10.わたしのひみつ
次の日の朝。
前日の出来事にもかかわらず何事も無かったかのように、ルチアは食卓に現れた。
「おはよぅ……」
「お早うございます」
ルチアは寝ぼけ眼で席に着く。
長い髪には寝癖がついて、あちこち跳ねている。
彼女はいつものように大欠伸をしていた。
メルウェートは穏やかな笑みを浮かべながらルチアの前に湯呑を置き、優しく語り掛ける。
「春も近いこの季節は誰でも眠くなるものです。よくお休みになっていましたね」
ルチアはふぅふぅと湯冷まししながら白湯をすすった。
彼の言葉はあまり耳に届いていないのか半分寝ているようにぼんやりとしている。
「朝ご飯にしますか?」
「ん……いらない」
ルチアはメルウェートの言葉にようやく返事をする。彼女は焦点が定まらないままゆっくりと目をしばたたかせる。
睡魔と戦って食欲どころでは無さそうな様子だった。
メルウェートはそんな彼女の様子を見て木櫛を取り出す。
「では、身繕いを先にやってしまいましょうか。身なりをきちんとすればきっと眠気も覚めるでしょう」
メルウェートは櫛を構えてルチアの背後に立った。
「……メルウェートに髪をとかしてもらうの、嬉しい」
ルチアは微笑んだまま彼に身をゆだねる。
メルウェートが櫛を漉く度に彼女の絹の糸のような髪が滑らかに通って行く。
しばらく通すと、ほつれも跳ねた箇所も無くなった。
「……もうできましたよ。貴女の髪を整えるのに時間は要りませんね。髪の質が良い。つくづく感心します」
「そう? ありがと……メルウェートもやってあげようか? ここに来てから大分伸びたね、髪」
半年間という時間は二人に変化を及ぼすには十分だった。それこそ見た目だけでなくその心さえも。
「ありがとうございます。しかし、また今度でお願いします。今日は吹雪が止んでいるので貴女の代わりに煙突周りの雪かきをします。だから今せっかく整えてもらっても乱れそうです」
「そっかぁ……」
「ええ、いつまでも家主の貴女に働いてもらっていては錬金術師の名折れですからね」
彼らは生活に必要な仕事を分担していた。もはや傍から見れば家族同然。
長い冬を越した結果、彼らの絆は随分と深まっていた。
メルウェートは赤竜の化身であるルチアへの警戒心はもはや無く、むしろ深い信頼を寄せていた。
ルチアは変わり者のメルウェートと言う人間に、愛着という形を変えて深い愛情を抱いていた。
「でも……錬金術師は雪かきがお仕事じゃない気がするよぅ」
「錬金術は関係ありません。あなたに力仕事を任せては大人である私の立場が有りません」
ルチアはメルウェートの言葉を聞いて嬉しそうに破顔した。
彼女は彼の優しさに触れる度に胸の奥が暖かくなるのを感じていた。それは他の人間に抱く感情よりもずっと甘く、心地良いものだった。
ルチアはメルウェートの言葉を聞いては灯る暖かい気持ちに、彼が特別な存在であると改めて認識させられる。しかし自分達の関係をどの様に称すればいいのかについては言葉を持たなかった。
第三者の立場から見れば奴隷と、その所有者。
強いていうなら契約に結ばれた主従関係。
あるいは人が竜に使えるという一方的な労働力の搾取。
自分達が出会った経緯を説明すれば、誰もがそのように思う。
しかし、それらは自分達の関係を説明できない。
これまでルチアはメルウェートを生活の上で縛り付けているつもりは無かった。
会ったばかりの頃は『ドレイ』と言うものがどんな関係性を示すものか知らなかったから、ドレイショウニンの言葉に乗ってメルウェートを客人として迎え入れた。
対等の関係として。
つまり――友達として。
だが、今は違う。
彼女には上手く説明できる言葉は思い当たらない。
ただ、友達という関係を越えた何かを感じていた。
