壁ドンはご飯の前に
リーゼロッテを両腕の壁の中に閉じ込めたクロヴィスは、けれど名を呼んだ以外では何も言わず、ただリーゼロッテを見つめていた。
だからリーゼロッテも、何も言えなかった。
淡い金髪はさらさらと肩口へ流れて、1つに縛られ胸元に落ちている。
見上げると、唇をひき結んだクロヴィスが煌々と輝く瞳でリーゼロッテを射抜いて。
きまずくなって、リーゼロッテが目をそらすと、 クロヴィスの手がリーゼロッテのおとがいをすくい上げた。
「……リズ」
「ッ……ヴィー、どうしたの」
近すぎて、心臓が爆発しそうだ。ドキドキして、けれど、クロヴィスの表情が、昔の無邪気さなんて残していてくれなかったから、リーゼロッテは同時に胸が痛かった。
心臓とは別の、もっと奥のなにかが痛い。
突き刺して、えぐられるような痛みがじくじくと染み付いていく。
「リズ、僕以外に触らせたでしょう」
「な、なに、ヴィー。なんのこと」
リーゼロッテが答えたのが意外だったのか、 クロヴィスはぴくりと片眉を上げた。
リーゼロッテの顔を自分の方へ向けたまま、吐息を交換するような距離で囁く。
「リズにとってはそうやって忘れられるようなものでも、僕にとってはそうじゃない。……リズ。王太子に体を抱かれて、平気だった?」
「ど、うして?ヴィー」
どうして、クロヴィスがそのことを知っているのだろう。見ていたのだろうか。けれど、あれは不可抗力で。
リーゼロッテの体は、知らず震えた。クロヴィスみたいでクロヴィスじゃない人。クロヴィスじゃないようで、リズのヴィー。今リーゼロッテをリズと呼んでいるのは、いったい誰なのだろうか。
動揺するリーゼロッテの足の間に、クロヴィスの長い足が差し込まれる。より一層身動きの取れなくなったリーゼロッテに、クロヴィスは笑った。
2人の間に、仄暗い影が差す。
「ねえ、リズ。リズは、こんなにか弱いんだよ。僕がこのままリズをさらって、閉じ込めることも簡単にできるんだ」
そう言って、クロヴィスはもう片方の手でリーゼロッテの腰に手を回した。
密着して、衣服が遮らなければゼロになる距離で、クロヴィスはリーゼロッテの額に口付けた。
「ヴィ、ヴィー?」
「そう、僕はリズのヴィーだよ」
にこりと微笑んで、クロヴィスは、リーゼロッテの顎をくいと持ち上げる。
「リズが悪いんじゃない。僕が勝手に嫌だと思っただけ。でも、やっぱりあいつとリズが一部でも触れたのが嫌だから、今から僕は君にひどいことをするね」
そう言うや、クロヴィスはリーゼロッテの唇を親指でそうっと撫でた。
濃い緑が近づく。けれど、まるで引き寄せられるように、一対のそれから目が反らせない。
「ヴィー、」
クロヴィスを呼ぶ。しかし、その声はすぐさまクロヴィスの口の中に消えてしまった。
唇に、噛み付くように。クロヴィスがリーゼロッテに口付けている。
それは、乱暴で、嵐みたいでーーでも、とても優しい感覚で。
幼いあの日、2人で交わした触れるだけのキスみたいに心地が良くて。
だから、当然のようにリーゼロッテはクロヴィスの背中に両手を回した。
ぴく、とクロヴィスの体がこわばる。
それでも、リーゼロッテはその手を離さなかった。
やがて、互いに息が続かず唇が離れ、荒い息が2人の間で交わされると、ややあってクロヴィスが口を開いた。
「リズ……ごめん」
何を謝るのだろう。どうして謝るのだろう。リーゼロッテはきゅっと奥歯を噛んだ。
「ヴィー、私のこと、好きじゃないの」
もう、私の事好きじゃないんでしょう。
会えない日々でひとり、繰り返した言葉がぽろりと落ちる。それなのに、どうしてクロヴィスはこんなに優しいのだろうか。
その一瞬で目を見開いたクロヴィスは言った。
「……好きじゃないわけ、ない」
クロヴィスは、はっと気づいたように、遠ざけるかたちでリーゼロッテを解放して後ろへ下がった。
「……ごめん。リズ、忘れて」
「どうして!」
何か思い出したような顔で、クロヴィスは顔を歪めていた。
泣き出しそうにゆらゆら揺れた目が、幼い頃と同じだった。
「なにを忘れるのよ、ヴィーが私にキスしたこと?好きじゃないわけないっていったこと?どうして……!」
「全部だ、リズ。……忘れるんだ」
クロヴィスが、リーゼロッテの耳をそっと触る。ぞわぞわした感覚が背に走り、リーゼロッテは困惑した。
けれど、気づけば至近距離に歩み寄っていたクロヴィスが、その耳に吹き込んだ言葉。それが、強制的にリーゼロッテを落ち着かせた。
「リズ、忘れるんだ。君は、何も見てない。誰とも会わなかった」
「なに、それ」
呟く。ーー同時に。
それが、反響するようにリーゼロッテの頭を占めた。忘れる、なにも見ていない、誰とも会っていない。脳がぐらぐら揺れる。
なんだこれ、なんだこれーー嫌だ。
その場にへたり込んだリーゼロッテを見下ろして、クロヴィスは泣きそうな顔でもう一度、ごめんね、と呟いた。
揺れる頭に、吐き気を覚える。掴んでいたものを離してしまうような感覚に、リーゼロッテは本能的な恐怖を感じた。
ーー私は、今、なにを、してた、の。
忘れてはいけないことだ。離してはならないことだ。
それなのに、どうして今にも朧げになって消えてしまいそうなのだろう。
嫌だ、嫌だーー忘れたくない。
足掻くように、背を向けたクロヴィスを見あげんとまぶたをぐっと持ち上げたリーゼロッテは、その瞬間、声を聞いた。
その、小さい、小さい声が、リーゼロッテを引き戻す。
ーーヴィー!
はっとしたリーゼロッテは、手離しそうだった記憶を引きとどめんと、胸のリボンを握りしめた。手が白くなるほど、強く、強く。
クロヴィスの後ろ姿が遠ざかる。
それを、見ていないふりをして見送った。
忘れられないことを、忘れていない。きちんと、今のことを覚えている。
「ばかね、ヴィー……」
ーーリズ、君を愛している。
そんな告白を聞いて、覚醒しない女は、もはやリーゼロッテじゃない。クロヴィスはリーゼロッテが全て忘れたと確信してから言うべきだった。
リーゼロッテはクロヴィスのつめの甘さに救われたのだ。一方で、クロヴィスはつめの甘さで失敗した。
クロヴィスはなにかを隠している。それを確信したから、リーゼロッテは何も知らない顔をして立ち上がった。私は全て忘れました、というように。
「守られるだけのお姫様なんて、時代遅れもいいところよ」
ろうそくの灯のような赤い瞳が、その色を濃くする。胸のリボンを両手で包み、リーゼロッテは好戦的な笑みを浮かべた。
そういえば、人生初の壁ドンだったな、なんて思って。