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龍虎より愛をこめて

作者: タロ犬

「ファンタジー」「スタンプカード」「バトル」というお題のもと一晩で書く企画。

実際は間に合わず次の日までかかってたり。

 大食いキャラというのはネタにこそなれモテ要素では決してない。いわゆる「女子力」の数字のなかに大食ゲージなんてものは存在すらしないのだ。例えば夜中にひとりで牛丼屋に入れる女の子ってどうなのか。気にしないし歓迎するって男の人は意外に多いかもしれないし、食べることに心血をそそぐハラペコ女子だって結構いる。女の子でも深夜の牛丼屋歓迎。ただし飲食中にいきなり店員がシャッターを閉めはじめたら全力で逃げること。それ以外、あとはなんにも問題ない。

 ないが、さすがにアピールするようなことでもないと、斉藤夏実は思う。

 アイドルはオナラをしないとかそういう類の、人間性否定も甚だしい無言の要求。それに似たようなものは、一介の女子高生に過ぎない夏実ですら感じたことがある。女の子は少食で上品にご飯を食べるべし、なんていう理想を抱いてる人種は、やっぱり居なくはないのである。居なくていいのに。むしろ居なければいいのに。

 そんな人種に気を遣う必要なんてまったくない、というのは至極ごもっともな意見だと夏実も思う。しかし事実少食な周囲の友達まで道連れにそんなもの主張するのもどうか。気心の知れた仲で余計な気遣いだとは思うのだが、やはりなんとなく気は引ける。

 だって今の夏実のお気に入りは、泣く子も黙る男臭さ全開、綺麗でもなければオシャレでもない機動中華屋台「龍虎」だったりするのだ。

 もしかしたら屋台という物珍しさだけでひょこひょこついて来る平和な女友達もいるかもしれないが、間違いなく二回目はないだろう。だって、ヒグマのようにいかつい顔をしてヒグマのようにいかつい体をしたヒグマのような店主と対面を余儀なくされるカウンター席は、酒と煙草と豚骨スープの匂いが混ざり合いつつ充満していてファブリーズ程度では太刀打ちできそうにない。ちょっと身をよじれば肩も肘も隣の客にぶつかること請け合いの狭い間隔で仮設された丸椅子に座らされることになり、右を向けばトラックの運ちゃん、左を向けば指が一本無さそうなオッチャンと並んで名物のドラゴンラーメンをすすることになる。どう考えても友達にオススメしたくなるような店ではないのだ。

 しかも夏実がいつも龍虎に顔を出すのは、ファーストフード店でもバイトが終わったあと、大抵深夜にさしかかろうという時間になってからだ。若い女の子がそんな時間にそんな店でラーメンと炒飯と餃子をガツガツ食っている要素なんかなんにもない。

 それは夏実を含めて龍虎に集う面々の全員が理解していることで、それだけに夏実は店にいらぬ気遣いをさせないよう心がけた。自分はこのような身ではあるがどうか気にしないでほしい。ただ自分はここのドラゴンラーメンが美味しいと思うだけなのだ。そんなような意味のことを店主である熊沢卓馬(46才)に伝えた。店主はヒグマのような顔でゆっくりと頷き、龍虎を愛す周囲の客もまた、心の中で深く頷いた。その瞬間、夏実は本当に龍虎の客となったのだ。

 しかしそんな夏実にも、ひとつだけちゃんと理解できていないことがあった。えてして渦中の人物そのものの耳には話が入ってこないものだ。

 「龍虎」になんの物怖じもしない女の子の客がいる。気持ちよく話す娘さんで、しかも女子高生らしい。どこぞの有名私立に通うエリートだと聞いた。おまけにどえらい美人だ。どこそこの事務所にモデルとしてスカウトされたらしい――――、とかなんとか。

 どえらい美人かどうかは主観の問題として、ごく普通の公立高校に通い、どこの事務所からもスカウトの話など来たことのない夏実の噂は、完全に尾ヒレがついて広まっていた。そして夏実がようやく周囲のその注目ぶりに気がついたときには、彼女は龍虎のアイドルとなっていたのである。

 男ばっかりの空間に突如うら若き乙女が舞い降りれば、そうなるのも無理はないのだった。方々からやってくる人生の年季のはいったオッチャン連中は、いかつい外見とは裏腹に意外と涙もろかったり純情だったりする。そうでなくたって男というのは、若い女の子に甘いものなのだ。

 ともかく、不本意ながら機動中華屋台「龍虎」のアイドルとなった夏実は、その周囲の扱いに若干の戸惑いを感じながらも正しい常連客として変わらず振舞った。お嬢ちゃんお嬢ちゃんとオヤジ連中からちやほやされるのも、別にそんなに悪い気はしないし、色んな人たち(ただし殆どはオッサンである)がいて話をするのもおもしろかった。たとえば指の数が足りないオッチャンだって龍虎では客の一人でしかないし、夏実にとってはいつも餃子を奢ってくれる気のいいオッチャンなのだった。

 ヒグマ店長秘伝の豚骨スープがきいたドラゴンラーメンはたしかにおいしい。しかしそれ以上に、この龍虎という屋台と、その雰囲気が夏実は好きだった。バイト帰りにここに寄り、おいしいものをたらふく食べて、ときには一杯飲まされて帰宅するという、完全にオッサンのそれでしかない生活習慣をいつのまにか夏実は身につけていた。









 夏実が龍虎に通うようになって半年と少し、秋も深まり夜風も相応に冷たくなりはじめた頃、いつものように龍虎に訪れた夏実は、いつもと違った話を聞いた。なんでも、自分と同じくらいの女の子が最近、龍虎の周りをウロウロとしているというのだ。

「いやなに、はじめは道にでも迷ってんのかと思ったんだがァ、どうも違うみたいでよ。なんべんもなんべんも、こう、ウチの屋台の前を行ったり来たりするワケよ。で、ラチがあかねぇんで声かけてやったんだよ、お嬢ちゃん、お客さんかい? って」