他の竜にも感じた事の無い暖かい気持ち。
いつまでも彼に触れて居たいという熱い気持ち。
強いていうなら『家族』かもしれないと思ったが血縁関係も無く、そもそも種族さえ違う。
だから、ルチアには彼に尋ねたいことが有った。
きちんと、彼の言葉で確認しておきたいことが有った。
確かめなければならないと思っていた。
――どのような関係も、いつかは終わるから。
ルチアは食卓の湯呑を見つめたまま、口を開く。
出し抜けに、それでも何気ない日常に紛れるようにして自然を装って。
「そういえば――メルウェートは奴隷でなくなったらこの家を離れることになると思うんだけど、そうしたら何をして過ごすの?」
最早、彼女の言葉は決意も覚悟も含んでいなかった。
彼がどんな返答をしようと受け入れる覚悟だ。
それは全てを納得して紡いだ言葉だった。
何かを――あきらめたように。
メルウェートはいつも通りの口調で返事をする。
「あなたと交換した知見や知識で、また研究に明け暮れますよ」
「……」
しばらくの沈黙。
ルチアは彼の表情を見るが、普段同様の柔和な笑みを浮かべている。
――どうせ叶わないのなら。
ルチアは言葉を続けた。
「……その時はわたしも手伝っていいかな。あなたのそばに居てもいいかな?」
「それはもう喜んで……ああ、でも弟子が居ますからまずは初歩の作業をよく聞いて勉強して下さい。何事も基礎は大事ですからね」
何ら平素と変わる事の無いメルウェート。
彼女の想いを全く勘ぐる所は無かった。
けれども、ルチアはそんな取り繕わないメルウェートの態度に安心した。
愚直なまでの実直さで返された彼の言葉に、言いかけた言葉を飲み込むと笑みが思わず零れた。
「ん……じゃあ私は二番弟子でいいからよろしくね」
「ええ。賑やかになりますね。これからもよろしくお願いします」
――彼はこの日常がずっと続くと考えている。
――彼は竜である自分の存在が傍に有るものとして未来を見ている。
その事に安心して、ルチアはふっと気が緩む。
目を細め、僅かばかりに笑った。
突如、ルチアは食卓に突っ伏す。湯呑が転がり食卓の上を濡らした。
メルウェートは驚いたが、彼女が安らかな寝息を立てている事に肩をすくめてとりあえず彼女を寝台に運ぶことにした。
ルチアが、春が近い陽気によほど眠気に勝てなかったらしい。と思ったのだ。
このように眠気に抗えないと言う子供っぽい所が見え隠れするところも、彼女らしい可愛らしさの一つだと愛らしくすら思った。
いつも通りに、メルウェートはルチアを抱えて寝台に運んだ。
◇
「大丈夫ですか」
メルウェートは寝台に横たわった彼女を前にして声をかける。
しかし、目を覚ましたばかりの彼女は謝るだけ。
「ん……わたし、ねちゃったんだ……ごめんね。おぎょうぎ悪かったよね」
食卓で突っ伏したルチアは寝台に移した後も、正午を過ぎるまで眠っていた。
メルウェートは彼女の目が覚めるまで寝台のそばで彼女を見守っていた。
食事すら手を付けずに眠るとはよほど眠たかったのだと思っていた。
だが、ようやく目の開いたルチアは午前中に有ったような元気すらない。
しかも目覚めるなり、彼女はメルウェートと視線を合わせる事を避けている。
メルウェートは彼女の表情からは、後ろめたいことが有るのか、それとも何か思うところがあるのかまでは読み取れなかった。
だが、初めて見る元気の無いルチアの様子に、少し心配になって矢継ぎ早に尋ねた。
「どこか悪いのですか? 痛いところは無いでしょうか? 有ったとしたらいつからですか?」
彼女はしばらく黙った後にゆっくりと頭を振る。
その表情は落ち着いていて薄く笑みを浮かべてすらいる。それでいてどこか遠い場所を見つめているように焦点がどこにも定まっていない。
