173 トリニティー
岩槻教授は途方に暮れた顔つきでこちらにやって来る。薄汚れ、上着はところどころ裂けズボンの膝には血がにじんでいた。
50メートルくらい接近すると彼はようやくわたしたちが目に入ったようで、いちど立ち止まった。首をかしげて、なにか思案しているようだ。
正直、いやな感じだ。
わたしがメイヴさんに目配せすると、ゆっくり深くうなずいた。
「彼ももう、人間やめてるわ」
そう言われたからだろうか、近づいてくる岩槻教授の顔つきは異様に据わってて、一切の感情を無くしているように見えた。
だから、岩槻教授が汚物でも見るような軽蔑の表情を浮かべたときは少しホッとしたくらいだ――そのほうがいつものあの人らしい。
「これはこれは、これは」教授が両腕を広げた。「女どもがまだこんなところをうろついているとは、まったく君たちは度し難く緊張感に欠ける」
侮蔑が入り交じった嫌らしい薄笑い。やっぱいつもの岩槻教授だ。こんな時でも演説をぶっちゃける。
「あの人、テレビでとんちんかんなこと言ってるヒトよね?」
そうタカコが言った途端、岩槻教授が獣じみたうなり声を上げて腕を振り上げた。スライムみたいに何十メートルも伸びた腕がタカコの眼前、見えない壁にぶち当たってベチャッと音を立ててひしゃげた。
「ひゃっ!」タカコがビクッと肩を跳ね上げて尻餅をついた。
「バカ女!そのバカな口を閉じておれ!」
わたしは失望した。やっぱりいつもの若槻教授じゃなかった。
「メイヴさん……あの人どうなっちゃってるんです?さっきの尾藤も、いっけん本人ぽかったけれど」
「この世界を知るのにもっとも安易な方法は、記憶も人格もすべて乗っ取って操り人形にしてしまうことなのよ……だからあの教授のままのようでありながら、同時にヘルドールでもあるの」
「えっ!?あの人もヘルドールに操られてるの!?」
「その通り」岩槻教授がメイヴさんを指さして言った。
「この世界じゃ〈まるちたすく〉って言うのかね」岩槻教授はくっくっくっと笑った。「おまえたち下等動物には出来ないことだろう?」
「同時にふたり……?」
「要件を手っ取り早く果たすのにはこの方法がいちばんなのだよ。宿り先は長く保たんがね!しかしわたしはたいへん満足している。このちからがあればこの国のバカどもはすべてわたしに平伏すであろう!論壇からわたしを追い落とした無礼者、なにも分かっていない愚民どもも、年明けにまとめて粛正してくれるわい!」
別人でありながらお喋り過多なところは変わってないのが、なんともいたたまれない。
メイヴさんが呟いた。
「問題は、もうちょっと別の所にあるかもしれない……」
「え?どういうこと?」
「ヘルドールそのものよ」ふだんは差し迫ったときでさえ落ち着き払ってるメイヴさんが、とても深刻な口調だった。
「世界王の右腕……いままで直接刃を交えたことがなかったから、奴の正体には気が回らなかったのだけれど……」
「よっぽど強い相手なんですか?」
「ええ」メイヴさんは言った。「おそらく――」
「さっお喋りの時間はお終いだ!」
岩槻教授はパンパン、と手を叩いた。
「カワカミと言ったな、そこのバカ娘。散々コケにしてくれたものだが、君の命運も尽きた。大人しくその「骨」を渡したまえ!」
少なくとも、問答無用で取り上げることは出来ないらしい。
なら、抵抗すべきじゃないこと?
――なんて、何考えてるわたし!そんなん無理に決まってるじゃないか!
でもでも、サイが一生懸命戦ってる。
岩槻教授の背後で、地面がゆれるほどの轟音とともに巨大サイが尾藤に戦いを挑んでる。空では魔法の絨毯のみんなが〈後帝〉の片割れ相手に空中戦を繰り広げてる。
そして、わたしはさっきからずっと腹を立てていた。いくらパワーアップしても事態が好転する兆しもない。このまま負けるかもしれないと思うと腹が立つし、こんなことに引きずり込まれたのも腹立たしい。
わたしはゴクリと喉を鳴らして、〈天つ御骨〉を握りしめる手の平に力を込めた。
「タカコ」わたしは岩槻教授を見据えたまま言った。「あなたは逃げて。デパ地下に」
「ヤだよ!どこ行ったって安全なとこなんかないって!」
メイヴさんも言った。
「タカコさん、ナツミの言うことを聞いて、あなたは安全だから、信じて」
「わ、分かりましたよ……ナツミ、そんじゃ悪いけれど……」
「うん、行って」
タカコは何歩か後ずさると、振り返って地下街の階段に駆けた。
「無駄だよ、どうせみんな死ぬのだ。この国の若者はいささか弛緩しておるからね、一度じっくり総括してもらわにゃ」
そう言う岩槻教授の周囲が揺らいでいた。
わたしたちが見ているまに、教授の両側に人影が現れた……
ひとりは一度見たことがあるけど、どちらかと言えば二月前までニュースに盛んに取り上げられた人物だった。
中国主席。
あの地下ダンジョンで〈魔導律〉を一度に吸い込みすぎてドラゴンに変身した人だ。
そしてもうひとりは、アダム・ワイアだった。
「これぞ三位一体だ!」
三人が同時に言って、愉快そうに笑った。
それから三人の姿がぼやけて、ひとつに融合した。
そして……
そして、わたしになった!
「なっなんで……?」
わたしそっくりだけど相変わらず侮蔑の薄笑いを浮かべてる。
「戦いずらかろう?」
「ふざけるなあ――!」
わたしはまじギレして〈天つ御骨〉を振り上げた。
「ナツミ!相手のペースに乗せられないで!」
「くう~」
わたしは剣を振り上げたまま、もうひとりのわたしを睨み続けた。たしかにとても戦い辛い……そもそも戦った経験無いし。
偽わたしがどこからともなく細剣を繰り出して構えた。
「チョロいものだねえ。それじゃ頂くとするか――」
言いかけた偽わたしが、とつぜん横に現れた巨大な握りこぶしに殴られ道端のラーメン店まで弾き飛ばされた。
しゃらん。
錫杖の音。
偽わたしが立っていた10メートル向こうにお坊さんがいた。
「龍の巫女さまの手は煩わせませぬ」
ひさびさに真空院巌津和尚のお出ましだった。