「へー。で、その子はどうしたの」

「これが失礼な話でな。オレが声かけたとたん、尻尾踏まれた猫みてぇにビクゥてして、そのまま逃げてっちまった」

 そう言って店主熊沢は豪快に笑う。夏実は呆れ顔で相槌を打ちつつ、まあそれも無理はないな、と思う。こんなヒグマみたいな男にヒグマみたいな声で話しかけられたら、そりゃ慣れてない女の子なんか一発で逃げるだろう。本能のままに身の危険を感じるべきである。

「でも夏実ちゃん、もしその女の子がここの常連になったりしたら、龍虎のマドンナの座も安泰じゃねえなあ?」

「はじめからいらないってさ、そんな座。もしその子がまた来ても、オッチャンら、ちゃんと優しくしたげないと駄目よー?」

 今度は左隣で日本酒をあおっていい感じになってる、指の足りてないオッチャンである。吐く息が酒臭い。マドンナとはこれまたオッサンらしい言い方だと思いながら夏実は調子よく返事を返す。奢りの餃子にかぶりつきつつ続ける。

「てか、うん、多分、ぜったい、その子、ここに来たかったんだと思うし。遠くからでもいい匂いするもんね、ここ」

「お、嬉しいこと言ってくれるねェ。ウチの自慢のドラゴンスープは伊達じゃない!」

「で、エライ人にはそれがわからんのよなぁ」

 そして爆笑する酔っ払い二人。オッサンの会話はたまに意味不明でついていけない。もっとも、酔っ払いの話すことなど深く考えてはいけないと夏実は充分に学んでいる。しかし、客であるオッチャンはともかく、ヒグマ店主までも当たり前のように飲んでいるのはどうか。アンタこのあと車運転して屋台引っ張って帰るんじゃなかったか。

 そんなことを思うも、いつものことなので特に注意することもなく黙々とドラゴンラーメンをすする。秋の夜が更けていく。

 夏実は思う。もし今度自分がここにいるときにその女の子が来たら、自分が声をかけよう。









 それから一週間ほどした夜だった。その日はこの秋でも今のところ一番寒いんじゃないかと感じるほど冷たい夜で、バイトを終えた夏実は早足で温かい龍虎へと急いでいた。もうすっかり馴染みとなった秘伝ドラゴンスープの匂いがただよいはじめ、ちょっと過剰なんじゃないかというくらい煌々とした灯りを視界におさめ、中途半端な絵柄で龍と虎が描かれたでっかい屋台看板を目に


 女の子だ。


 目の端でそれを見つけた。一直線に龍虎へ向かっていた足を緩めながら夏実はその姿を観察する。

 屋台の後方、10~15メートルくらいの路地の影で、たしかにその様子を伺っているように見える。なるほどたしかに歳は自分とそう変わらない。やたらと長いマフラーのようなものをしている。距離と影のせいで、それ以上のことははっきりと確認できない。

 いつのまにか足は龍虎へと辿り着き、アイドル(マドンナでもいいが)を迎え入れた屋台は心なしか活気づく。満席だったが夏実が何か言う前から一人のオッサンが立ち上がり「オレはもう食ったし、あとは立ち飲みするだけだから」と席を譲ろうとする。完全にVIP待遇だった。ありがたいけど悪いなあ、と思うと同時に、それ以上に気になる事があってまず熊沢店主に声をかける。

「ね、ね、てんちょ。アレ、あそこ」

 店主は「あぁ?」と小首をかしげながらも夏実の示した方向を見やる。これから視力検査でも受けるのかというくらいに目を細め眉間に皺を寄せ、相当に長い時間その場所を凝視してようやく、

「……、あー、ああ! あれだあれ。この前逃げていきやがったお嬢ちゃん」

「それはてんちょが怖くしたからだってさ。ちょっとあたし、声かけてくるから」

 店主と客のオッサン連中は一斉に夏実のほうを向き、誰もがちょっとだけ呆気にとられたような顔をしながら誰からともなく「あ、ああ」なんて声があがる。そしてさして間もおかず、龍虎はまたすぐ元の様子に戻っていく。「やっぱり夏実ちゃんはしっかりしてるねぇ」「いやいや、あれは嬢ちゃんのただの物好きだ」喧騒と活気が戻ってくる。

 夏実の足は、既に女の子へと向いていた。


 女の子は、早い段階で夏実が自分に近づいてくるのを悟ったようだった。もしかすると、自分と同じくらいの少女が何の抵抗もなく屋台に入り、父と子ほどの差があるであるオッサン連中と気楽に会話しているのを見て気になっていたのかもしれない。それだったら都合がいいな、と夏実は思う。

 はじめてハッキリと顔を確認する。ヤバい可愛い。それに、白く透き通った肌。

「こんばんわー。今日は寒いねー」

 できるだけ自然にと意識しすぎたせいか、妙に胡散臭い切り出しになってしまったなと夏実は反省するが、言ってしまったものは仕方ない。

「こ、こんばんわ…」

 女の子の方も、小さな声で少しオドオドした口調だったが、ちゃんと反応してくれる。

「わ、半袖じゃん。寒いでしょ? あっちでなんかあったかいもん食べてかない?」

「え、でも、」

「あー大丈夫、はじめてご来店のお客様は今なら特別に無料となっております! スタンプカードもポイント2倍!」

 断っておくが龍虎のような硬派な店にそんな洒落たサービスは存在しない。むしろ一見さんは限りなく入りにくい雰囲気を醸し出しているというのが実情である。屋台の分際でスタンプカードはいっちょまえに存在していたりするが、それにしたってやっぱりポイント2倍サービスなんて存在した試しはない。完全に夏実のでまかせであった。

「え、でも、人一杯なんじゃ……? それに、」

「だいじょぶだいじょぶ。立ってでも食べられるし、それに、可愛い女の子が来てるのに席を譲らないような人達じゃないってよさ。意外と紳士、みたいな」

 それでもまだ女の子は何か言いたそうだった。だけどその視線が先程からチラチラと龍虎の屋台に向いているのを夏実は見逃さない。食べたいに違いないのだ。若い女の子でも。同士だ。ならば迷うことなどないと夏実は思う。

