日常というのは案外簡単に壊れる
目の前で誰かが笑って手招きする。
周囲が闇に包まれているため、その顔は確認出来ないがおそらく女の子だ。
「君は誰?」
返答は無く、ただ手招きをしてくるだけだった。
その背中には銀色に輝く翼があった。
まるで天使のようだ。
見惚れてしまっている自分が可笑しいのか、微笑を口に浮かべながらゆっくりと近付いてくる。
その顔を覗き込んだ時、柊《ひいらぎ紅葉は目覚めた。
「ぐはっ!?」
妹の蹴りによって…
「朝っぱらから何て起こし方するんだ。お前は」
まだ痛む腹を抑えながら、ソファに寝転がり漫画片手に爆笑している義妹 柊青葉を睨む。
「しょうがないじゃん。お兄ちゃん起きないんだから」
「やって良いことと悪いことを考えろって言ってんだよ」
紅葉の視線に気付いたのか、漫画を机上に置くとこちらに近付いてくる。
はっきり言って嫌な予感しかしない。
「お兄ちゃん。今日の朝ごはんは?」
「お前の大嫌いな卵料理全般ってえぇぇぇぇぇっ!?」
素っ頓狂な悲鳴をあげてしまったが、しょうがないだろう。
青葉がいつの間に移動したのか、冷蔵庫に頭を突っ込み、中を漁っている。
時々、グシャッ、バキッと何かが砕ける音が聞こえるのは気のせいだろうか?
「お兄ちゃん。卵は全滅したよ」
気のせいではなかった。
冷蔵庫の淵から黄色の液体が流れ出す。
いや怖いよ。赤だったら殺人現場みたいだけど、黄色はまた別の意味で怖い。
「お前、何でわざわざ卵全滅させるんだっ!!アニメじゃないんだから、『後でスタッフが美味しく頂きました』的な言い訳は通用しねぇぞ」
「大丈夫。卵が好きな奴らは全員私の敵だから」
「規模がデカすぎる…」
青葉の冷たい笑みにゾッとしながらも、冷蔵庫から絶えず流れ出て来る卵だった物体を拭き取り、ガス台の前に戻る。
青葉がテレビをつけたようで、リビングから数人の人間が喋る声が聞こえる。
平和な日常だ。
この日常に溶け込むまでに多くの月日を費やした。
紅葉は幼少期の記憶がなく、捨て子だった。
そんな自分を拾ってくれたのが、柊家の家族だった。
おかげで、義妹の青葉からはこき使われることが多々あるが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「お兄ちゃん。Mなお兄ちゃん」
「何故、回想していた内容がお前に伝わってるんだ?」
俺はMじゃないと付け加えながら、全く手伝おうとしない青葉の前にトーストと牛乳を置く。
卵が不慮の事故(?)で全滅したため、簡単な朝食しか作れなかったが、それを嬉しそうに食べる義妹の姿を見れば、そんな事情どうでもよくなった。
彼のような存在を世間ではこう呼ぶ、《シスコン》と…。
「シスコンなお兄ちゃ〜ん」
「最後のいらんナレーションはお前だったか…」
朝からテンションの高い義妹を連れて、紅葉は家を出た。
携帯端末でニュースを見ていると今では見慣れてしまった文字が視界に映る。
「またあったんだな、《磁場台風》」
《磁場台風》とは、2022年に災害として新たに追加されたものだ。
簡単に言えば磁力を纏った台風だ。それ故に被害は甚大で《磁場台風》が通過した場所にあった磁力に反応する物質は根こそぎ奪われていくため、性質が悪いので有名だ。
初めの頃は全世界で起きていたが、今ではアジア州ばかりで多発するようになっている。理由は不明だが迷惑な話だ。
「それより、今日の昼食はどこで食べるの?」
「もちろん家でだ」
「私、今日はお寿司食べたいなー」
「自腹で行って来い」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
沈黙が痛い。
青葉がこちらを向いて、瞳で何かを訴えかけているのがわかる。
その視線に耐えられる筈も無く、俺はあえなく敗北した。
「分かった、俺が全額持つから。でもあんま高いの食うなよ」
「ありがとう!!シスコンのお兄ちゃん」
「そのネタ、まだ続いてたんだな…」
青葉の輝く笑顔の奥にかくされた腹黒さを垣間見ながら、紅葉は自分の通う私立高校へ向けて歩を進めた。
「・・・・久しぶり」
そう言って声を掛けて来た見知らぬ少女はそのまま教室へと戻って行った。
全く知らない女の子に声をかけられ、咄嗟に反応できる筈もなく帰っていくその背中を見つめていた紅葉はため息をついた。
「今日は本当、何かおかしい」
声に出して呟いてみたが、その声に反応する生徒はいなかった。
