戦場で見た青い空
唐突ですが、短編を寄稿します。お笑いください。
序章:忘却の蒼
視界の端で、誰かの千切れた腕が放物線を描いて飛んでいった。
土煙と、鉄錆の臭い。そして、鼻を突くのは焼けた肉と内臓が撒き散らす、生理的な嫌悪感を呼び起こす悪臭だ。耳朶を打つのは、絶叫とも怒号ともつかない、人間が獣に成り下がる瞬間の咆哮。
だが、不思議とそれらの狂騒は、今の俺の意識には届かなかった。
「空が青いなぁ、空ってこんなに青かったんだなぁ……」
乾いた唇から零れたのは、戦場にはおよそ不釣り合いな感傷だった。背中に感じる大地は硬く、ゴツゴツとした岩肌が容赦なく体温を奪っていく。しかし、その不快感さえも、吸い込まれそうなほどに深い天上の青に比べれば、酷く些細なことに思えた。
ここは戦場だ。
XX歴1642年、夏。
大魔王帝国と神聖人智十字教主国。二つの勢力が、この肥沃だった島大陸を舞台に殺し合いを始めてから、実に二十二年の歳月が流れていた。
きっかけは、今となっては滑稽なほどに小さな諍いだったという。
村の子供たちが、道端に落ちていた石ころか何かを取り合った、あるいは些細な悪口を言い合った。そんな「ばかだなぁ」と笑い飛ばせるはずの火種が、親を焚き付け、村を焼き、街を飲み込み、ついには国家という巨大な怪物を揺り起こした。
死傷者432万人。
破壊された市町村178。
二十二年間、一日たりとも絶えることなく積み上げられた死の数字。
もはや、最初に石を投げた子供の名を知る者はいない。なぜ戦っているのか、何のために隣人の喉笛を掻き切らねばならないのか。理由を問う知性は、憎悪の連鎖の中に溶けて消えた。今はただ、目の前の敵を屠るという純粋で呪わしい執念だけが、この大陸を動かす唯一の動力源だった。
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狂気の変遷:魔法の爪痕
戦争は、その激しさを増すごとに手段を選ばなくなった。
最初は泥にまみれた素手での殴り合いだった。それが木の棒になり、鋭く研がれた石になり、鉄の剣となり、槍となった。やがて、人族は禁断の叡智に手を伸ばした。
精霊魔法と神聖魔法。
それは本来、自然との調和や救済のために振るわれるべき力だった。しかし、戦場に持ち込まれたそれは「戦略級魔法」という名の、あまりに効率的な大量殺戮兵器へと変貌を遂げた。
一つの術式を発動させるために、数十人の魔導師が精神を削り、命を絞り出す。放たれた光は、一瞬で都市を更地へと変え、地図から名前を消し去った。
その爪痕は、死よりも残酷だった。
火系魔法が着弾した地は、数年が経過しても地獄の劫火が消えることなく燃え続け、水系魔法の跡地は底なしの沼となって泥水を溢れさせ続ける。土系魔法が発動した場所は、大地が絶え間なく悲鳴を上げるように震え、人族の歩みを拒絶した。
かつて数多の生き物が謳歌した楽園は、今や見る影もない。魔法の余波で変質した土地は、一粒の種さえも拒む不毛の荒野へと成り果てた。
学者たちが「実りが戻るまでには数十年を要する」と警鐘を鳴らしても、殺意という病に冒された首脳陣にその声は届かなかった。
だが、破滅は目前に迫っていた。
大陸の八割が死に絶え、人族が住める場所が残りわずかとなった時、ようやく両国は震えながら握手を交わした。大陸崩壊まで残り三年という瀬戸際で締結された『戦争規定第1124条』――通称「魔法禁止条項」である。
『人族の誇りと尊厳をかけた戦争において、精霊ならびに神聖なる存在の力を行使することを禁ず』
皮肉な話だ。誇りも尊厳も、とっくに泥にまみれて消えていたというのに。
魔法が消えた戦場に、平和が戻ることはなかった。
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鉄と血の消耗戦
魔法を禁じられた人間たちが次に選んだのは、先祖返りだった。
剣、槍、弓、投石器。
原始的な武具による殺し合いは、確かに「一度に消える街の数」を減らした。しかし、それは死がより身近に、より「手触りのあるもの」になったことを意味していた。
広範囲を消し飛ばす魔法が消えた代わりに、戦場は泥臭い消耗戦へと変貌した。
死傷者の総数は、減るどころか高止まりを続けた。魔法で一瞬に蒸発するか、剣でなぶり殺されるか。その違いでしかなかった。
大陸の人口は開戦時の三割にまで落ち込み、かつて繁栄を極めた文明の残滓は、冷たい鉄の響きにかき消されていった。
