第八話「銀髪の芸術家」
冬月凛の甘い声が耳朶に絡みつく。
「いいわよね?」
細い腕に囚われたまま、俺は硬直していた。美術室特有の油絵具と古びた木枠の匂いの中で、彼女の銀糸のような髪が夕陽にきらめいている。
「あの……冗談……ですよね?」
掠れた声で尋ねると、凛は腕を緩めずに首を振った。冷たい指先が僕の頬を撫でる。
「冗談なんかじゃないわ。あなたの骨格と肌の質感……描いて思わせるから、仕方ないわ。そうさせているもの」
それは称賛なのか判断不能だ。逃げ場を探して視線を泳がせる。
「俺は……素人に過ぎないし……」
「モデルには関係ないわ」
そうですね!プロモデルとか想像できません!
凛は急に真剣な表情で距離を詰めた。碧い瞳に沈殿した情熱が燃える。
指先が鎖骨を押す。痛みと共に彼女の願いが伝わってくる。
「見つけたの。動きの中にある静寂を——モデルになって。一週間でいい」
「……一週間?」
「1日で描ききるわけないじゃない。時間をかける必要があるの」
凛の思考は理解不能だった。この執着は……。
「つまり毎日ここに来いと言うこと?」
「そうよ。時間は貴重。君が来るだけで全て解決する」
言い回しが飛躍しすぎて戸惑うが、とにかく諦める気配はない。
どうしたらいい?脳内シミュレーションをする。無下に断ったらどうなる?
睨まれる?逆恨みされる?分からないのが余計に怖い。
「わかり……ました。条件があります」
「何?」
「毎日の放課後1時間まで。凝ったポーズは取らない。それで許してください」
妥協点を探ると凛はじっと俺を見つめ返した。
沈黙が数秒続く。
「……良いわ」
短い返事とともに彼女はスッと身を離した。途端に虚脱感が襲う。
現実逃避ではないのか?幻覚?
自問しても答えはない。
「では明日からお願い。今日はもう遅いから」
「はい……じゃあ失礼します」
「待って、一緒に帰りましょう」
「え?」
その提案に全身が凍りついた。これ以上トラブルの種を持ちたくなかった。
しかし凛はすでに準備万端だ。上着を羽織りながら優雅に準備をしている。
「最近この学校周辺、変質者が出没してるらしいの。用心棒代わりに」
彼女の言い分は正当だ。渋々頷くしかなかった。
***
下校時刻の校門を出ると日はとっぷり暮れていた。
街灯がオレンジ色に揺れる街並み。
凛は無言で俺の少し前を歩いて行く。
制服のプリーツスカートが歩調に合わせて揺れる。
「あの……冬月さん」
「凛で良いわ」
「えっと、凛……改めて聞くけど本気なの?」
「言った通りよ。私は嘘をつかない」
まっすぐな答えが胸に刺さる。
どう考えても異常だ。出会ったばかりの男を強引にモデルにしたいなど。
「もし断ったらどうなるか考えてみた?」
「あなたなら受けてくれると思ったから」
「根拠は?」
「目よ」
彼女は振り返り微笑んだ。その表情に不思議な自信が漲る。
「あなたの目は……逃げ腰なのに芯がある。優しさの中に揺れがある」
「……それって褒めてるの?」
「ええ。私が求めてるもの」
この人は人を観察するのが趣味なのかもしれない。
駅前ロータリーの噴水が視界に入った。
「じゃあここで。また明日」
そう言うと凛は颯爽と去って行った。
振り返りもせず銀髪の影が雑踏に溶ける。
残された俺は深いため息をついた。
「また一段とややこしくなった……」
***
翌日の放課後。
指定通り美術室へ向かうと凛は既に準備万端だった。イーゼルに大きなキャンバスが立てかけられ、様々な絵の具がパレットに並べられている。窓からは柔らかな光が差し込み、銀髪の少女を神々しく縁取っていた。
「来たわね」
凛が振り返ると同時に油絵具の匂いが鼻腔をくすぐる。白いエプロン姿の彼女は手にしたスケッチペンシルを弄りながら俺を値踏みするように見据えた。
「では早速始めましょう。まずは基本的な構図から……そこに立って」
指差された壁際には丸椅子が置いてあった。指示通り腰掛けると凛がすぐに注文を付け始めた。
「足は組まずに地面につけて。手は膝の上で……そうそう。顔は……」
まるで操り人形のようにポーズを作る俺。内心では戸惑いが渦巻いている。「本当にこれで良いのか?」疑問を飲み込みながら指定通りに動く。
凛はキャンバスに向かい鉛筆を滑らせ始めた。集中しているようで一言も喋らない。その真剣な表情には先ほどまでの不気味さとは違う何かがあった——純粋な創作者の眼差しだ。
三分間……いや十分が経過した頃だろうか。凛がようやく口を開いた。
「良い感じ……でも少し硬いわね。もっと力を抜いて」
「うん……ごめん」
緊張で体が強張っていたらしい。意識して筋肉を弛緩させる。すると凛は再び沈黙し筆を走らせ始めた。彼女の世界にはもはや俺以外の存在がないように感じられる。
(これが芸術家の生き様か……)
普段見慣れない人の集中力を目の当たりにして畏敬の念さえ覚えるのだった。
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