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恐怖のはじまり

 ふわりと、頰によそぐ、薔薇の匂いの風で目が覚めた。

 最初に目に入ったのは天蓋だ。ひらひらとした白い布が垂れ下がり、リーゼロッテの視界を外界から遮っている。

ここはどこだろう、と首をかしげようとしてーー頭が動かないことに気がついた。

 手に力を込める。やはり動かず、足も動かせない。


 ーーなに、ここ。


 そう、口を開けど、出てくるのはヒューヒューという息ばかり。声帯の震える感覚がなくて、リーゼロッテは混乱した。

 その時、白い薄布がさあっと引かれる。視線だけをやると、白髪の混じった赤毛の、緑の目をした、皺だらけの老婆が、満面の笑みでこちらを見ているのが見えた。


「おはようございます、リーゼロッテ様。わたくしの姫君」


 老婆は目を覚ましたリーゼロッテを抱き起こすと、まるで赤ん坊にするようによしよしと頭を撫でた。


「リーゼロッテ様、なんと大きくなられたのでしょう。ばあやは幸せでございますよ」


 あなたは誰、ここはどこ。聞きたいのに声が出ない。体も動かせず、リーゼロッテはせわしなく瞬きした。

 未だ微笑む老婆は、そんなリーゼロッテの様子をどう思ったのだろう。

しわくちゃの笑みを深めて、リーゼロッテの頬を撫でる。夢を見るような瞳が不気味だった。


「アリシア様ーーあなた様のお母様が駆け落ちされて、ばあやは悲しかったのですよ。やっと見つけたと思ったら、アリシア様は亡くなられたあと……。残されたリーゼロッテ様も、侯爵家にとらわれて……。やっとの事でお救い申し上げましたが、なんと表情まで失われて……。これからはばあやがお守りしますからね」


 アリシア、というのは誰だろう。

 ゲームの中で、最後までヒロインの家族構成は明かされないままだったから、リーゼロッテはその名に聞き覚えがなかった。

 それに、孤児院に入る前の、リーゼロッテの過去には、ひどく現実味がない。

 物心つく前には孤児院にいたし、どちらかといえば、リーゼロッテが自我を持って生きてきた長さなら、侯爵家にきてからの方が長い。いいや、時間ではない。いうならば、重みが違った。

 リーゼロッテは、乙女ゲームに定められたクロヴィスの死を回避することに、全力だったから。

 感情を揺らした回数は、この3年間の方が圧倒的に多かった。


 アリシアというのがリーゼロッテの母親だとしても、リーゼロッテが母と呼ぶのは侯爵夫人である母だ。

 だから、今そんなことを持ち出されても困る。それに、ここはどこで、どうしてリーゼロッテの体が動かないのか、それの方が気になった。


「ああ、リーゼロッテ様。ここはばあやが用意した隠れ家ですわ。すぐに王城に向かえず申し訳ありません。でも、リーゼロッテ様が女王様として即位するには、まだ邪魔が多いのです」


 王城、女王、なんのことだ。リーゼロッテが目をパチパチと瞬く。老婆は、そんなリーゼロッテの様子を意に介した様子もなく、話し続ける。


「だいたい、今の王は愛犬にかまけるばかりで愚鈍なのです。才媛と呼ばれたアリシア姫さまの方が王位にふさわしいのに……。ですが、もう安心ですね。ばあやが姫さまをお助けしましたものね。アリシアさま、あなたの血筋の姫君が、王位にたつのですよ……」


 老婆は、そう言ってギラついた瞳をリーゼロッテに向けた。

 アリシアを王位につけたいのか、リーゼロッテを王位につけたいのかわからない言動に、赤子のようにリーゼロッテを撫で摩る手が怖い。

 だいたい、リーゼロッテがアリシアの子だとして、どうして王位に就く話になるのだ。

 リーゼロッテはただの孤児だ。父が侯爵夫人の兄というだけの。


 はやく逃げないといけない。だって、ヴィーやクロエが待っている。

 それなのに、この体は動かず拒否もできない。


「姫さま。姫さまは、れっきとした王族なのですよ。そんな顔をなさってはいけません。にっこり微笑まねば」


 そう言って、老婆はリーゼロッテの頬を無理やりぐいと引き上げる。

 ーー痛い。がちがちに固まった頰は、それだけで引き連れて痛みをもたらした。


「まったく、あの侯爵子息のせいでわたくしの姫さまから表情が失われるなんて……」


 ーー失ってなどいない。リーゼロッテは、自分でも表情が豊かな方だと理解している。

 なにをいうのだろう。この老婆は。


「姫さま、姫君は笑わねばならないのですよ。そんな仏頂面、姫君にふさわしくありません」


 そう言って、老婆はすいと手鏡をリーゼロッテに向けた。


 ーー嫌だ!


 リーゼロッテは叫んだ。しかし、声は出ない。

 そして、リーゼロッテはどうして嫌だと思ったのか、自分で不思議に思って、違う、不思議なことなんてなにもない。リーゼロッテはおかしなことなんてないから、鏡を見ても大丈夫。

 違う!

 リーゼロッテは目をきつく閉じた。

 窓ガラスが眩しいから、だから見てはいけない、いいや、これは窓ガラスではないから、違う、そうじゃなくて。


「姫さま、目を開けてくださいな」


 老婆がリーゼロッテの瞼を指でこじ開ける。

 無遠慮な指が目をこすり、リーゼロッテの目に痛みが走る。

 そうして、リーゼロッテは見てしまった。


 凍りついたような、自分の顔。

 驚きも恐怖もなにもない、能面のような顔を。


「ーーーー!!」


 声なき悲鳴がほとばしる。老婆はそんなリーゼロッテを見て、愛おしげに顔を綻ばせた。


「壊れてしまった姫さまでも、きちんとばあやが治してあげますからね」


 老婆が背後に向かって手招きをする。

 ついで、絨毯を踏む足音が聞こえて。


「さ、恐ろしいことは一瞬ですから、すぐお顔も戻りましょう」


 少女の手が白い布を取り去る。

 その手の主ーー赤毛の双子がにっこり笑って、うつろな目をした青年の手を引いて近づいてくる。

 老婆はリーゼロッテをベッドに寝かせて、労わるように胸元をぽんぽんと叩いた。


 双子に押されて、淀んだ目、口からよだれを垂らして、見覚えのある青年が、リーゼロッテの上に乗りあげる。

 ハァ……腐ったような息が、リーゼロッテの頰にかかって、リーゼロッテは今度こそ、心の底から恐怖した。


 ーーケヴィン・バーデ。

 リーゼロッテに絡んできたあの青年が、変わり果てた姿でそこにいた。

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