俺が、その「消耗品」の一つとして数えられるようになったのは、三週間前のことだ。
簡素な紙切れ一枚――召集令状が、俺の平穏を粉砕した。
「三日後までに、第442大隊基地に出頭せよ」
後に知ったことだが、すでに第1大隊から第436大隊は全滅していると。残った5大隊の追加として442大隊は、俺のような素人を寄せ集めて作られた、急造の穴埋め部隊だった。
支給されたのは、軍服ですらない粗末な服と、腕に巻かれた「丸に十字」の腕章。神聖人智十字教主国の信徒であることを示すその印は、俺たちにとっては救いではなく、死地への片道切符だった。
武器の選択肢は三つ。なまくらな剣と盾か、あるいは槍か。
俺は、震える手で剣と盾を選んだ。
わずか五日間の訓練。木の人形を突く練習を数回しただけで、俺たちは「兵士」として戦場へ放り出された。
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激突:泥濘の死闘
「突撃! 突撃! 突撃ぃいいい!!」
最後尾、絶対に安全な場所から大隊長の怒号が飛ぶ。
俺たちは、獣のような叫び声を上げながら、荒れ果てた大地を駆けた。重い盾が腕に食い込み、草いきれと土埃が肺を焼く。
前方に、大魔王帝国の戦士たちが見えた。
彼らは魔族の血を引く変異種だ。数は、こちらが圧倒的に勝っている。四倍近い兵力差があるはずだった。
しかし、彼らの身体能力は、俺たち純粋人族の常識を遥かに凌駕していた。一歩の踏み込みが長く、振るわれる刃の鋭さは風を切り裂く。
「敵一体に対し、五人から六人でかかれ!」
訓練で耳にタコができるほど叩き込まれた戦術。それが、いかに机上の空論であるかを思い知るのに、時間はかからなかった。
俺の目の前で、同じ小隊の槍兵が叫びながら突きを出した。
だが、帝国兵はそれを鼻で笑うような動作で回避すると、重厚な大剣の一振りで槍の柄を粉砕した。
「あ……」
槍兵が呆然とした瞬間、その首が宙を舞った。噴き出す鮮血が、俺の視界を赤く染める。
「矢を射ろ! 牽制だ!」
弓兵が震える手で番えた矢を放つ。だが、帝国兵は近くにいた味方の死体を盾にして矢を弾き飛ばすと、一瞬で距離を詰めた。
肉が断たれる鈍い音が響く。弓兵の腕が、肩の付け根から鮮やかに切り飛ばされた。
「ひ……、あ……」
喉の奥から、情けない音が漏れた。
剣を握る右手が、盾を持つ左手が、自分の意思を離れてガタガタと震える。
足が、地面に縫い付けられたように動かない。
目の前の帝国兵が、血に濡れた大剣を無造作に担ぎ、獲物を定める冷徹な瞳で俺を見た。
死ぬ。
本能が、最期の警鐘を鳴らした。
帝国兵が地面を蹴る。その動きは、俺の動体視力では追いきれないほどの疾風だった。
振り下ろされる刃――。
覚悟した衝撃は、予想とは異なる形で訪れた。
「ガッ……!」
肺の中の空気が、一気に絞り出された。
斬られたのではない。鉄甲に包まれた帝国兵の足が、俺の胸板を真っ向から捉えていた。
凄まじい衝撃。俺の身体は木の葉のように舞い、硬い地面を何度も跳ねながら転がった。
視界が激しく回転し、上下左右の感覚が消失する。
泥を噛み、小石が肌を削る痛みを感じながら、俺の意識は急速に冷えていった。
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終焉の静寂
どのくらい転がっただろうか。
ようやく動きが止まった時、俺は仰向けになっていた。
指先を動かしてみる。動く。
感覚を確かめる。胸に鈍い痛みはあるが、内臓がはみ出している様子はない。
どうやら、あの帝国兵にとって俺は「刃を汚す価値すらない雑魚」だったらしい。蹴り飛ばされ、戦場の真っ只中から少し外れた窪みへと追いやられたのだ。
「俺……まだ、生きている……」
肺に冷たい空気を流し込む。
死の香りが漂う大気でさえ、今は愛おしかった。
そして、自然と視線が上を向いた。
「ああ、空って青いんだなぁ……」
そこには、地獄のような地上とは無縁の、どこまでも透き通った蒼穹が広がっていた。
戦争の理由も、魔法の汚染も、人族の絶滅も、その空にとっては一瞬の瞬きにも満たない出来事なのだろう。
あまりの美しさに、涙さえ出なかった。ただ、このままこの青に溶けてしまいたい。そんな逃避にも似た心地よさが、全身を包み込んでいく。
ふっと。
視界を占めていた青に、何かが割り込んだ。
それは、太陽を背負った巨大な影だった。
絶望か、それとも救いか。
俺の頭上に現れたその「何か」が、ゆっくりと影を落としていく。
俺は、静かに目を閉じた。




