息を止め続けられる男
どんなに長い間でも息を止められる、という男がいた。男は幼い頃から自分が特別な人間であるとわかっていた。どんなに休まず走っても疲れた事がなかったし、どんなに長い間水に潜っても苦しくなかった。
昔から男の噂を聞きつけて、町中の体力自慢が男と対決するために集まって来た。しかし、男より長く息を止めた者は誰もいなかった。
やがて男が住んでいた町には、世界中から男と勝負したいという者たちが訪れた。長距離マラソンの世界的な黒人選手や、中国の山奥からやってきた髭面の仙人、秘密の手術によって特殊な肺を手に入れた闇医者など、男に勝つためにあらゆる道のエキスパートが集まった。それでも男より長く息を止められた者は1人としていなかった。
ある日、地球の反対側に住む1人の貧しい少女が、男に挑戦を申し込んだ。
「世界中のエキスパートが敵わないのに、少女に相手が務まるものか」
人々はそう言って笑ったが、少女にもまた、男のように特別な力があった。少女は生まれた時から目が見えない代わりに、神が自分の願いを聞いてくれるのだと言う。お腹が空いた、と言えば腹は満たされ、眠りたくないと言えば1週間以上も眠らなくて平気だった。
後日、男と少女の対決が行われることになった。空気が薄い雪山の頂上で、この日初めて対面した2人は地面に並んで座った。息ができないよう同時に顔をテープで覆われ、限界を迎えたら手を挙げる、先に助けを求めた方が負け、という簡単なルールだ。人々はどちらがこの勝負を制するのか、固唾を飲んで見守った。
勝負が始まる直前、少女は自分の国の言葉で
「神様、できるだけ長く息を止めてください」
と呟いた。
この時、男だけが少女と話す神の声を聞いた
「…心得た」
多くの金持ちや有名人が、見物人として2人を取り囲んでいる。
「はじめ」
合図で2人は息を止めた。
もはや、その日中に決する勝負ではなかった。
勝負開始から3日が経過した頃だろうか、少女は少しずつもじもじとし始めた。だが男の方に変化は全く無かった。そしてさらに2日が過ぎた頃、ついに少女は手を挙げ、ごろごろとのたうち回った。人々にテープを外された少女は、少ない山の空気が全て無くなるというほどに息を吸い、それから1週間ほど気を失った。少女の負けが決まったのである。
問題はそこからだった。
待てど暮らせど男は手を上げない。どこまで記録が伸びるのかと楽しそうに見ていた人々すら、飽きて山を降りて行った。
それから1週間後、登山を楽しんでいた地元の愛好会が男を見つけた。テープをしたまま、手を上げずじっと横になって耐えている男を人々は大いにたたえ、その生き様を尊敬した。やがて男の邪魔にならないよう、山に近づくものは誰もいなくなった。
不思議と、男を助けるために残るという者は1人も出て来なかった。
「彼はまだ手を上げないらしいぞ」
男はそんな人々の期待に応えるように、今日もひっそりと冷たくなった体で息を止め続ける。