164 エンジェルフォール
「アー……お姉ちゃん?」
「なに?」
「いま、崖からふたり飛び降りたよ、ね?」
わたしは妹の肩をポンポンと叩いた。
「そのうち慣れる」
わたしと妹は雪の地面を慎重に歩いて、崖縁から下を見おろした。
200メートルほど崖下の冥奉神社は人でごった返していた。
報道のせいで新観光名所みたいになってしまって、たこ焼きや綿アメの屋台に送迎バスまで現れて、文字通り毎日お祭り騒ぎの様相を呈してた。
普段は人でごった返してても山頂のここまで喧噪は伝わってこないけれど、いまはにわかに騒がしくなってる。原因のひとつはサイとですぴーがとつぜん舞い降りたためだ。
だけど、それだけではなかった。
神社の階段を昇りきった先にそそり立つ絶壁の岩肌が、妙な具合だった。まばらに松が茂っているだけのむきだしの岩が焼失して、波打つ真っ黒なシミが生じてる。
「まさか……ポータルが開いてる?」
「え?それって異世界の扉のことだったよね?」
「良く予習してるね妹」
すこし離れた背後でメイヴさんが言った。
「違うと思うわ」
わたしたちが振り返ると、メイヴさんがお盆を抱えて立っていた。
「お茶を淹れたから、こっちいらっしゃい」
「え……でもサイたち放っといていいんですか?」
「わたしやナツミの〈天つ御骨〉が必要なら言ってくると思うわ」
「そっすかね……」
そういうわけで、わたしたちはたき火のまわりに戻ってお茶にした。姪っ子は猛獣のハリー軍曹とじゃれ続けていた。なかなか優秀なシッターぶりだった。
お茶が美味しい。
サイが外国にテレポーテーションして買ってくる焼き菓子やチョコレートも出された。だいたいなんのために外国に出掛けてるのかわたしは知らない……まえは(魔導律)をチャージするために地下ファイトクラブに通ってるって言ってたけれど。
ママがガレットをちぎって娘に与えている。
「ほらユリナ、美味しいから食べな」
「ヤム」
ユリナちゃんは焼き菓子をモシャモシャ食べ始めた。ぶきっちょに焼き菓子をかじりながらバラバラにしちゃってるけど、満足げだ。
背後から群衆のワーワーいう様子がかすかに伝わってくる。
いったい何が起こってるんだろうか……。
ヘリコプターが上空に現れた。
「あれ、報道ヘリかな?メイヴさん煩わしくないですか?」
「わたしの家には気付いてないわ。空からは見えないの」
「そうなんですか……山に登ってくる人はいます?」
メイヴさんは首を振った。
「お山は結界を張ってるから、わたしが招かなければ誰も入り込めないわ。迷子になっていつのまにか別の山を彷徨いてることになる」
「セキュリティーは万全てことですね」
いままで晴天だった空が急に曇り始めた。遠くでゴロゴロ雷が鳴り始めて、ユリナが心配そうに空をキョロキョロ眺めていた。
「メイヴさん、これって……」
「そうねえ」メイヴさんも急激に怪しくなってゆく雲行きを見上げて、やや深刻な顔つきだ。
「さっき、近い将来ポータルが開通するって話だった岩肌でなにか起こってたんですけれど……」
「なにか起こったとしたら、向こう側からまた誰かやってきたのかもしれないわ」
わたしはハッとした。
「また、異世界から人がやってきたんですか?」
「かもねってこと」
「けど、それだけならあんな大騒ぎになります?」
メイヴさんは呆れたようにため息を漏らした。
「それがねえ、下の神社はけっこう面倒なことになってるのよ。例の日本学術ナントカの人たちと在野の政治家さんが徒党を組んで施設の取り壊しを主張して連日デモが起こってるし、〈転生派〉と称する暇そうな人たちがカウンターデモで対抗して、それで警察も来てしまっているの。下にいる半分くらいはそんな連中よ。サイとデスペランが現れたら、やや騒がしくなるのは避けられないでしょう」
「やや……」罵声と歓声が入り交じった喧噪を背後に聞きながらわたしは呟いた。
垂れ込めた暗雲の狭間で雷光が光ってゴゴーンと重い音が轟くと、ユリナちゃんが椅子から飛び出してママにちょこまか駆け寄り、懐に飛び込んだ。
「マァ!」
「おへそ取られちゃうからね~コワいコワい」
娘をなだめつつわたしに言った。
「おねえちゃん、雨降りそうだよ」
「かもね~」
「よかったら娘さんを連れて家の中に入って」メイヴさんが言った。
「ありがとう、それじゃあさっそく……」
妹はユリナを抱っこしたままメイヴさんの家に向かった。ハリーがそのあとに続いた。
「どうしよう……ちょっくらコテージに〈天つ御骨〉取りに行ってこようかな」
「ナツミ、焦らないで」
「けど……あ」
下のほうがひときわざわついた。
「なにかあったのかな」
メイヴさんは崖下から背後の岩肌に顔を向けた。わたしがその視線を追うと、岩肌のどこでもドア――空間跳躍ドアが開いて、サイが現れた。
「サイ!」
「ちょっと回り道した。誰かが追跡してるようだったんで、川越のアパートにいったんテレポートしたのだ」
サイに続いてですぴーも現れた。右肩に大剣、左肩に人間をひとり担いでいる。
わたしたちはたき火の側に戻った。
ですぴーは担いでいた人間をわりと雑に地面に横たえた。金色のローブを身につけた若い男性のようだ。茶色い巻き毛の外人……
「その人なにもの?」
「天使だ」
「えっ?」
「〈終焉の大天使協会〉の管理官だよ」
「そっそれって、サイを地球に送ってわたしに巻物をよこした……」
サイはうなずいた。「その当事者だ」
メイヴさんが天使の傍らにしゃがみ込んで身体を探った。
「怪我してるけど、治りつつある」
「そうか。どうしてこいつらまで転移してきたんだろう?」
「すぐに当人が教えてくれるだろうぜ」ですぴーが天使の横腹をつま先で軽く小突いた。
天使が眉をしかめて小さくうなった。それからゆっくり眼を開けた。横たわったままわたしたちを見上げた。
「やあ……ご無沙汰ですね、サイファー・デス・ギャランハルトとパーティーのみなさん」
「アズラエル伍長、立てるか?」
「ちょっとお待ちを、血肉を得たのはずいぶん久しぶりなので……」
「なんだ、精霊をやめさせられたのか?」
「どうもそうらしいですね。怪我して痛いし……」
「ゆっくり調子戻せや、あとでじっくり話すから、慌てんな」
ですぴーもサイも怪我人に対してずいぶん冷淡な態度だ。だけどわたしはずっとまえ、サイが〈大天使協会〉を「奴ら」呼ばわりしてたのを思い出した。そうとう嫌ってたのだ。
まもなく天使のアズラエル伍長は半身を起こした。サイが手を差しだして立ち上がらせると、アズラエル伍長はうめきながらなんとか背筋を伸ばした。
「それじゃ、話をしようか」サイが言った。




