第三話「幼なじみと、新たな距離感」
夕暮れ時の住宅街は、どこか寂しげな影を落としていた。昨日の白石さんとの一件以来、俺の頭は奇妙な混乱状態に陥っていた。思考の半分は未だに柔らかい感触の幻想に囚われており、もう半分はそれを無理やり論破しようとする理性の攻防戦が続いていた。
「……どうしたんだ俺」
独り言を漏らしながらゆっくりと駅へ向かう坂道を下りていく。春の夕風が妙に肌寒く感じるのは、きっと俺がまだ動悸を抑えきれていないせいだろう。
「……拓海?」
聞き覚えのある呼び捨て。その懐かしい声に振り向くと、そこに立っていたのは――佐藤千春だった。
淡いピンクのカーディガンに短めのスカート。ふわりとした栗色の髪が夕陽に黄金色に輝いている。
「千春……?」
驚愕で時間が停止したような錯覚。彼女は少し遠慮がちに微笑むと、小走りで近づいてきた。
「やっぱり拓海だ、久しぶり」
彼女の左手が俺の右手をギュッと握った。その瞬間、昨日の白石さんとの出来事がフラッシュバックする。しかしこちらは明らかに幼馴染の親愛の証――そう自分に言い聞かせながらも、やはり手の感触は不思議な懐かしさを帯びていた。
「高校で教室が分かれてから全然会ってなかったよね。同じ駅なのに」
「うん……でも、まさかここで会うとは思わなかった」
「私もびっくり。拓海、背伸びたね」
「そうかな……?」
千春のほうが成長が早いんじゃないかと一瞬思った。それに、身体付も随分大人っぽくなった。
「ねえ、これから帰り?一緒に帰ろうよ」
「……ああ、うん」
並んで歩き始めると、どうしても記憶が甦ってくる。幼稚園から中学三年まで、毎朝迎えに来てくれた彼女。雨の日も雪の日も、遅刻しそうな日は家まで上がり込んで起こしてくれた。あの頃は彼女と一緒にいることが当たり前すぎて、感謝すらしていなかった。
「最近どう?クラス馴染めてる?」
「まあ……それなりに。千春は?」
嘘だ。ボッチだよ。
「私は楽しいよ。友達もたくさんできたし。でもね……」
千春は少し俯いた。
「時々、拓海の声が聴きたくなるの」
予想外の告白に心臓が跳ねた。隣を見ると、彼女は少し照れくさそうに前を向いている。
「急にそんなこと言われると……恥ずかしいんだけど」
「だって本当だし」
千春が小首を傾げて微笑む。その表情は昔と全く変わっていない。無邪気で、朗らかで、周りを和ませる太陽のような笑顔。
(やっぱり変わらない部分もあるんだな)
そう思うと少しだけ心が落ち着いた。いや、正確には落ち着いたというより、懐かしさで胸がいっぱいになった。この関係は俺にとって特別だ。他の女子たちとは違う。家族のような存在なのに、どこか恋愛感情とは違った温かさがある。
「そうだ、週末ヒマ?」
唐突な質問に思考が中断される。
「え?まあ……特に予定はないけど」
「だったら私の家の近くのカフェ行かない?新作のスイーツが出たんだって!」
「……女子同士で行けば?」
「女子だけだと話しにくいこともあるじゃん。それに……」
千春が俺の腕に軽く触れた。
「拓海と一緒の方が楽しいんだもん」
その瞬間、さっき見た白石さんの微笑みと、数学教室での柔らかな感触が再び脳裏によみがえる。幼馴染とはいえ、こうして再び手を伸ばされること自体が何故か俺を緊張させた。
「……わかった。行こうか」
「やった!じゃあ土曜日の午後一時に駅集合ね!」
嬉しそうにジャンプする千春。その姿を見ていると、かつての自分に戻れる気がした。陰キャとか、モテ期とか、そういう面倒なことを考えなくて済む世界に。
しかし同時に、どこかで不安も感じる。白石さんと過ごした時間、天宮さんとのドキドキした接触……それらが千春との関係に影響しないだろうか?いや、そもそも千春は俺をどう思っているんだろう?
