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言えなかった言葉

 十秒もかからなかったと思う。短い手紙だったのだろう。読み終えて、悠斗は動かなくなった。それから、口元をきつく押さえて、肩が揺れた。泣いているのだとわかった。声を殺して、泣いていた。


 直はバイクのそばに立ったまま、どうすることもできなかった。

 どうしていいかわからなかった、というのが正確だ。声をかけるべきか、立ち去るべきか。近づくべきか、このままでいるべきか。


 結局、直はそこを動かなかった。

 悠斗が泣き止むまで、直はそこにいた。

 バイクのそばで、ただ立っていた。

 風が来て、植木鉢のパンジーが揺れた。チューリップがわずかに揺れた。


 五分くらい経っただろうか。


 悠斗が顔を上げた。目が赤く腫れていた。直を見て、少し驚いたようだった。まだいたのか、という顔をした。


「ごめんなさい」と悠斗は言った。


「謝らなくていいです」


「……なんでまだいるんですか」


「なんとなく」と直は言った。

「立ち去れなかったので」


 悠斗はしばらく直を見ていた。


 それから、「ありがとうございます」と言った。それだけだった。でも、ありがとうという言葉が、直に向かってちゃんと来た。


 帰り道、局に戻って、直は局長に言った。


「届けてきました」


 局長は「そう」と言って、少し目を細めた。


「手紙に、何が書いてあったかは知らないです」


「知らなくていいのよ」


「でも……泣いてました。あの子」


 局長は静かに頷いた。それ以上は何も言わなかった。


 直は自分の席に戻って、次の配達の準備をした。

 信じてない、とはもう言えなかった。

 言えなかった言葉は、消えない。


 それだけが、頭の中に残っていた。


 その夜、直はアパートに帰ってから、しばらく窓の外を見ていた。

 港の方向に、灯台の光が見えた。ゆっくりと回る白い光が、何度も何度も、同じリズムで回っていた。


 直は台所に立って、インスタントの味噌汁を作った。


 待っているあいだ、今日のことを考えた。悠斗が封筒を手に取るときの、震える手。読み終えて動かなくなった背中。声を殺して泣く肩の動き。


 誰から来た手紙だったんだろう。

 去年死んだ誰かが、中学生の悠斗に宛てた言葉。強い未練を持って死んだ誰かが、局長の言葉を借りれば。


 悠斗にとって大切な誰かが、一年間どこかで言葉を抱えていて、それが今日届いた。


 直にも、言えなかったことがある。

 母に言えなかったこと。


 入院中に言いたかった言葉が、いくつかあった。でも、病院の白い部屋の中では、いつも言葉が来なかった。口を開きかけて、また閉じた。それを何度繰り返しただろう。


 ありがとう、と言いたかった。


 毎朝作ってくれた飯が、うまかった。叱られたことが、嬉しかった。名前を呼ぶときの声が、好きだった。


 母の声の記憶は、まだ残っている。「なおる」と呼ぶとき、少し語尾が上がった。怒っているときは「なお」と呼んだ。甘えていいよ、というときは「なおちゃん」と呼んだ。


 なおちゃん。


 最後にそう呼ばれたのはいつだろう。

 言えなかった。今更、言えない。


 味噌汁ができた。

直はそれを食べながら、もし自分が死んだ人間から手紙を受け取れるとしたら、と考えた。


 母から。あるいは父から。

何が書いてあっても、たぶん泣く。


 悠斗みたいに声を殺して泣くか、それとも声に出して泣くか、どちらになるかはわからないが。


 直は箸を置いた。食べ終えていなかったが、もういいという気持ちになった。

 窓の外に、また灯台の光が見えた。同じリズムで、回り続けていた。

 この光は、毎晩こうして回っているのだろう。自分が生まれる前から。父がここで働いていた頃も。そして今も。


 同じリズムで、同じ光が、同じ海を照らしている。

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