「あたしもいるし大丈夫。それに『龍虎』の名物ドラゴンラーメンは秘伝の豚骨スープをつかってて、――ほら、いい匂いしてるでしょ? 一度食べたら病みつきになっちゃうんだから。せっかくタダで食べれるのにもったいないなー? 噂では豚骨じゃなくて本当は龍の骨を使ってるとか、」

「龍の骨?」

「そ、龍骨。もちろん、あくまで噂だかんね?」

 変なところに食いつくなぁと夏実は思うが、とくに気になるわけでもない。それよりあと一押しだ。この機会を逃したら、永遠に彼女は龍虎の屋台に入ることがないかもしれない。こんなに食べたそうなのに。そんなのは勿体無いと思うし、なによりせっかく見つけたかもしれない同士だ。すこし強引だとわかっていても、夏実は興奮を抑えきれずにいる。最後の一押しとばかりに、いたってシンプルに聞く。

「ドラゴンラーメン、食べたくない?」

 沈黙。

 何かを必死で考えているような。

 勇気を出してなにかを言おうとしているような。

 伏目がちだった瞳がゆっくりと持ち上がり、夏実に向けられた。なんて必死な顔をしているんだろう、と微笑ましくなって笑ってしまいそうになるが必死に堪える。ゆっくりと、控えめな声が言葉を紡ぐ。夏実に目を合わせたまま、

「食べたい」

 夏実は満面の笑みで女の子の手をとって言った。

「あたし、斉藤夏実。あなたは?」

 女の子がようやく柔らかい笑顔を見せる。笑顔だとまた一段と可愛い。こりゃほんとにマドンナとやらの座をとられちゃうかな、と冗談交じりに思う。女の子の言葉を聞き漏らさないように集中する。

「私の名前は、獅子ヶ谷悠姫子」

 同士の名前だ。

 夏実は、その名前を決して忘れまいと思う。









 夏実に手を引かれ龍虎の暖簾をくぐった悠姫子は、文字通りの熱烈歓迎を受けた。

 その情景たるや見る人が見ればパニックと言われてもおかしくない有様で、座っていた客などは夏実たちと顔をあわせるなり全員が立ち上がり口々に自分の席をどうぞどうぞと譲りまくってきた。上島竜平のような気分で夏実が呆気に取られていると、まだ頼んでもないのにドラゴンラーメンの特大が二人前、二人の前に何食わぬ顔で置かれる。どういうことかと熊沢店主に問い詰めようとした矢先、客の誰かに肩を掴まれて問答無用で椅子に座らされてしまう。振り返れば肩に乗せられた手には指が一本足りず、振り向かなくてもそれが誰なのかわかる。隣では悠姫子が同じようにトラックの運ちゃんによって席に押し込まれていた。

 無理矢理とはいえようやく落ち着いた夏実は、ドラゴンラーメンの特大を前にして周囲に抗議する。

「ちょっと、いくらなんでも強引すぎるってさ! 悠姫子ちゃんなんてはじめて来ていきなりよ? それに誰が特大なんか――」

「誰がって、いっつも特大食ってるじゃねぇか、夏実ちゃん。新しい嬢ちゃんの前で猫かぶることねぇだろうよ。なあ?」

 熊沢店主は豪快に笑いながら周囲の客たちに同意を求める。オッサンどもは店主の言に次々に同意し「この間なんか特大に炒飯と餃子と、あとなんだったかも付けて食ってなかったか?」「オレらよりもよっぽどよく食ってるよな」などと立場がない。

 それに、たとえ自分が特大を食べるとしても悠姫子までが特大を食べると勝手に決めつけられても困るのだ。意外にも背は夏実より若干高いようだったが、線の細い悠姫子が特大を食べるとは、


 食べていた。


 目の前に置かれた特大サイズになんの疑問を持った様子もない。割り箸を割って軽く口の中で「いただきます」とごにょごにょ言ったかと思うと、いきなりぶきっちょな箸づかいで麺をすすりはじめる。そしてでっかいドンブリを両手でがっしりと持って、なみなみと揺らめく秘伝の豚骨スープをごくごくと直接喉に流し込む。

 行儀などという言葉とはまるで無縁な、豪快すぎる食べっぷりであった。

 その様子に、夏実はもちろん、おもしろ半分で特大を出した熊沢店主ですらも呆気にとられている。冬眠中のヒグマのごとく固まっている。他の客も皆同じで、まるでジャイアント白田でも見るかのような目つきで悠姫子を見つめていた。

 そのまま、見ているだけで誰もが胸焼けを起こしそうな食いっぷりは止まることなく、あれよあれよという間にドンブリは空になり、底に描かれていた虎が姿を現す。そこでようやく熊沢店主が冬眠から覚め、

「――――、……嬢ちゃん、アンタ、なにもんだぁ? ウチの特大平らげるのに5分かかってねぇぞ?」

「え?」

 ようやく悠姫子は周囲の目線に気がついたらしかった。きょろきょろと周囲を見渡し、オッサンどもが一人残らず驚愕の表情を浮かべていることに気がつき、途端に不安を感じたらしい。すがるような目つきで夏実に助けを求める。

「な、夏実、私、どこかおかしい?」

「え、あ、」

 まだ驚愕覚めやらぬまま突然話を振られた夏実は、まともに意味をなす言葉を紡げない。

 どこかおかしい? おかしい、その胃袋と食欲はおかしい。あとせっかく可愛くて見た感じも上品なのに、食べ方が豪快すぎておかしい。おかしいというか可笑しい。今まで夏実は自分のことを相当な大食漢だと思ってきたが、考えを改める必要すらあるかもしれない。自分の腹の中にはせいぜい小さい餓鬼が一匹いる程度だろう。それに比べて、悠姫子の腹の中にはブラックホールが存在していると言われたって今なら信じるかもしれない。

