建前なんだ、ごめんね
本当は、その手を掴むべきだったのだ。
リーゼロッテが自分の足をつねる手、そのもう一方が、助けを求めるようにさまよっていた。クロヴィスはそんなことにも気づけなくてーー、そうして、リーゼロッテは壊れたのだ。
愛しているから、守りたかった。
好きだから傷つけたくなくて、恋をしているから笑って欲しかった。
家人が駆けつけてきた、その混乱の中、クロヴィスはリーゼロッテにひとつの言葉をかけた。
ーーリズ、忘れて、お願い。
思えば、それが、クロヴィスが最初にかけた暗示だった。
翌朝目を覚ましたリーゼロッテは、夜にクロヴィスが来たことを忘れていた。
そして、クロヴィスが話したことを、知識としてのみ知っていた。
だから、クロヴィスは両親に頼んだのだ。
リーゼロッテが思い出せば、リーゼロッテはまた苦しむ。
知識に実感が伴って、経験になればそれはリーゼロッテを傷つける。
だから、リーゼロッテに昨日のことを言わないでほしいと。
両親は、悔やむような顔をして、けれどクロヴィスの願いを聞いてくれた。
今もそれに感謝している。
リーゼロッテにあの夜を忘れさせたことが、クロヴィスの勝手だってかまわない。
きっと、クロヴィスがこれからしようとしていることも、リーゼロッテは望まないだろう。
クロヴィスが傷つくことを何より恐れる彼女は、クロヴィスにずっと優しい世界にいてほしいと望むはずだ。
それでもーーそれでも、クロヴィスは、リーゼロッテの笑顔のために、リーゼロッテが笑えないことをする。
ーーリズの敵を、無くす。
リーゼロッテがクロヴィスの死を望まないなら、自分が死なない世界を作る。 けれど、それだけではダメなのだ。
リーゼロッテがこれから危険にさらされるたびに、クロヴィスはなんどでもリーゼロッテを守って傷つくだろう。
リーゼロッテの血筋が、リーゼロッテの平穏を許さないから。リーゼロッテが危険にさらされるたびに、なんどでも、なんどでも、クロヴィスはリーゼロッテを守り続ける。
ーー王の、亡き妹の忘れ形見。
父が明かしたリーゼロッテの素性。
クロヴィスの叔父を父に持ち、王妹を母に持つ、リーゼロッテ。
互いの婚約者を裏切って、手に手を取って駆け落ちした2人の、唯一残された宝物。
アルブレヒトだって知らない、ティーゼ侯爵家の秘密。
守るーー守る。ああ、それを知っているものがいるなら、すべて叩き潰して消してしまおう。
リーゼロッテは、クロヴィスの大切なひとだから。権力争いで損なわせたりなどしない。そんなことになるなら、その情報を、根元から、なかったことにする。
だから、だから。
「リズが望まなくても、僕はリズを守る」
すべてが終わった後、リーゼロッテが笑える世界があればいい。
これは、クロヴィスの勝手だ。わがままで、エゴだ。それでもいい。
「ヴィー?どうしたの」
リーゼロッテが顔を上げる。
とてもかわいくて、優しい、クロヴィスの天使は、クロヴィスの愛の一片を知ったのだろう。
でも、そんなものじゃ全然たりない。
守りたい、その建前に隠した独占欲には目隠しを。
ごめんね、と罪悪感を前に押し出して、その実、クロヴィスが本当に望んでいるものは違う。
ああ、なんという悪人だろう!
クロヴィスは、返事の代わりに微笑んで、手に取ったアイシングクッキーを噛み砕いた。
舌に残る砂糖の甘さは、嫌に苦々しく感じられた。