一耳惚れ(三十と一夜の短篇第20回)
「あっはっ!」
短い笑い声が窓の方の席から聴こえて、梢は思わず振り返った。
――なにいまの、なにいまの。
聴いたことのない声だと思った。でもとても楽しそうだった。
ぽかんと、瞬間的に感情がはじけたような、明るい笑い。
ドキドキする胸をそっと押さえる。梢は一瞬でその声に恋をしていた。
でも窓際の席には冴えない声の男子が数人、談笑しているだけだった。
梢が片想いをしている東條は教壇の方にいて、イケメンはいつもその辺りに固まっていると戸川が言っていた。
「聴き間違いだったのかなぁ」
梢はため息をつく。
このクラスになってからもう半年以上経つのに、さっきの笑い声は初めて聴いたのだ。
――ひょっとしたらスマホから出た音声だったのかも?
それならあるかも知れない、と考える。
――だって、声優ってイケボだしぃ。
梢はひとまず、それで自分を納得させた。
* * *
梢が東條の欠点をひとつだけ挙げるなら、笑い声だった。
いわゆる『ひき笑い』という、ヒイヒイ言うような笑い方。あれだけはどうしても好きになれない。
「あんだけイケメンなんだからさぁ、それくらい我慢っしょぉ」
香織はパチンと音を立ててコンパクトを閉じる。
「香織、メイク直したの?」
「うん。ちょっとアイラインがぁ」
「笑い声よりさぁ、あたしが気になる声はぁ……」と、戸川が笑いを含んだ声で囁く。
ヒソヒソ、こそこそ。
くすくす。くすくす。
彼氏がいる女子同士、『大人の会話』とやらを耳打ちし合っているらしい。こういう時、梢は置いてけぼりを食う。
「また内緒話ぃ」と、梢はふくれてみせた。
「ま、梢にはまだワカンナイだろうけどねぇ」なんて言う戸川は、高校に入学してから彼氏を三人も換えている。梢には名前も覚えられないようなスピード交際だった。
「わかんなくていいよ。あたしだってそのうち大恋愛するんだから」
「誰とぉ?」
「うーん……じゃあ東條くんと」
梢は先週、VMで東條に告白したけど、まだ返事をもらえてなかった。
ボイスメッセージを添えられるアプリは、文字だけのメッセージより深い印象を相手に残せる、という理由で最近流行り出している。
告白やお祝いメッセージを送り合いたい年頃の女子には、特に人気のアプリだった。もちろん梢も利用している。
「ボイス付きにしたんだぁ?」と香織。
「やっぱり、自分の声で告白したいな、って」と梢がはにかむ。
「返事ないってさぁ、既読スルーじゃないのぉ?」と、戸川。
「うっさいなぁ」
戸川は、からかうのが楽しくてしょうがない、という笑い声を立てる。
「色っぽい声送ればよかったじゃん」
そう言って香織も笑う。
「無理、そんなの無理」
梢はポニーテイルの頭をぶんぶん振り回す。
「梢ができなくても、アプリで加工できるっしょ?」
香織はVMのアプリを立ち上げ、録音したボイスを加工して聴かせる。
「でも加工したら自分の声じゃないもん」
「イマドキ、写真だってプリだって加工するじゃん」
「でもあたしはしたことないもん」
「梢って、こーゆートコ頑固だよねぇ」と、戸川が笑いながらため息をついた。
香織と戸川は、中学の頃からの梢の親友だった。
二人ともとても親切で、すぐ落ち込む癖がある梢を励ましたり、時には叱ったり。でも特別扱いはしない。また時には本気で喧嘩したりもできる、そういう間柄の大切な友人たちだ。
「それよりも、その笑い声って誰なのさぁ。そんだけ特徴的だったらすぐわかるっしょ?」
戸川はカチャカチャとペンケースをいじっている。
「それがわかんないから困ってんの。確かに窓際の方だと思ったんだけど」
梢は頬杖をついた。ふぅ、と切なげなため息が出た。
