78 わたしのいちばん長い日 Ⅶ
「立って!」藍澤さんが言った。「早く!」
「待ってよ……靴履くから……」
結局、業を煮やした藍澤さんがわたしの脇を抱えて無理矢理立ち上がらせた。
後頭部の鈍痛でめまいに襲われた。よろけたわたしを藍澤さんが「なに、わざとらしい!」とあざける。
たいへん忌々しい。
わたしは小突かれながら防災公園から離れた。根神はまだ立ち上がれずママと残った。
白っぽいアスファルトの路上に駐車している黒のSUVに連行された。日光の照り返しが強い。
SUVから2人の黒服が出てきた。暑いのにきっちり上着を羽織っている。
黒服1が言った。
「その女が例の監視対象?間違いないな?」
「間違いないってば!」藍澤さんがイラついた口調で言い捨てた。「こいつ早くぶっ殺して東京湾に捨ててよ!」
「殺しちゃダメだろ」黒服2がせせら笑った。「さっあんたたちはもう用済みだから、お祭りに戻りな。ここからは大人のお仕事なんで」
「そうはいかないよ!あたしたちがずっと見張り続けてたんだから、美味しいとこだけ持ってくなんてダメだっつの!」
「うるさいんだよこのクソガキが!」黒服1は突然キレて藍澤さんにビンタを食らわした。藍澤さんはくるっと半回転しながら地面に倒れてしまった。
「ったくうざってえオタクどもが!おいそこのオカマ!撮影やめろ!」
黒服1の恫喝に関わらず、ホモのびっくんは躁病的なニタニタ笑いを浮かべながらスマホを構え続けている。黒服が手を伸ばしてスマホをひったくろうとすると素早く飛び退いて、さらに撮影し続けていた。
(この人、狂ってる……?)
猛暑なのにわたしはうすら寒くなってきた。
黒服Ⅰが、びっくんというより会場全体に嫌悪感を表明するように舌打ちした。
「オイ!女連れてさっさとずらかろうぜ。そうすりゃ中国との取引材料に使えるんだろ?」
「だな!」
黒服2がわたしの首根っこを乱暴に掴んでSUVの後席に押し込もうとした。
運転席に乗り込みかけた黒服1が、突然叫んだ。
「なんだあれ!?」
わたしと黒服2は車の屋根越しにそれを見た。
真っ黒な毛皮の猛獣が、まっすぐ突進してくる!
「ハリー軍曹!」
運転席側の黒服1がグローブボックスに飛びついた。たぶん銃かなにか取り出そうとしたのだろう。わたしは隙を突いてSUVから飛び退いた。
次の瞬間、ハリー軍曹がSUVにタックルした!
車体が黒服1を乗せたまま宙に舞って、もの凄い音とともにひっくり返った。
「オイマジかよ!?」残った黒服2は腰を抜かして地面にへたり込んでいた。自分の頭上を越えて転覆した車と猛獣をなんども見やった。
ハリー軍曹がゆっくり接近すると、男は両手をかざして叫んだ。
「やめろ、こっち来んな!よせっ!」
ハリー軍曹は黒服2に猫パンチを食らわせ、彼は10メートルほど弾き飛ばされた。
「ハリー軍曹……」かくいうわたしも地面にへたり込んでいた。なんとか片手を差し出すと、大きな頭をこすりつけてきた。
「さっ立てるかい?」と言ってる感じでわたしの脇に身体をすり寄せてきた。
「よっ、……と」わたしはその太い首に掴まりながらなんとか立ち上がった。
また見物人が遠巻きにわたしたちを取り囲んでいた。
車が騒々しい音を立ててひっくり返り、猛獣が出現したのだから無理もない。
放哉公園のほうは静かになっていた。わたしが離れていた数分のあいだに勝負が決着したのだろうか……
「な~つみ~ん!」
無邪気な呼びかけにわたしは顔をしかめ、振り返った。ホモのびっくんが10メートルくらい離れて手を振っていた。
隣には藍澤さんが、ハンカチで腫れた頬を押さえながら、明確に殺意のこもった眼でわたしを睨んでいた。
「なんか失敗しちゃったみたい~。でもまだ一回戦だからね!」
「あんた何がしたいの!?」
「なにって、ただの暇つぶしだってばぁ!あんたとあの可愛い子、ちょっと調子乗りすぎてるからペナルティ食らわせてるだけだって」
「ペナルティって!?だいたいわたしたちあなたに全然迷惑かけてないよ!?」
「なに言ってんの!あたしがあんたたち有名にしてあげようと思ってスレ立てしたら片っ端から削除したじゃん!めっちゃ露骨に妨害しといて迷惑かけてないって、あんたどんだけ邪心なんだか!」
わたしは絶句した。
NSAのネット工作のことを言ってるのだろう。
彼はたぶん、掲示板にあること無いことスレ立てして炎上させるのが好きな自称インフルエンサーの類いなのだ……それで「言論の自由」を散々邪魔されてわたしを――サイさえも逆恨みしているのだ。
「それで……中国のおねえさんの力を借りてわたしの小説を晒し物にすることに成功したってこと……?」
「そーそー!」びっくんは歓喜に目を輝かせていた。「それから今日領布した本であんたたちの正体暴いたから~!残念もうにげられませ~ん!」
(もうやだ、付き合ってられない)
尾藤の手前勝手な言いぶんに反論したら、彼と同じレベルになる、と直感した。
わたしは奇妙な勝利宣言をまくし立てる彼に背を向けて、歩き出した。