「あ、えーと、ちょっとだけ、ビビったかな? その、悠姫子ちゃん、よく食べるんだねー、みたいな」

「え、そう? ちょっと、お腹すいてたから」

 実際はちょっとどころではなくビビったが、かなり分厚いオブラートに包んで言った。が、悠姫子の返しといったらこれである。そっちこそちょっとお腹がすいてたどころではあるまいて? どう見ても一週間は何も口にしていなかった人間のそれであったというのに。

 二人のやりとりを見守っていた客たちも、感心していいのか畏怖を抱けばいいのかイマイチ対応に戸惑っているのが見てとれる。新しい仲間を少々手荒な方法で歓迎してやろうというオヤジ達の目論見は完膚無きまでに打ち砕かれ、そしてその新人はとんでもない名刺を持ってきた。

「――は、」

 沈黙を破ったのはヒグマに例えられることの多い、この屋台の主だった。

「はぁーーーーはっははははははっ!! こりゃすげえや、ウチで店で二入目の姫さんは、ウチで一番の大飯食らいのハラペコ姫だ!」

 ハラペコ姫っておい。相変わらずオヤジのハイセンスなナンセンスっぷりったらない、と夏実は思う。店主の馬鹿笑いにつられて徐々に客の中からも笑いが生まれ、そしてそれはすぐに小さな屋台全体を包み込む大きな笑いへと変わった。「悠姫子ちゃんって言ったか、よろしくな」「お嬢ちゃん、まだ食いたりねぇだろ? 餃子はどうだ?」「こんなに食うんじゃあ、マドンナとは呼べねぇなぁ」笑いと、心地良くて酒臭くてヤニ臭い喧騒。本当は、少しだけ心配していたけど、そんなものは無用だったと夏実は思う。

 間違いなく、悠姫子は、受け入れられた。

 とうの悠姫子は、いまだ自分が話題と笑いの中心にいることがよく理解できていない様子できょとんとしている。また可笑しくなって自分も笑ってしまいそうだ。すっかり伸びてしまった麺をずるずると口に運びながら、夏実は悠姫子に片目でサインを送る。意味はようこそ、でも、よろしく、でもなんでもいい。親愛の情が伝わればそれでいい。夏実のサインに気がついたらしい悠姫子は、戸惑いながら、といった様子で恥ずかしそうに笑顔をつくってみせた。

 伝わった、と夏実は思う。









 でまかせだったはずの全額無料は満場一致で本当になり、新規につくられた悠姫子のスタンプカードはポイント2倍どころか更にその倍の4倍になった。龍虎のスタンプカードは幾ら買ったらスタンプが貰える、といった類のケチくさいものではない。1回の来店につきスタンプひとつ、だ。幾ら分飲もうが食べようが、あるいはまったく飲み食いせずにお冷だけ飲んだとしても、スタンプひとつである。男らしいシンプルさと義理人情に溢れていた。

 悠姫子のスタンプカードには早くも4つのスタンプが押されたことになる。スタンプは四十個貯まると一杯になり、次回そのカードで好きなだけ食べることが出来る。好きなだけ、である。制限はない。持ち帰ることは禁止とされているが、その場で食べられるのならば実質無制限の食べ放題券と化すのである。スタンプ四十個は若干ハードルが高いように感じられても、見返りは大きい。それが、機動中華屋台『龍虎』のスタンプカードなのだ。

 結果的に常人なら胃もたれ必至の量のラーメンやら炒飯やら餃子やらを平らげた夏実と悠姫子は、送る送るとうるさいオッサン達の申し出を強引に断り、二人で歩いて帰路についた。いくらオヤジコミュニティに抵抗なく参加している身といえど、やはり同世代の同性がいるのならそちらと過ごすのが若人として正しい選択だろう。まして今日会ったばかりの二人である。夏実には話したいことや聞きたいことなどが際限なく浮かんでいた。

 しかし、なんだか噛み合わない。

 夏実の質問の多くに対して悠姫子は「わからない」と「言えない」で答え、また夏実の振る話題に対してもイマイチ要領をえていないような反応をする。夏実はわからないような難しいことや言えないようなディープなことを訊いたつもりもなく、振った話もごく普通の、少なくとも同世代の人間であれば大抵わかるであろうことばかりだ。

 はじめから変わった女の子だとは思っていたけれど。

 どうやら相当変わっているらしい。謎が多い。だけど彼女が「言えない」ということをそれ以上追求するわけにもいかない。まあ、そのうち話してくれるかもしれないし、今は「龍虎を好む」もの同士というだけで充分なのだ。

 夏実はそう自分を納得させ、ポジティブに前を向き、そして隣を歩く少女に視線をやる。

 獅子ヶ谷悠姫子。浮世離れした名前の、浮世離れした女の子。白くて可愛くて、どことなく凛としていて、でもどことなく気弱。

「どうしたの?」

 夏実の視線に気がついた悠姫子がストレートに聞いてくる。

 しかし結局あなたは何者なの? と聞いても悠姫子は答えてくれないだろう。深夜のひんやりした空気が、風にのせられてよりその冷たさを増し、二人の間をすり抜けてゆく。

「うー、さむ。そいや悠姫子ちゃん、なんで半袖? あとそのマフラー、」

 そうなのだ。秋も深いこんな季節になんでまた半袖のシャツを着ているのだろう。そしてそれに相反するかのような長い濃紺のマフラー。屋台では色々なことがあってそれどころではなかったが、実は初見から夏実の気になっていたポイントであった。ファッションというか、トレードマークとしては抜群に目を引く、下手をすれば地面に擦れてしまいそうな薄手のマフラー。中田英寿のマフラーだってもう少し短かったように思う。これじゃまるでヒーローだ。強い風が吹けば、マフラーがなびいてとてもかっこいいだろうけれど。