「あの辺にいるのって、高槻と前田と小宮山と……あと寺田? そんくらいっしょ」と、戸川。
「あいつらって、声ひそめて笑ってるイメージあるけどね?」と、香織。「まぁ、見た目そんなに悪くはないと思うんだけど……地味だよねぇ」
「香織、派手な人が好きだもんね」と、戸川が笑う。
「梢、可愛いんだからてきとーに告白してみたら手っ取り早くない?」と、香織が言う。
「それはやだぁ」
――だってさあ、人違いだった時に困るし。
「ってか、あたし可愛いの? 自分ではわかんないよ」
梢は自分の頬をぺたぺたと触る。しっとりもちもちした自分の頬は好きだった。
「可愛いよねぇ……イケてるよ。でもまぁ、美人って感じではないね?」と、香織が梢の頬を突ついた。
「わ、もう、香織ったらぁ」
香織はケラケラと笑う。
「梢は可愛い系だよね、イモート系? うちのクラスで美人って言ったら……認めなくないけど白川さんだよね」
戸川が面白くなさそうな声で認める。
「あぁ、白川さんね。わかる。声も美人って感じする」と、梢は笑った。
* * *
あれ以来、あの笑い声を教室で聴くことはなかった。
やっぱり気のせいか聴き間違いだったのだろう、と、梢は考えるようになった。
ある日、科学室から教室に戻る途中、階段を下りようとした梢は、後ろから声を掛けられた。
「あ、葛西。こっち側、下の階のワックス掛けてたから、下の方は通行止めになってんぜ? 向こうの階段じゃないと」
「あ、そうなんだ。ありがとう。えーと……小宮山くん?」
梢は振り向いて微笑む。
「え、俺のこと知ってるんだ?」と、小宮山は驚く。
「うん、っていうか、クラスメイトでしょ?」
「へぇ。俺なんてクラスの女子、半分くらいしか名前出て来ないよ。葛西すげえなぁ」
「そうかなぁ? あたし男子も女子も全員わかるよ。あとうちのクラスに来る先生のことも――でも、こんなの自慢にならないよぉ? みんなだって普通にわかることだし」
「あっはっ。いや自慢できるって。意外な才能じゃん葛西」
「あー! その笑い方!」
梢は驚いて声をあげた。
「え、な、なに……なんか俺、悪かった?」
小宮山は急に声をあげられてオドオドする。
「や、あの……ごめん、驚いちゃって。あのね、その笑い方って小宮山くんの癖?」
「あぁ、変って言われるんだけど。俺、あんま笑わなくて」と、小宮山は照れたように笑う。
「変じゃない、変じゃないよ……あたし、その笑い方好きで、誰なのかずっと探してたの。小宮山くんだったんだぁ」
嬉しさのあまり頬が上気しているのが、梢自身にもわかった。
「へ? す、好きって――いや、え? 笑い方が?」
小宮山は慌ててしどろもどろになる。
「あ、笑い方っていうか、笑い声っていうか……多分あたし、その笑い方してる小宮山くんが好き」
――あれ? これひょっとして、告白になるのかなぁ?
我ながら奇妙な告白、と思う。でも恥ずかしさよりも素直に伝えられたのが嬉しかった。
「あっはぁ。面白いなぁ葛西。ってか俺って今コクられてんの? まじで? 騙されてない?」
小宮山の声には喜色が浮かんでいるが、まだ戸惑いを拭いきれない様子だった。
「あれ? だ、だめだった? 騙してないよ?」と梢は慌てて付け足す。
「駄目じゃないよ。ってか俺、葛西の頑張ってるとことか、その、いいなって思ってたし嬉しいけど――でも俺一緒に歩いてても、気ぃ利かないこととかあるかも知れねえし……点字とかそーゆーのも全然知らないよ? それでもいいの?」
「そんなこと関係ないよ。一緒にいて、一緒に笑えるような楽しいことをしたいなって思ったから。だから、よろしくお願いします」
ドキドキしながら笑顔になる。梢は改めて小宮山に恋をした。
小宮山はまたすごく嬉しそうな声で「あっはっ」と笑った。