20話 世紀末都市「大宮市」 その4
クロスカウンターでの取材の翌日。ちゅ、ちゅ、と鳥が鳴く声で目が覚める。
手元にあったスマホを見ると、時計は8時前を指している。
二度寝してもいいが、私にしては珍しくそこまでの眠気がない。布団から這い上がり、大きく伸びをする。
「ぶぁああ…っ、あーっ…」
寝室を出て下におり、リビングに入る。
と。米、味噌汁、卵焼きと質素な朝ごはんを食べる母ちゃんと目があった。
「おはよーござーまーす、母ちゃん」
「おはよー。夏休みなのにしっかりした生活リズムしとんなぁ、珍しい。健康でええと思うよー」
「今以上の健康要らないんですけど…」
流石にトラックに轢かれて無傷なくらいの健康はいらない。大宮に染まり切ってしまっているが、根っこは常識人なのだ。…ここ最近で、自分が常識人の範疇に入るのか怪しくなってきたが。
そんなアイデンティティの揺らぎから目を逸らすようにご飯の用意を済ませ、母の向かい側に座った。
「初音たちは?」
「今日、町内会の夏祭りあるやろ。あそこの手伝い。
ウチらは今日、用事あって行けへんからなぁ。いくらかお駄賃渡して、代わりに行ってもらってるんよ」
「あー、あのしょっぱいやつかぁ…」
夏祭りといっても、そんなたいそうなもんじゃない。「予算一万円くらいしかなかったんじゃ?」とある程度賢しい子供なら邪推してしまう低クオリティの催しだ。
食べ物は焼きそば、たこ焼きと粉物オンリー。りんご飴やチョコバナナなんて影も形もない。
遊びも適当に作ったであろう低クオリティの輪投げや、そこらのおもちゃ屋で買ってきたことが丸わかりのやっすい射的。その景品はどれもしょぼく、たとえ一番いい物を選んだとしても、他よりちょっと大きい駄菓子の詰め合わせ。
それを純粋に楽しめる子は欠かさず参加しているが、成熟が早い子は参加しなくなる。そういう、どこでも見られそうなしょっぱい夏祭りだ。
「しょっぱい言うなや。毎年毎年面倒くさがって一度も手伝い行っとらんくせに」
「いや、確かにそうですけど…。でも、あの学芸会クオリティで今時の子供が喜ぶかはぶっちゃけ微妙ですよね?」
「そんなんいうんやったら手伝って行きぃや。まだテント張ったばっかやろうし」
話がめんどくさい方向に転がり始めた。
顔を歪め、唇を尖らせる。無論、これで母ちゃんの要求を退けた試しは一度としてない。
どう断ろうか、と悩んでいると、ふとポケットに入れていた私の携帯が揺れた。
あのバカ教授の依頼でもいい。どうにか私をしょぼい夏祭り設営から解放してくれ。
そう思い、こっそりと携帯を開く。
「あ、すみません。私、友だちと会う約束がありますので」
「それやったらしゃーないな。気ぃつけて行ってきぃや」
残念そうにため息を吐き、茶を啜る母ちゃん。
瞬間。その目が何よりも鋭くなり、その喉奥からすり潰さんばかりの圧を込めて低い声が放たれた。
「嘘やったら殺すからな」
「嘘じゃないですって」
大丈夫だ。嘘ではない。たった今、できた約束というだけで。
私の携帯に表示された通知。そこには、紫菜さんから「今日、会えませんか?」と急なデートの誘いのような文言が並んでいた。
♦︎♦︎♦︎♦︎
「ごめんなさい、急に呼び出したりして…」
「いえいえ、誘ってくれて助かりました」
「へ?」
「…ああ、こっちの話です」
10時前、大宮駅前にて。電車を乗り継いでやってきた紫菜さんを笑みで迎え入れる。
全国共通の怪現象だろうが、母親という生物は謎のネットワークを持ち、面倒ごとをサボろうとたくらむ我が子の動向を把握してる時がある。
それで痛い目を見た者たちは多いだろう。私もその中の一人だ。