考え込んでいるうちに、いつの間にか駅の改札口まで来ていた。
駅の構内アナウンスが、間もなく上り列車が到着することを告げていた。平日の夕方、この時間帯はちょうど通勤ラッシュのピークを迎える。人波に飲まれながらプラットフォームへ向かうと、既にホームは黒山の人だかりだった。
「うわ……今日はすごい混みようだね」
千春が不安そうに眉を寄せる。その瞬間、電車が轟音とともに滑り込んできた。ドアが開くや否や、乗客が洪水のように降りてくる。同時に後方からはさらに多くの人が殺到し、あっという間に押し込まれていく。
「きゃっ!」
人波に押されて千春がバランスを崩した。慌てて彼女の手首を掴み、なんとか支えることができた。しかし次の瞬間、二人とも電車のドア付近に押し込められてしまった。
「ちょ……!?」
身動きが取れない。前面には硬い壁、両サイドには知らない人たちの体温。そして最も厄介なことに、真正面には千春がぴったりと密着していた。息をするのも困難なほどの距離だった。
「ご、ごめん拓海……動けない」
千春の声が耳元で震える。その息がかかるだけで、ぞくりと背筋が痺れた。彼女の体はまるでスポンジのように柔らかく、押し潰されることなく体重を受け止める。だが問題はそこではない。彼女の胸部が――押し当てられているのだ。
「だ、大丈夫だから!気にしないで!」
そう言うものの、意識はどうしてもそこへ吸い寄せられてしまう。電車が動き出すと同時に、僅かな揺れが生じた。そのたびに千春の体は緩慢に振幅し、接触面積が微妙に変化する。息を飲むような感触だった。
「ん……」
小さな喘ぎ声が千春から洩れた。驚いて彼女の顔を覗き込むと、頬がわずかに紅潮している。目尻がとろんと下がり、唇が微かに開いている。明らかに普段とは違う表情だ。
まさか――感じている?
「千春……?」
声を潜めて呼びかけると、彼女はハッとしたように目を見開いた。
「な、なに!?」
「いや……何でもない」
自分の愚かな推測を恥じる。彼女はただ苦しいだけなのだ。そうに違いない。しかし心臓は激しく鼓動を打ち続けている。白石さんとの一幕が脳裏をよぎる。またしても俺は何か致命的な過ちを犯そうとしているのではないか?
車輪がレールを噛む音だけが規則正しく響く中、千春の体臭が鼻腔をくすぐった。甘酸っぱい花のような香り――多分シャンプーだ。それに混じって微かに汗の匂いがする。それさえも何故か惹きつけられるものがあった。
その時、電車が大きく揺れた。慣性の法則によって、千春の体がさらに深く押しつけられる。
「ひゃっ!……あ…」
甘い悲鳴。頬を伝う汗が、薄明かりの車内灯に煌めく。彼女の膝が僅かに内側に折れ、重心が左脚に偏る。その動きによって密着部位に新たな圧力が加わる。
「だ、大丈夫?立てる?」
支えようと肩に手を添えた瞬間、彼女の肌が粟立ったのが分かった。
「拓海の手……冷たいね」
「そうかな?千春のほうが熱いだけかも……」
会話はそこで途切れた。車内の喧噪だけが鼓膜を満たしていく。千春の呼吸が徐々に浅くなり、ついには荒い鼻息が耳朶を撫でるようになった。こんな状況で勃起したら最悪だ。俺は必死で冷静さを取り戻そうとする。数字を数える。素数を唱える。
十分が永遠に感じられるほどの時間が経過した頃、ようやく電車が減速し始めた。
「次は○○駅です……」
アナウンスと同時にドアが開き、出口に向かって人波が渦を巻く。圧迫から解放され、俺たちは何とかホームへと這い出した。
「はぁ……死ぬかと思った……」
千春が大きく深呼吸をする。その顔は未だに真っ赤だ。疲れているのか、それとも他の理由があるのか判断しかねる。
「大丈夫?顔赤いけど」
「だ、大丈夫!ちょっと暑かっただけ」
慌てて顔を背ける千春。その仕草が妙に可愛らしかった。
「ねえ拓海」
「何?」
「週末のこと……楽しみにしてるからね!」
そう言うと彼女はくるりと背を向けた。カーディガンの裾が翻る。その一瞬――振り返りざまの横顔に浮かんだ表情を俺は見逃さなかった。
それは間違いなく……満足げな微笑みだった。
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