67 煉獄
1時間するとユリナは目を覚ましてふたたび暴れた。
追いかけ回すだけで大変な労力だ。ちっちゃな子はママの気力を削ぐのが仕事みたいなものだけど、妹はよくへし折れないものだ、と思う。
わたしなんか気ままに甘やかして可愛がるだけで……たぶんそれじゃいけないのよね。
「でもちっちゃな子には愛情いっぱい必要でちゅもんね~」
「ネ~」ユリナも賛同してくれた。
「さ、姪っ子、猫にミルクあげて」
「ハーイ!」
お皿にミルクを注いであげると、ハリー軍曹がピチャピチャ舐めはじめた。姪は眼を細めてその様子を眺めてる。
猫とその傍らにしゃがんだちびっ子、というこの上なく愛くるしい光景にわたしのハートはメロメロしっぱなしだ。
お夕食は子供が喜びそうなメニューを張り切ってみた。
いわゆるキャラ弁と呼ばれてるのを作るといいらしい……とネットに書いてたので、にんじんやゆで卵を駆使して動物の顔らしきものをこさえた。
たこのウインナーなんて最近はついぞ作ってなかったけれど……それに俵ふうの小さなおにぎりなどなど。
コテージの庭で夕食をとって、お風呂に入れて、紅白の市松模様のパジャマに着替えさせて……
ちっぽけなパジャマ姿の可愛らしさよ。ギューしてスリンスリンしてちゅっちゅしたいけどわたしは懸命にこらえた。
それから姪っ子はサイお兄ちゃんと桟橋に向かって、宵闇に浮かぶ異世界を眺めた。
サイの隣ではしけから足を投げ出して座っているうちに、ユリナは眠ってしまった。
サイの片腹にコテッとおつむをもたせかけたうしろ姿がとってもラブリーね。
サイは起こさないよう慎重に持ち上げて、わたしは姪を抱きかかえた。
「さ、かえりましょうね~」
アパートの部屋に戻ると、間もなく妹が車で迎えに来た。
わたしは別れを惜しみつつ、ユリナをチャイルドシートに寝かしつけた。
バイバイできないのがなんとも悩ましいけれど、せっかくすやすや寝てるので起こしたくない。
「お姉ちゃん、今日はありがとね」
「うん、わたしも楽しかった。ユリナちゃんはいい子にしてたよ」
姪が居なくなってしまうとアパートは気が抜けたように静まりかえった。ハリー軍曹も消えていた。
たぶん一人きりだったら耐え難かっただろう。
「ユリナちゃん、ぐずらなかったな」
「ママに会いたいって泣き始めたらどうしようか、ずっとハラハラしてたわ」わたしは大きくのびをした。「――けどやっぱ大変ね!」
「でもナツミ、ママになりたいってすこし思ったろ」
わたしはたぶん変な薄笑いを浮かべてただろう。
「まあ……ね」
普通の男性だったら言わないだろう事柄でも、サイはズバッと言ってくる。話題を避けて微妙な空気を作ることはしないのだ。
そういうところはありがたかった。
とは言え、薄氷を踏むような話題であるのは確か。
「けど、赤ちゃん欲しいかって言われると悩むなあ」
それに、え~と、相手が要ることだし。
正直言ってサイと赤ちゃんを作れるのか、わたしは確信できない。
来年になってもサイと一緒でいられるの?
もしも赤ちゃんができちゃったら、わたしどうなるの?
なにもかも不確定で将来が見えない……。
先日知らない法律事務所から連絡があって、あなたの口座に代金を振り込むと伝えられた。
翌日口座預金を確認したわたしは、軽く失神しかけた。
8桁の数字が並んでたんだもん……。
20年くらい働かなくても過ごせそうな額だった。たぶんサイが手持ちの金貨や石を売った代金の半分くらいだろうか。なぜ「半分くらい」と思うのかというと、サイは振り込みがあったのと同時期に金塊を買ってコテージに保管したからだ。
金の延べ棒なんて生まれて初めて見た。
それがベッド下のケース一杯置いてある。サイは銀行システムを一切信用していないのだ。
サイはそうやってわたしの生活を支えようとしてくれてる。
わたしにそれほどしてくれる人なんて他にいない。
不満を覚えるのはわがままだ。だけど……
どこか、サイがいつ居なくなっても安心できるように、という配慮のようにも思える……
「あのさ、サイ。わ・わたしたちって、来年も一緒で、いられるのかな」
サイは黙ってわたしを見た。
「確信できないんだな?」
「ウン……」
「ゴメン、俺ももうすこし単純な問題だと思ってたんだ」
「どういうこと?」
「もっと早く帰れると思ってたけど、天使どもから厄介な仕事を押しつけられているようなんだ。それに巌津和尚の件……」
「わたしたちの浜辺に彼が現れたこと?」
サイはうなずいた。
「やつが本当に俺の世界に行ったのだとすると、ちょっと考えざるをえない」
「なにを……」
「帰る方法だ」
「まさか、あの人みたいに命を落とさないと帰れない、と思ってるの?」
「そうかも知れない」
「サイ……!」わたしは立ち上がってサイの背中に抱きついた。「ねえ、もうこのまま、大天使協会のことなんか放って一緒に暮らし続けることはできないの?」
「それはできないよ。俺はここに居続けたくない」
「なんで?」
「だってここは〈ムゼル〉だから。それはこの数ヶ月で確信した。バァルの記録保管府に記述があるんだよ。地球年で28万年前、地球人の祖先は世界から追放されてこの星に島流しされたんだ。以来ここは世界の調和を乱す者の追放先となった。そんな場所にナツミを置き去りにできない」
「そんな場所って……ここってそんなにひどい場所?わたしはそうは思わないけど……」
「ここは聖書で言うエデンの東だ」サイはすこし言葉を切って付け加えた。
「あるいは「地獄」と言ったほうが分かりやすいかな」
「そんな……」わたしはサイの背中から退いてふらっと立ち上がった。「ここが地獄ですって……?」
サイは畳に手をついてわたしを振り返った。
「間違いない」