しかし、今日は実際に友人…そこまで関わりはなかったが、親には友人と言い張れるくらいの同級生と実際に会い、行動を共にしているのだ。胸を張ってクソしょぼ夏祭り運営をサボれるというもの。
堂々とした気持ちで面倒ごとをサボれるとはなんと素晴らしい。
…代わりに別の面倒ごとが起きないといいが。
「それで、今日はどうして私を呼び出したんですか?」
「えっ、と…、その…。が、我慢、でき、なくて…っ」
「……………はあ?」
「我慢できない」と聞き、つい体が固まる。
経験上、このパターンの二の句は、碌でもないものが大半だ。
そんな私の予感が当たったのだろうか。紫菜さんの足がぷるぷると震えているのが見える。
「はっ、はぁっ…、はっ…!はぁっ…!む、むり…!だめ、もうだめっ…!」
「紫菜さん、あの、紫菜さーん…?」
「え、の、しろっ、さん…っ、ごめんなさい…っ、おっ、おさえ、られ…ませぇん…っ!」
「わ、私、そっちのケないですよー…?どノーマルのノンケですからねー…?」
熱った頬。乱れる吐息。呂律の回っていない言葉の数々。蕩けた瞳。どう考えても情欲に支配されてるとしか思えない。
私、なんかしたっけ、と記憶をまさぐっていると。
がくんっ、と電源が切れたように紫菜さんの体が崩れ、私の肩を掴む。
肩を掴む力が強い。しかも、よくよく見ると、紫菜さんの口元から涎がぽたぽたと落ちている。
あ、やばい。喰われるかも。
往来ではお見せできない惨状になる前になんとかしないと、と思ったその時。
ドロドロに溶けた真っ黒な眼光が、私を刺した。
「ヤりましょ!今!ここで!!」
「ちょちょちょ、肩痛い肩痛い!みんな見てるから抑えて、抑えてっ!!」
やっべ力強っ。抜け出せない。
解き放たれた猛獣のような勢いでがっつく紫菜さんをなんとか引き剥がそうとするも、びくともしない。
掴まれている肩以上に、通行人の視線が痛い。「ねぇ、ヤりましょ!ねぇ!」と絶えず蕩けた声で叫んで私の返答を待たないでほしい。品のないカップルを見るような微妙な視線によって、自尊心がゴリゴリと削られていくのがわかる。
ここまでハイになっていると、自分の求める声以外は耳に届かないだろう。
となれば、やることは一つ。
私は熱くなった彼女の頬に優しく手を添える。
「きゃひぇっ?」
間の抜けた声を漏らす紫菜さん。
蠱惑的な顔だ。私が男ならこのまま唇を奪っていたかもしれない。
が。あいにく私は女だ。恋愛対象は男。いや、恋したことはないが、女に興奮する趣味はない。
頭を後ろに逸らし、首に力を込める。
「無駄吠え、禁止っ!!」
「きゃひっ!?!?」
ごぃんっ、と音と衝撃が頭に響く。
なんてことのないただの頭突きだったが、紫菜さんの意識を切り替えるには十分な衝撃だったらしい。
紫菜さんの瞳は黒から紫へと戻り、うるうるとその瞳を潤ませた。
「う、うぇぇえ…っ!い、痛いですぅ…!」
「ごめんその、性的に喰われそうだったから、つい…」
「ふぇええっ…」
今のところ、女に操を捧げる気はない。だから拒否しただけのことだが、こうも泣かれると罪悪感がすごい。
人格によって痛みへの耐性が違うのかも。
申し訳ないことをしてしまったかも、と思っていると、紫菜さんが私のスカートを強く掴んだ。
「ちょ、ちょっ…!?」
「あ、あのっ…!私も、もう一人の私も…!女の人が好きってわけじゃないですぅ…!!」
「…………へっ?」
その言葉の衝撃に、再び固まる私。
紫菜さんは涙を拭いながらスマホを取り出し、文字を打ち込んだ。
「さっきもう一人の私が言ってた『ヤる』は、こう書くんですぅ…!!」
メモ帳アプリに書かれた二文字。それを見て私は思わず、頭に手を添えた。
「ヤるって、『戦る』の方だったのねー…」
そりゃ私が呼び出されるわ。
そんなことを思いつつ、私はえぐえぐと痛みに泣く紫菜さんを慰めた。