 さすがにこれは聞いてもいいことだろうと思ったが、いざ聞いてみると、もしかしてマズかったらどうしようと思っている自分を夏実は発見する。気を遣うって難しい。

 悠姫子はとくに気にする様子もなかった。少しだけ考えるそぶりを見せてから一言、

「運動、してたから」

「はあ」

 思わず声に出してしまった。まさしく、はあ、である。運動していて暑かったので半袖、ということなのだろうか。結局マフラーのほうの理由にはなっていない気がする。

「夏実は、」

「え?」

「夏実は、よくあの、龍虎にいるの?」

 はじめて、悠姫子から聞いてきた。それもすごく、シンプルで、素朴で、でも二人にとって多分大切な質問。

 夏実は思う。自分が間違っていたのだ。そういう話をするべきだったのだ。だって、自分たちの接点はそこなのだから。そして、悠姫子から聞くばかりではなく、自分からも話すべきだった。悠姫子の質問も聞くべきだった。どれもとても当たり前のことだ。少し浮かれていたとはいえ、なんでそんなこともできなかったのか。夏実は深く反省する。

「うん、まあ、バイト入ってる日は上がってから大体行くかなぁ。週に2、3回くらい」

「じゃあ、夏実が行くとき、私も龍虎に行っていい?」

「なに言ってんのさ、いいに決まってるじゃん。それに、あたしがいなくたって行きたければ、」

「うん。でもやっぱり、夏実がいたほうが安心するから」

 夏実はわざとらしいくらいに前を向き、わざとらしく自らの髪の毛を弄る。そんな言い方をされれば、照れはすれど悪い気はしない。それにあれだけの歓迎だったとはいえ、今日はじめて来店した悠姫子には、やはりまだ一人で龍虎に行くのは抵抗があるのだろう。それなら、断る理由は何もない。夏実は笑顔で返事を返す。

「わかった、じゃあ、これからは一緒に行こ?」

「うん」

 そう言って悠姫子は小さく頷いた。なんだか照れてしまう。夏実は照れ隠しにと、なにか違う話題を探す。

「あ、そだ。これから一緒に行くならさ、スタンプカード、一緒に貯めない?」

 そう言って夏実は自分の財布から龍虎のスタンプカードを引っ張り出す。ついこの前にカードを使ってしまったばかりだったので、いまはまだスタンプ欄には二匹分の虎のスタンプが推してあるだけだった。

「できるの、そんなこと?」

「できるできる。できなかったら無理矢理てんちょに認めさすってさ。二人で来店するたびにスタンプふたつ、四十個貯まれば、二人同時に食べ放題、みたいな。ひとりでやるより2倍速いよ?」

「すてき、かも」

 そう言って何ごとか想像しているらしい悠姫子の頭の中は、今はやはり龍虎の食べ放題のことで一杯になっているのだろう。それについては顔を見ればわかる、と夏実は思う。そういうことについては思考がだだ漏れである。やはり悠姫子が大食いの星の下に生まれてきたのは間違いなさそうだ。

「カードは、私のを使って? 私のほうは4つ貯まってるし、一人で行くこともないし、」

 そうと決まれば悠姫子は積極的だった。本来ならありもしない4倍ポイントサービスによってはやくも4つのスタンプを貯めていた悠姫子は、それをさっそく二人の共同財産とし、後日熊沢店主に脅迫まがいで認めさせるであろうこの案に加担したのである。カード一枚で二人の食い放題を認めるというのは、ようするにスタンプが半分しか貯まっていないのに貯まった扱いをするのと同じであり、龍虎としては明らかな損失だった。それでも最終的にはその案を渋々認めるであろう心優しき熊沢店主に、ただただ同情するばかりである。若い女の子というのはこれだから怖い。

 結局、夏実が自宅に帰りつくまで悠姫子は隣を歩き、また龍虎で会うことを約束して二人は別れた。

 最後まで悠姫子は、家の場所を教えてはくれなかった。









 それから、機動中華屋台『龍虎』では、二人組みの女の子がしばしば目撃されるようになった。

 オヤジとオッサンで構成され、オヤジとオッサンのために存在し、オヤジとオッサンからそこそこ評価されているラーメン屋台に出入りする若い少女たち。しかも時間は深夜である。アルコールの入っていないマトモな頭で考えたって、やっぱりろくな考えは出てこない。少女たちはオッサン達から何をさせられているのか。少女たちはオヤジどもにどんな弱みを握られているというのか。

 実際はむしろその逆で、少女たちこそが龍虎に集うオッサン連中の弱みであった。

 ネガティヴな意味ではない。端的に言って、彼女らは龍虎のアイドル、オヤジ風に言うならばマドンナと化していた。彼女らが龍虎に現れるとVIP待遇で席を譲られ、客のオッサンたちは酒臭い声であれやこれやと話しかけてくる。構ってほしいのであろう。こうなっては、ちやほやしているのかされているのかさえよくわからない。店にやってきては黙々と特大のドラゴンラーメンを飲み干すハラペコ姫と、気がつけば自分の父親ほど歳の離れているオッサン連中になぜか説教をかましている威勢のいい元祖マドンナは、数回と店に現れないうちにほぼ全ての常連客の知る存在となり、やっぱり尾ヒレのつきまくった噂と共に話だけが勝手に一人歩きしていた。

 ――おい、聞いたか。あの二人組みのお嬢ちゃんの話。今度どこそこからアイドルユニットとしてデビューするらしいぞ。

 アイドルはアイドルでも、小さな屋台の汚いオッサン連中限定のアイドルである。むしろ偶像と呼ぶに相応しい。もうこの際いくらでも崇拝してくれて結構だけど恥ずかしい噂だけは立てないでもらいたい。夏実は思う。自分など、バイト帰りにドラゴンラーメン食ってるだけの極めて普通の女子高生に過ぎない。ミステリアスな悠姫子でさえ、そうは変わるまい、と。