「心配してくれてありがと……どこも悪くないよ。本当に平気」
そう呟く彼女の声音には張りが無い。
いつもの明け透けとした口調も、聞く人の気持ちを明るくするような溌剌とした言い草も無い。
メルウェートは初めて彼女の異変を感じ取る。
彼女の頬を両手で包むと強引に彼女の瞳を自らの方に向けて覗く。
充血は無く、曇りもない。紅玉のように澄んだ赤い瞳が彼を見据えていた。
ルチアにしては珍しく、メルウェートの突然の行動に慌てたり、照れたりもしなかった。
ただ、彼の大きな手から解放されると元気が無く眠そうに瞼を緩めただけだった。
「……本当に何でもないの。本当だよ?」
そう言うルチアの瞳にいつものような力は漂っていない。
彼女は笑顔を浮かべつつ、小首を傾げる。
メルウェートには彼女のその仕草が空元気に見えた。
「ほんとうに、大丈夫だよ……大丈夫」
「そう……ですか」
自らに言い聞かせるようなルチアの物言い。
メルウェートは彼女が何かを隠している事に気が付く。
しかし、メルウェートはそれを問うべきか躊躇った。
彼女の隠し事を明らかにする事がいい結果を生むとは限らない。
彼はルチアの方から話す気が起きない限り、そこに踏み込むべきでは無いと思った。
――行き過ぎた心配はおせっかいに過ぎない。
――尊敬しつつ、必要以上に干渉しない。
メルウェートはそれが自分達に必要な距離感であることを彼女との生活の中で学んでいた。
自らの気持ちを抑えてでも、相手の気持ちに寄り添う事が必要な事がある。
彼はそれが、今だと感じていた。
だからひとまずいつも通りに、彼女のして欲しいと思う事を提案してみる。
「……そうですか。では、ビスケットでも食べますか? 朝も昼も食べていませんからお腹が空いたでしょう」
「ありがと。ここで食べてもいい? もう、眠くって……」
メルウェートは一旦部屋を出て彼女の寝室にビスケットを持ち込んだ。
皿の上に山のように積まれたそれをルチアは一枚だけ手に取って、齧る。
美味しいと言って微笑する。
「ゆっくり食べて下さい。私は向こうで家事をしていますので」
「……うん」
メルウェートはルチアが静かに頷いたのを見届けると部屋を出た。
小一時間後、食器を下げようとルチアの寝台を覗く。
彼女はいつの間にか眠ってしまった様だった。
口元にビスケットの粉を付けたまますうすうと寝息を立てていた。
寝台の上には一口だけ齧られたビスケットが落ちている。
山のように盛られたビスケットは少しも減っていなかった。
メルウェートはここ最近の彼女の振る舞いを思い起こして考え始める。
――異常な食欲。そして異様なまでの眠気。そして今の食欲の無さ。ルチアは頑なまでにそれらを大丈夫、と言ってのけた。
「……」
彼女と会ったばかりの頃であれば、自身の好奇心を優先して無理矢理にでも原因を喋るように口を割らせたであろう。
だが、彼女と共に過ごした生活の中で、何より彼女の意思を尊重したいと思うようになっていた。
(彼女は何を隠している?)
これまで何でも明け透けに喋ってきた彼女が自らの不調の原因を喋りたくないというのは流石に鈍感なメルウェートにも伝わっていた。
彼は眼鏡をかけ直して思案する。
メルウェートは全く手掛かりの無い状況に頭をひねった。
ルチアを見ればちょっとうたた寝をしているかのように安らかな寝顔。
メルウェートは考える。
(このままにしておけば、きっと悪いことが起きる気がする)
少し前までの自分であれば理屈に基づかない非論理的な思考だと、一笑に付す様な考えであったが、今は確信を持ってそう思えた。
そして次の日。
彼の予感は的中する。
ルチアは一日中、目を覚まさなかった。




