葡萄の石塀
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞお楽しみくださいませ。
納屋の壁に背を押し当てたまま、俺は動かなかった。
(——写真の女)
(——男爵様の隣の侍女)
(——なぜここに、ヘルマンと)
息を整えた。
観察を続けた。
ヘルマンが扉の手前で半歩動いた。
懐から小さな革袋を取り出した。
掌に載せて、女に差し出した。
革袋の口から金属の鳴る音がわずかに漏れた。
(——金貨だ)
女が両手で受け取った。
胸元に差し込んで、頭を一つ下げた。
ヘルマンが何か短い言葉をかけた。
女が小さく頷いた。
ヘルマンが踵を返し、葡萄の石塀から離れた。
裏口の扉が内側から閉まった。
(——金貨を受け取った)
俺は納屋の影でしばらく動かなかった。
ヘルマンが街道に戻る音が石畳を遠ざかっていった。
夜風が葡萄の葉を撫でていった。
◇◇◇
宿に戻ったのは夜更けだった。
二階の角部屋。
扉を開けると、机にランプが小さく灯っていた。
リリィが椅子から立ち上がった。
「お帰りでございますか」
「ああ」
俺は旅着の上着を脱いで、椅子の背に投げた。
机の前に腰を下ろした。
リリィが水差しから水を注いで、置いた。
俺はそれを一杯飲んだ。
息を吐いた。
しばらく、俺は動かなかった。
リリィも何も訊かなかった。
俺は煙管を取り出した。
火を点けた。
煙を吐いた。
「面倒なことになったぞ、リリィ」
「お話を、伺っても」
「ああ」
俺はもう一口煙を吸った。
「ヘルマンは男爵様には会わなかった。銀鉱山の管理人と半刻話して、紙の束を持って出てきた。封がされた束だ」
リリィが小さく頷いた。
「事務所を出ると、馬車も使わずに歩いて、温泉宿の裏手まで行った。葡萄の蔓が垂れた、人目に触れない場所だ」
「……温泉宿」
「ああ。裏口を二度叩いて、中から若い侍女が出てきた。前掛けをした、二十前後の女だ」
リリィの指が机の縁に触れた。
「ヘルマンが革袋を渡した。袋の口で金属の音がした」
「金貨を……」
「女は受け取って、胸に差して、頭を下げた」
俺は煙管を口から外した。
「その侍女な、リリィ」
リリィが俺を見た。
「写真の中にいた、男爵様と抱擁していた女だ」
リリィの肩がわずかに動いた。
しばらく、何も言わなかった。
ランプの油が小さくぱちりと鳴った。
「もうひとつ、ある」
「……はい」
「尾行の途中、街灯の下でヘルマンが立ち止まって紙の束を確かめた。左手薬指の指輪が街灯に反射した。間近で見えた」
「あの紋章でいらっしゃいますか」
「ああ。イーゴルから聞いた通りだ」
リリィがゆっくり目を伏せた。
俺は背もたれに体を預けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
それから、リリィが口を開いた。
「ご主人様。男爵様は、はめられているのではございませんか」
「俺もそう思う」
「写真も、あの侍女も、用意されたものだ」
リリィが頷いた。
「ですが、なぜ」
「それだ」
俺は煙を吐いた。
「銀鉱山が絡んでる。そこまでは見える。だが、何が目当てかまでは——」
「分かりかねますね」
「分からん」
しばらく、俺は天井を見ていた。
(——分からない)
(——形だけが、見えている)
リリィが水差しからもう一杯注いだ。
「男爵様がおいでになるのは明後日だ」
「はい」
「現場で、もう少し見えるかもしれん」
「ええ」
ランプの灯がまた小さく揺れた。
外で、夜の鳥が一度鳴いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
次話に続きます。
余談でございます。以前のあとがきで「第二章は十話で完結」と申し上げましたが、書いておりますと、どうやら十話では収まりそうにございません……。気長にお付き合いいただけますと幸いです。
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