 インチキな増え方をする二人のスタンプカードは順調に虎の数を増やしていき、ちょうどスタンプの数が二十個に達しようとする、その日。いつものようにバイトが終わり、いつものように龍虎のすぐ近くで夏実は悠姫子を待った。

 しかし、いつもならカップラーメンが出来上がるより早く姿を見せる悠姫子が、今日にかぎってなかなか来ない。しばらく待っていよいよ夏実は心配になりはじめ、どうしたものかと天を仰ぎそうになったとき、ようやく悠姫子が姿を見せた。カップラーメンなら完全に水分を吸ってぶよぶよになってしまっているような時間だ。夏実はお返しに遅刻の理由を問い詰めて、ちょっと悠姫子を困らせてやろうと顔をあげ、

「――――、ちょ、どしたの?」

「だいじょうぶ。なんでもないよ」

 大丈夫でもなければ、なんでもなくもなかった。少なくとも、夏実にはそう見えた。

 長いマフラーは相変わらずだったが、服は汚れ、所々が破け、そして何箇所かの出血の痕。

「転んだだけだよ」

「いやいや、絶対おかしいってさ」

 これはもう、ラーメンどころの騒ぎではない。病院だ。そうでなくても何か応急処置程度はせめてしておきたい。絆創膏ならあるが、それだけでは力不足な感が否めない。龍虎なら? ダメだ、あそこに救急箱なんて期待するだけ無駄だ。あのヒグマのような店主ならこう言うだろう、「そんなもん、ツバつけときゃ治る」と。絶対だ、目に見えるようだ。

 軽くパニクる夏実をよそに、悠姫子は龍虎に行こうと言う。もちろん理由は「お腹がすいたから」である。ちょっと普通ではない。前から変ではあったけど、今回は本当に普通ではない。大怪我とは言わないが、傍目にわかるレベルの怪我を負っておいて「ラーメン食べたい」とはどういう神経なのか。それとも、そこまでドラゴンラーメン中毒になってしまったというのか。

 結局やむなく龍虎に向かった二人は、案の定客からも店主からも「どうした?」の攻勢にあい、熊沢店主は夏実の予想通り「ツバつけとけば治る」と言い放った。しかし予想外にも救急箱は龍虎にも備え付けてあり、ラーメンを前にして赤チンを塗るという不思議な行為によって何事も無く済んだのである。

 その日はなんとなく気まずい雰囲気のまま二人は帰路につき、夏実は「言えない」と答えられるのを承知で悠姫子に話を向けた。

「結局、何があったの?」

「本当にだいじょうぶだから。ただのかすり傷」

「だから、ただのかすり傷を女の子がつくってくるのがおかしいんだってさ」

 悠姫子は黙ってしまう。問い詰めることが必ずしもいい事であるとは夏実も思わないが、気になることは聞きたいというのが心情だ。それは好奇心から来るものではなく、心配から来るものだけに尚更だった。

 だから、聞いた。

「ね、毎日、龍虎に来る前に、なにしてるの」

 沈黙。

 隣を歩いていた悠姫子は足さえ止めて立ち尽くしている。様々な感情が渦巻いていることは間違いないが、それが何なのかは、夏実にはわからない。そして、それがわからないかぎりは、自分たちの関係にこれ以上は無いのだろうなと、ぼんやりと理解する。

 悠姫子は立ち止まったまま言った。

「今度、話すから」

 夏実は、その言葉を信じる。


 多少の気まずさはあったものの、通称「悠姫子ボロボロ事件」のあとも二人の龍虎通いは続いた。

 顔を出せば客のオッサン連中にうるさく酒臭くヤニ臭く絡まれる。勘弁してくれ、と思う一方、夏実はこんな龍虎の雰囲気が嫌いではなかった。狭苦しい喧騒の中でぎゃあぎゃあと騒ぎ、食べ、そして帰りはさっきまでの騒ぎが冗談みたいに静かな道を、悠姫子と二人で歩く。この流れが嫌いではなかった。

 まだ悠姫子と知り合って、せいぜい数ヶ月だというのに。










 その日の龍虎は、いつもに比べ、はじめ見たときには「休みなんじゃないか」と思うほどに客がいなかった。しかし、休みなら灯りはついているはずないし、そもそもこの場所まで屋台を引っ張り出してきているわけがない。

 はじめて見る、あまりにもしっとりとした静寂に包まれた龍虎を前に二人は一瞬固まってしまったが、意を決して暖簾をくぐる。その向こう側には、見知った顔が一人。

「お? ようやっと客が来たなァ。もし嬢ちゃんらが来ないんなら、一時間も前に閉めててもよかったとこだ」

 いつも通りの熊沢店主であった。しかしさしもの店主とはいえ、たった一人でいつものように馬鹿うるさいということはさすがに無かったらしく、それまでは無言でなにやらスープらしきものの仕込みをやっているところだった。

「おす。……てかなに、どうなってんの今日は? 他のお客さんらは?」

「いやなに、今日はそこいら中で寄り合いがあってなァ。ま、若いお嬢さん方には関係ねぇ話よ」

「……ふーん」

「なんだよ? いつもはオヤジの相手するのめんどくさくても、いざいなくなると寂しい、ってか?」

「べーつに。悠姫子ちゃんも落ち着いて食べれるし、たまにはこんな日もいいんじゃないの。ね?」

「うん。お腹すいた」

「花より団子、ってか。二人とも、ドラゴンの特大でよかったよな?」

「うん。てんちょ、お願い」

「――――っと、待てよ。せっかく今日は他の客がいねぇんだし、スペシャルメニュー、ってのはどうだ」

「スペシャルメニュー?」

 その胡散臭い響きに、思わず夏実は眉間を寄せ身構える。こんなときに提案されるメニューなんて、ロクなものでないに決まっている。大方、本来の客のいぬ間に新メニューの実験でも企てているのではあるまいか。騙されてはいけない。

 そう思って悠姫子の方に目をやる、と、悠姫子は思いっきり釣られていた。今まであんな顔したことあったっけというくらいに期待に満ち満ちた目でヒグマ店主を見つめている。そんなに気になるものなのか?