「こーうーよーうー!!」
訂正、 一人いた。
出来れば、関わりたく無かった奴だったがしょうがあるまい。
「久しぶりだな、猿山」
猿山淳。紅葉が義妹である青葉の次に仲良く(?)なった奴だ。
恋愛ゲーム歴10年、どんな女の子でも落とせると自負している猿山はクラスで言うムードメーカー的な存在だった。
「今のは、神紙輝だろ。いつの間に仲良くなったんだよ?」
「なんか色々とスゴイ名前だな…」
歩いっていった方向を見やるが、そこに神々の姿はなかった。
あんな奴と面識があったか頭を捻るが、どうも身に覚えがない。
自分が一瞬にして、空気扱いされているのが分かったのか隣からギャーギャーと猿山の喚く声が聞こえるが、紅葉が特に気にすることはなかった。
「やっぱり、今日が初対面だよな…」
その言葉が神々の耳に届くことはなかった。
「起立、礼」
教師の号令とともに、軽く頭を下げるとホームルームは終わりを告げた。
今日の予定はこれから青葉の財布役か…、絶望的だ。青葉は身体が小さい割によく食う。
「一体いくら使わされるやら…?」
財布の中にある万札を確認すると、ため息をついた。
その瞬間、紅葉の平和だった日常は終わりを告げた。
ビリィィィンとサイレンが学校中に響き渡り、一瞬の沈黙が訪れた。
このサイレンは《磁場台風》の警告のためのものだったからだ。
『みなさん。《磁場台風》の発生が今から12秒前に確認されました。住民の方々は急いでシェルターに避難してください』
繰り返し放送されるその言葉が繰り返される前に生徒達は動き出していた。
迅速かつ安全に避難を始めたのだ。
日頃の訓練の賜物だな、と思いつつ最後尾に並んだ俺の視界に一人の少女が映った。
「あ、あれは」
その少女は今朝夢で見た女の子と酷似していた。
相変わらず顔を確認することは出来ないが、その背中から生える銀色の翼は見紛う筈が無い。
「ヤバイだろ。あれ」
既に《磁場台風》はこちらに進行方向をとっている。
外にいるのは自殺行為だ。
「猿山、悪いけど俺少し遅れる!!」
背後から猿山の声が聞こえるが、無視して少女のいる屋上に向かうための階段に足をかける。
恐怖といった類のものは感じなかった。
神紙輝は《磁場台風》警報が鳴り響いた直後に転送されていた。
自衛隊 特務機構 《ゼクス》。それが、神々が己の目的のために入隊した組織の名だ。
ある現象を止めるために設立されたこの組織では、自分のような女は珍しくない。というかぶっちゃけ全員女だ。
だから男女差別といったものは存在しないため、比較的居心地が良い。
「神紙、到着しました」
「おう、お疲れ〜。そんじゃ行きますか」
上官である橘羽風の指示の元、神々を始めとする隊員達はパワードスーツを装着していく。
彼らの目的は天使を殺すことなのだから。
「いた!!」
屋上の扉を蹴破る形になりながら、夢で出会った少女を見つけた。
遠目では分からなかったが、年齢は青葉より年下、小学生ぐらいの身長だった。
「ここにいたら危ない。すぐにシェルターに行かなきゃ」
少女は動こうとしない。
本当に今の状況分かってんのか?と怒鳴りたくなるのを耐えながら、ゆっくりと少女に近付く。
「ねぇ、あなたは星を見たことがある?」
歩を止め、足が地面に縫い付けられたかごとく動けなくなる。
最初、それが目の前の少女が発した声だと気が付かなかった。
それほどまでに彼女の声は紅葉の声と似ていたのだ。
「ああ、見たことがある」
「そう、羨ましいなぁ」
一瞬の間をあけて返答した自分に彼女はゆっくりと近づいて来る。
依然としてその顔は見えないが、少女は微笑んでいるように思えた。
「ねぇ、あなたは《磁場台風》の中に入ったことがある?」
視線を校舎に迫ってくる《磁場台風》に向けた。
少女の所に辿り着くまでに時間を相当要したため、肉眼で視認できる距離まで迫っていた。
「ないよ。入りたくもない」
「そう。じゃあ入れてあげる」
俺の意見は無視か!!と突っ込もうとした時、不思議な浮遊感が身体を襲った。
「はっ…?」
気付けば、紅葉の身体は浮いていた。
先程まで、足場であった校舎の屋上は何処にもない。
「どうなってんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫しながら、重力にしたがって紅葉の身体は落下していく。
マズイこれはマズイ。
何度も走馬灯がよぎりながら、紅葉は必死で手をバタつかせる。
