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差出人のない手紙

 入局から十日目の夜のことだった。

 直は残業で局に残っていた。配達ルートの地図を頭に叩き込もうとしていたのだが、どうしても港沿いの細道が覚えられなくて、机に地図を広げたまま唸っていた。局長もまだいた。窓口の奥の小部屋で、何か作業をしているようだった。


 外では風が吹いていた。

 海からの風で、窓がかたかた鳴っていた。四月の夜風は、まだ冷たい。古い木造建築は、風の夜には隙間風が入ってくる。建物が少し鳴る。


 直はその音を聞きながら、地図と格闘していた。

 港通りの路地の名前がいくつもあって、ルートが絡み合っているのだ。細道が多くて、番地が飛んでいる場所もある。一方通行もある。先週村瀬に「魚市場の角を基準にして時計回りに覚えると混乱しない」と教えてもらったが、それでもまだ完全には頭に入っていなかった。


 そのとき、局長が出てきた。

 手に、一通の封筒を持っていた。

 白い封筒だった。切手は貼ってある。消印もある。でも差出人の欄が、空白だった。


 「朝倉くん」

 と局長は言った。

 声が、少し違った。いつもと。穏やかだけど、どこか真剣な、そういうトーンだった。仕事の指示でもなく、世間話でもない。何かを渡す前の、静かな緊張のような声だった。


 「これ、見てくれる?」

 直は封筒を受け取った。宛先は「星見町港通り三丁目十二番地 田中悠斗様」とあった。差出人欄は確かに空白で、消印の日付は——直は眉をひそめた。


 「これ……日付、おかしくないですか」

「そうね」

 「一年前になってます」

「うん」

 「郵便システムのどこかに紛れ込んでいたとか……」

 「それはない。この局に来る前、この封筒はどこにもなかった。昨日まで」


 直は封筒を見た。たしかに、ある。手の中に、封筒の重さがある。切手も、消印も、宛名も、全部ある。ただ、差出人だけがいない。


 「朝倉くん、ひとつ話をしてもいい?」


 直は頷いた。地図を脇にどけて、封筒をテーブルの上に置いた。局の電灯の下で、白い封筒が静かに浮かんで見えた。


 「この郵便局にはね」と局長は言った。「ときどき、変な手紙が来るの」

 「変な?」

 「差出人のない手紙。夜になると届く。消印はあるんだけど、投函した人間がいない。郵便物として処理するには少しおかしくて、でも確かにそこにある」

 直は封筒を見た。確かに、ある。


 「誰が出してるんですか」


 「亡くなった人よ」


 少し間があった。

 風が窓を揺らした。海の匂いがした。古い木造建築は、風の夜には隙間風が入ってくる。

 

 「……冗談ですか」

 「冗談なら楽なんだけどね」


 局長の声は、変わらず静かだった。嘘をついているような雰囲気でも、試しているような雰囲気でもなかった。ただ当たり前のことを、丁寧に伝えているような声だった。


 「死んだ人が、生きている誰かに宛てて書いた手紙。言えなかった言葉、伝えられなかった気持ち——そういうものが、手紙の形になって届く。条件はある。死後一年以内であること。それから、強い未練があること。配達は一度だけ。届けられなければ、手紙は消えてなくなる」

 「消えてなくなる、というのは」

 「文字通りよ。翌朝来たら、もうない。灰になるわけでも、どこかに飛んでいくわけでもなく、ただなくなってる。私は何度か見ている」

 「……局長は、信じてるんですか」

 「三十年ここで働いてきて、百通以上届けてきた。信じないでいる理由がなくなった、というのが正直なところかな」


 百通以上。

 直はその数字を頭の中で繰り返した。百通以上の言えなかった言葉を、この人は届けてきた。


 「その手紙、届けろということですか」

 「明日、配達ルートに組み込んでおくわ。いつもの郵便物と一緒に持っていって」

 「届けて、どうなるんですか」

 「どうにもならないわよ」局長は微かに笑った。「受け取った人が、どうするかは、その人次第。私たちは届けるだけ。何かしてあげようとしなくていい。ただ、そこに行って、渡してくる。それが仕事よ」


 「拒否されることはありますか」

 「あるのよ、それも」と局長は言った。「差出人のない手紙なんていらない、って言う人もいる。そういうときは持ち帰る。受け取るかどうかも、その人が決めること。こちらは押しつけない」


 その夜、直は封筒をじっと見つめながら、しばらく局の中にいた。

 信じていない。

 でも、手に持っている封筒は確かに存在していて、その重さは普通の手紙と変わらなかった。


 差出人のない手紙。

 誰かの言えなかった言葉。


 直は、窓の外を見た。星見町の夜は暗くて、遠くに海の光が見えた。灯台の白い光が、ゆっくりと回っていた。


 信じると決めることは、今は難しい。

 でも、届けることはできる。届けてみてから、考えればいい。直はそう思うことにした。


 そうやってとりあえず動く、ということが、自分にはできる。考えてから動くのが苦手で、動きながら考えるほうが性に合っている。


 父もそういう人だったかもしれない、とふと思った。

 根拠はないけど。



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