最初の配達
翌朝、直はその封筒を配達鞄に入れた。
田中悠斗、という名前の人物は、港通り三丁目に住んでいた。昨夜村瀬に教わった、魚市場の角から時計回りに進んだところにある。
直は原付バイクを走らせながら、信じてない、と自分に言い聞かせた。これは普通の手紙だ。差出人が書き忘れただけかもしれない。消印の日付は印刷のミスかもしれない。
ポストに入れるだけでいい。
港通りに入ると、海の匂いが濃くなった。漁師の家が並んでいる一帯で、朝から網を手入れしている老人の姿が見えた。猫が塀の上で日向ぼっこをしていた。白と茶色の縞猫で、尻尾の先だけが黒かった。その子は直のバイクを見ても逃げず、眠そうにあくびをした。
田中悠斗の家は、細い路地に入ったところにあった。
表札に「田中」と書いてある。二階建ての古い家で、一階の窓には植木鉢が並んでいた。春の花が、朝の光の中で咲いていた。パンジーが紫と白に、チューリップが赤く。誰かが丁寧に世話をしている植木鉢だと、直には見てわかった。
枯れている花がひとつもない。
ポストに封筒を入れようとして、手が止まった。
なんとなく、入れるのをためらった。
どうしてためらったのか、うまく説明できない。ただ、このままポストに突っ込んで走り去ることが、正しい気がしなかった。
考えているうちに、玄関のドアが開いた。
出てきたのは、中学生くらいの男の子だった。ランドセルを背負っていたから、朝の登校前だったのだろう。直と目が合って、男の子は少し驚いた顔をした。
「郵便です」と直は言った。「田中悠斗さん、いますか」
男の子の表情が、少し変わった。固まったような、そして何かを知っているような顔になった。
「……俺です」
「この手紙、あなた宛です」
直は封筒を差し出した。
悠斗は、封筒を見て、固まった。
差出人欄を見た。空白だ。でも悠斗は、空白の欄を見て、何かを知っているような顔をした。目の色が変わった。唇が少し開いた。
「……誰からですか」
直には答えられなかった。
「わかりません」
悠斗はゆっくりと封筒を受け取った。両手で、大切なものを受け取るみたいに。
直はその場を離れようとした。配達の仕事は終わった。でも、なんとなく足が重かった。何歩か歩いてから、振り返った。
悠斗は玄関先に立ったまま、封筒を開けていた。
震える手で。
中から出てきたのは、便箋が一枚。
悠斗はそれを読んだ。