 店主はニヤリと笑ってさっきから仕込み中のようだったスープを見る。

「気まぐれで新しいラーメンでもだそうかと思ってよ。まあ試作のスープもできたし、試しに1杯」

 夏実が返事する前から悠姫子ががくがくと頷いている。そこまで食い意地がはっているなら仕方ない。

 呆れたといった表情で悠姫子を一瞥し、溜息混じりに店主に注文する。

「じゃあそのスペシャルメニューってやつ、2つで」


 結果を言えば、相当、おいしかったのではないかと夏実は思う。

 豚骨ベースのドラゴンラーメンよりもあっさりとしていて、それでいて旨味が豊か。魚介ベースとのことだが、なかなかどうしてこのオヤジ、やるなと改めて見直してしまったほどだ。

 特に悠姫子はかなり気にいった様子で、普段はあまり話さない熊沢店主となにやら熱心に議論を重ねていた。はじめはまさしくヒグマを恐れる小動物、といった感じだったのに。この数ヶ月の間、知らないうちに悠姫子もラーメンに詳しくなり、そしてなにより龍虎に馴染んだということだろうか。

 試作が好評だったことで店主も自信を持ったらしく、しまいには「近く正式にメニューに入れる」とまで宣言する始末。悠姫子は終始テンション高く「楽しみにしてるから」と連呼していた。

 そして最後に押されたスタンプカードの虎の数は三十八。とうとう、ふたりが次に龍虎に来店すれば、その次には食べ放題が待っている。そのときこそ熊沢店主は悠姫子のフードファイター顔負けのポテンシャルに恐怖することになるだろう。気の毒な話である。

 いつもの帰り道、季節はもうすっかり冬で、雪こそ降らないものの空気は凍りつくかというほどに冷たい。

 夏実は悠姫子の長いマフラーを少しだけお借りしながら、でかい綿飴のような真っ白な息を吐いて歩く。

 龍虎の新メニューのこともあって上機嫌な様子の悠姫子が、その調子のまま、いきなり語りはじめた。

「信じなくてもいいんだけどね、」

「ん?」

「私、ずっと戦ってる」

 夏実は、悠姫子の突然の言葉に、その意味を汲み取れない。

「戦ってるって、なにと?」

「……んー、難しい。とにかく、敵。化け物も、人間も、色々」

「ば、化け物ぉ?」

「うん。信じなくてもいいけど」

 語っている内容に比べて、悠姫子の口調は驚くほど落ち着いていた。まるで何度も練習を重ねた言葉みたいに。

「あ、いや、なんか、突飛過ぎるけど……冗談とかじゃ、ない系?」

「本気系」

「あ、う、うん」

「私、そういう素質あるんだって。そういう家に生まれて、ずっとそういう練習ばっかやってきた」

 もはや夏実は相槌も打てなくなった。悠姫子が突然、あまりにも突飛なことを言い出すから。でもそれが冗談なんかじゃなくて、頭がおかしくなったんでもなくて、本気なのだという、それも、なんとなく伝わるのだ。だから、下手な相槌など打てる気がしなかった。

 悠姫子が足を止める。夏実も、足を止めた。

 夏実の瞳を、悠姫子はまっすぐ見つめる。そして語りはじめる。

「世の中のこと、なんにも知らないまま、ただ戦うことだけうまくなって、なんの娯楽も知らなくて、なんの美味しい食べ物も食べたこと無くて。そのまま、いつか戦いに負けて死ぬんだと思ってた。でもね、」

 悠姫子が笑顔をつくる。

「龍虎から、すごくいい匂いがしたの」

「それ、すごくわかる」

 この会話で、初めて心の底から言えた言葉だった。そして、悠姫子が夏実とまったく同じ調子で龍虎に引き寄せられたのだと知った。今になって、ようやく。

「それから気になって、いつも戦いが終わってから、龍虎を見てた。ものすごく美味しそうだって思ったけど、自分はそれを食べられないこともわかってた」

「なんで?」

「だって私、どこか外でご飯を食べたことすらなかった。普通の人と会話することも、殆どなかった。形式だけだけど、禁止もされてたし、」

「だから、あのとき……」

 夏実は思い出す。あの日、初めて悠姫子と出会ったあの日、悠姫子は戸惑ったのだ。自分が、禁を破ることになるかもしれない、と。

「うん。私あのとき、夏実に声をかけてもらえて本当によかったと思ってる。そうでなきゃ、絶対にあのお店には入れてなかったと思うから」

「そりゃ確かにね」

 もう一度龍虎の雰囲気と、面々を思い返す。

 確かに、無理だと結論づける。特殊な育ちをしたという悠姫子でなくたって、あの屋台は一見さんにはキツい。

「だから、ありがとう」

 夏実は困ってしまう。突然、そんなに誠心誠意で感謝されたら、恥ずかしい。だけど、悠姫子の心からの言葉だと受け取ったからこそ、おふざけで流すことが出来ないとわかってもいた。

 だから、ちょっとだけすまして言う。

「どういたしまして。……でも、それはあたしも同じだってさ」

「どうして?」

「だって、今、こうしてるの、楽しいじゃん、みたいな、さ、」

 それは本気の本音であるのは間違いないのだが、どうしてもクサすぎて最後は吹き出してしまう。ちょっと青春しすぎだ、これじゃ。贅沢すぎて後が怖いと、夏実は思う。

 悠姫子のほうはといえば、どうもクサすぎて笑うということがイマイチわからないのかきょとんとしていたが、やがて夏実の笑いが伝染しはじめる。いつの間にか、真冬の夜中の路地で、二人の少女が鈴を転がしたように笑っている。

