ら電源を落とし、当然のように存在した俺の日々が、フェードアウトしていく。
俺はスマホを握り締めたまま、闇の中に取り残された。
失敗ばっかりだ・・・。
何をやっても上手くいかないじゃないか!
そうさ、上手くやれないのが分かっているから、俺は・・・それなのに。
神様・・・!
閉じた瞼から熱いものがあふれて、頬を伝っていく。
周囲の闇よりも いっそう禍々《まがまが》しい心の闇におびえながら、俺はマンジリともせず一夜を過ごした。
現代日本の男子は、異界に飛ばされることには耐性があるようですが、暗闇と向き合うことには慣れていないようです。