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4月1日、初出勤

 四月一日。入局初日。

 直は制服に腕を通しながら、鏡の前に立った。


 グレーの作業着に、帽子。なんとなく大人みたいに見えた。自分の顔を見て、父に似てると面接官に言われたことを思い出した。父の顔は写真でしか知らない。正確には、記憶の中に父の顔があるが、それが写真の影響なのか本当の記憶なのか、もうわからなくなっていた。


 直は身長が百七十センチを少し超えたくらいで、体つきは細い。母には「もっと食べなさい」とよく言われた。母が死んだ後は言ってくれる人がいなくなって、食べることを忘れるようになった。腹が減っているのに気づいていない、ということが増えた。


 母が生きていたら、写真を撮ろうとしてきたかもしれない。

 直は一度だけそう思って、鏡から目を逸らした。

 アパートを出ると、四月の朝の空気がひんやりしていた。


 直が引っ越したのは、昨年の暮れだった。母が死んで、家を引き払って、一人で住める安いアパートを探した。築三十年の古い建物で、台所が狭くて、風呂がユニットバスで、窓から見えるのは隣のアパートの外壁だけだ。でも家賃が安くて、駅からも局からも自転車で行ける距離だった。


 それで十分だと思った。


 桜が散り始めていた。道路の端に花びらが溜まっていた。自転車で局に向かいながら、直は桜の花びらが風に舞うのを見た。


 春の朝というのは、なんとなく嘘みたいだと思う。こんなきれいな朝に、新しいことが始まるというのが、少し実感を持てない。新しいことというのは、もっと曇った日に、地味な形でやってくるものだと思っていた。自分の人生で大事なことは、だいたいそうだった。父が失踪した日も、母が倒れた日も、どちらも普通の朝だった。


 星見郵便局は町の外れにある。


 港から歩いて十五分、山のふもとに差し掛かるあたりの細い道を入ったところに、古い木造の建物がぽつんと立っている。看板は色あせていて、郵便マークの赤もずいぶん薄くなっていた。


 初めて面接に行ったとき、直はこの建物を見て、廃墟かと思った。


 窓ガラスが古くて、光の加減によっては中が暗く見える。玄関先の木の柱が、長い年月でなめらかになっていた。何千人もの手が触れてきた感触が、その滑らかさに残っていた。


 直は思わずその柱に手を触れた。


 冷たさと温かさが混じった感触がした。木の記憶、というものがあるとしたら、こういうことかもしれない、と直は思った。触れてきた手の数だけ、何かが染みついている。


 郵便ポストだけが異様に赤くて、まるでそこだけ別の時代から持ってきたみたいだった。


 局に着いたのは、開局の三十分前だった。


 局長の雨宮千鶴は、すでに来ていた。


 五十代の女性で、髪を後ろでひとつに束ねていた。化粧っ気はほとんどなかったが、目元の印象が強い。細くて涼しげな目で、笑うとそれがさらに細くなって、なんとなく狐みたいだな、と直は思った。


 怖い、というわけじゃない。ただ、何かを知っていそうな目をしている。


 面接のときから、そう感じていた。局長は直を見るとき、いつも少し時間をかけて見る。それが値踏みでも威圧でもなく、何かを確かめているような視線だった。


「朝倉くん、ね」


 と局長は言った。履歴書を手に持ったまま、直の顔をじっと見た。


「はい」


「お父さんのこと、知ってるわよ」


 直は少し固まった。


 予期していなかった言葉ではなかった。でも、初日の挨拶でいきなり言われるとは思っていなかった。


「……そうですか」


「驚かないのね」


「この町、狭いので」


 局長は小さく笑った。


「よく来てくれた。ここで頑張りなさい」


 それだけだった。父のことについて、それ以上は何も言わなかった。


 そのシンプルさが、直には少し、ありがたかった。根掘り葉掘り聞かれるより、さっぱりしている。この人は、聞くべきときに聞く人だ、と直はそのとき思った。後になって、それが正しかったとわかる。


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