「次で、スタンプカード一杯だね」

「そうだねー。いやー、食べ放題と悠姫子の組み合わせ怖いなー。ちょっとだけてんちょ、かわいそ」

「新メニューももうすぐでるってね」

「あんたそればっかりだねホント」

 今日、悠姫子は本当のことを言ってくれた。ちょっと信じがたいけど、ちゃんと言ってくれた。

 夏実は思う。これで、ようやく本当に友達になれた。









 結論から先に言う。

 新メニューが登場した今でも、二人のスタンプカードの虎の数は、三十八匹のままだ。



 最後に悠姫子に会ったのは、彼女が本当のことを話してくれたあの日から二日後。

 時間はいつもの夜中じゃなく朝で、

 場所はいつもの屋台ではなく、自宅のすぐ前。

 いつもどおりに学校に行くために家を出たら、そこに悠姫子はいた。

 もうその時点で、なんとなくわかっちゃったのが嫌だ。

 ああ、この子、あたしの前からいなくなっちゃうんだー、って。



 寝ぼけ眼も一瞬ですっ飛んだ。

 いつもどおりの通学のつもりで家を出た夏実の目に飛び込んできたのは、風になびく、見慣れた濃紺のロングマフラー。

 ただごとではない、とすぐに悟った。それまで、あの時間の、あの場所でしか悠姫子には会ったことがなかったのだ。それが、こんな時間のこんな場所に、はじめて現れたりなんかしたら、誰だって嫌な予感がする。

 しかも、これみよがしに、今にも泣きそうな顔なんかされていたら、なおさらだ。

 悠姫子は「もう会えないと思う」と言った。「ごめんなさい」とも言った。「さようなら」とまで言った。

 夏実はたしかにそれを聞いた。

 だけど悠姫子は「全部嘘です」とか「また会える」という類の言葉はいつまでたっても言わなかった

 つまりはそういうことである。

「どうして、」

「家庭の事情で」

 世間ズレしてるんじゃなかったのだろうか。いったいどこでそんな言葉を覚えてきた?

「つまり、その、戦いの……?」

「……うん。遠くに行かないといけない、どこに行くのかも言えない」

「なんでよっ」

 苛立ちは口調に伝わり、言葉は激情を呼ぶ。なんで突然、こんな一方的な別れ方をされなければならないのか。つい二日前に話したのではなかったのか。

「本当はここでお別れを言うのもいけない。本当は誰も巻き込んじゃいけない」

「……悠姫子ちゃんは、それでいいの?」

 沈黙。

 何かを必死で考えているような。

 勇気を出してなにかを言おうとしているような。

 伏目がちだった瞳がゆっくりと持ち上がり、夏実に向けられた。なんて必死な顔をしているんだろう。

 ゆっくりと、控えめな声が言葉を紡ぐ。夏実に目を合わせたまま、

「……よくないよ」

 涙が流れていた。

「スタンプカードは? 新メニューは? 楽しみにしてたじゃん、あと、ちょっとじゃん……」

「うん」

 ほとんど鼻声で、うんはヴんにしか聞えない。やりきれなくて言葉をかけているけど、だけどそれで現状が覆るわけはないと夏実はわかってもいた。悠姫子の話した「戦い」云々が本当なのなら、ここに留まるということはできないのだろう。留まればより悪い結果がでるに決まっているのだ。

 だけどそれで、じゃあ仕方ないと納得できることなのか?

「じゃあ、いつかこっちに帰ってくる? また龍虎に一緒に行ける? それだけ、教えて」

「……難しい、と思う」

 ダメだ。そんなこと言っちゃダメなんだ。勝手と言われてもいい。今、言うべき言葉はそれじゃない。

「でも、……いつか帰ってきたい。帰ってきて、また夏実と龍虎に行って、スタンプカードを貯めて、新メニューを食べたい」

「うん……!」

 今度はやっと夏実が泣く番だ。悠姫子は無理でも約束してくれた。

「あたしも、きっと龍虎のオッサンたちも、、待ってるからさ」

 悠姫子は最後に笑ったように見えた。最後の最後でオッサンはないだろ、と思ったのか。確かに最後の最後でそれはない。チョイスミスだ。夏実はまたも、深く反省する。

 悠姫子の姿は消えていた。気がつくと、いつのまにか。

 幻のような消え方が、あまりにも現実離れしていた。だからこそ、これは幻なのではなく、現実なのだと夏実は思う。今のような消え方がアリなら、「戦い」だってアリだろう。

 悠姫子は、いつか帰ってくるだろうか。

 夏実は、悠姫子が消えたその場所で、ただ立ち尽くしている。









 悠姫子の居ない機動中華屋台『龍虎』は、史上初めて葬式のようなテンションに支配されている。

 はじめこそ「お、今日はもう一人のお嬢ちゃんは来ないのか?」なんて軽口を叩いていたオヤジ達も「悠姫子は引っ越した」という夏実の言葉になんとなくシュンとしてしまった様子がある。ほら、やっぱりオッサン達も待ってるよ、悠姫子?

「しかし引っ越すなら引っ越すって、もっと早くに言っときゃいいのになァ」

「仕方ないじゃん。急だったんだから」

「まぁな。しっかし、せっかくあのハラペコ姫大絶賛の新ラーメン「タイガーラーメン」が入ったってのに、間が悪いってやつだな」

 熊沢店主の口調は責めるような口調ではあったが、その実ガッカリしているという感じが充分に伝わってくるツンデレ発言であった。今なら怖いヒグマもプーさんくらいに見えるかもしれない。

 客たちが口々に悠姫子の話をしながら、また龍虎は酒臭くてヤニ臭くて豚骨くさい、そこにいる人間にとっては心地良い喧騒で包まれていく。夏実はカウンターに肘をついて、悠姫子から預かったままの、二人のスタンプカードを眺める。

 あと一回。

 あと一回、ふたりでここに来店すれば、カードは埋まる。そして、そのあとは――――



 このカードが埋まるのは、いつになるだろうか。

 カードが埋まるその日まで、きっと夏実と、龍虎と、ついでにオヤジどもはここで待っている。

 悠姫子が帰ってくるその日を、スタンプカードと、食べ放題と、タイガーラーメンが待っている。




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