たいして効果が無いと分かっていても、人間とは無駄な努力をするものである。
いよいよ地面に迫って来た時、紅葉の身体は浮いていた。
いや、空中で静止していたというほうが正しいかもしれない。
紅葉が辛うじで、自分が助かったと認識したと同時に再び落下を始めたが、地面からの高さはたいして無かったため、死にはしなかった。
「何処だよ、ここ?」
キンキンと耳触りな音がした上空を降り仰ぐと紅葉は唖然とした。
鉄パイプなど《磁場台風》に反応する物質が、宙に浮いていたのだ。
落下する前に少女が言ったことが思い出される。
ーそう。じゃあ入れてあげる。
「ここは《磁場台風》の中ってことか…」
自分で言っていることが信じられないが、そうでなければ説明がつかない。
周囲を見渡してみると、動くものがあった。
自分と同じ理不尽に連れてこられた人か、という希望はあっさりと打ち砕かれた。
それはミサイルだった。
「はっ?」
そして、そのミサイルはぐんぐんと高度を落とし、自分に迫って来る。
「何じゃそりゃぁぁぁぁぁっ!?」
震える足を無理矢理動かし、横に思いっきり跳ぶ。爆発音とともに、爆風によって飛んで来た破片が背中を打つが気にしている場合ではない。
さらにミサイルが背後から迫って来るのだ。
「おかしいだろぉぉぉぉぉ!!」
自分の知ってる世界は何処に行ってしまったのだろうか。もしかしたら、此処は死後の世界だとか…。
現実逃避しながら、次々と迫るミサイルをかろうじで避ける。
足が何度ももつれ体勢が崩れる度に、近場にあるビルの角に身を隠す。
不意に紅葉は開けた場所にでた。
そして、場違いな姿の少女を見つけた。
自分を此処に連れてきた少女(幼女)とは違い、自分と同じぐらいの年齢であろう少女と遭遇した。
中世のドレスに身を包み、片手に身の丈ほどある大剣を持った少女。その背中には理不尽な幼女と同じものが、銀色の翼が生えていた。
「天使…」
思わず呟いてしまったその言葉は彼女にはピッタリと当てはまるように思えた。
それ程までに彼女は美しかったのだ。
「誰だ、お前は?」
よく通った声で、話しかけられるまで、紅葉は今自分がどういう状況下にいるのか失念していた。
「君こそ誰だ?」
咄嗟に出てきた言葉はその程度のものだった。
しかし、質問に質問で返されたのが不服だったのか、大剣を振り上げる。
「ストップ!!了解。分かったから。
俺の名前は柊紅葉だ」
「こうよう…か、何用で参った?」
「別に何もないけど…」
曖昧な答えに腹をたててたのか、大剣を振り下ろす。
ズゴォォっと建物の倒壊する音が背後から聞こえる。
おそるおそる、背後を見てみるとミサイルを躱すために利用していたビル群の一角が跡形もなく消滅していた。
「何用で参った?」
「・・・・・・黙秘権を行使する」
ドゴォォと音をたてて紅葉の足首すれすれを大剣が通過した。
少女の顔は既に臨界点をとうに超えているような修羅の顔へと変貌していた。
どうしろと言うんだー!?と心の中で叫びながら、頭を抱える。
自分の言ったことに嘘偽りはない。自分だって何故ここに連れてこられたのか分からないのだ。
あれやこれやとこの状況から脱する方法を思案していると、不意に少女のか細い声が聞こえた。
「お前も私を傷つけるのか?」
「はあ、何言ってんの?傷つけられてるのは俺じゃん!!」
極限状態に追い込まれてか、反射的に答えてしまい、しまったと思うも後の祭りだった。
ズドォォッと途轍もない音量とともに紅葉の身体は空中を舞った。
「ぶへぇぇっ!?」
顔面から地面に激突し、視界を闇が覆い尽くす。
「最後のチャンスだ。何用で参った?」
女の子って本気で怒ったらこんな顔になるんだと記憶に刻み込み、必死に思案する。
うまく誤魔化す方法。方法…。
そこで以前に猿山が話していたどうでもいい恋愛ゲームの話を思いだした。
「きっ、君に、会いにきたんだ」
一か八かの賭けだ。これで困惑するなり、記憶を手繰るなりしてくれれば自分は少なくとも逃げ延びることができる。
しかし、目の前の少女は全く予想外の言葉を口にした。
「あー、山田くんか。久しぶりだなー」
誰だ!?数分前に柊紅葉と自己紹介したばかりだぞ。何だよそのありふれた名前の奴は!?
ツッコミどころ満載の返答をした彼女は、何故だかやり切ったような表情をしていた。
いや何でだよ。まだ何もやり切ってないじゃん。内心で毒づきながら今なら逃げ出せるかと淡い希望を抱いてみるが、
「いやー、山田くん。修学旅行以来だなー」
「・・・・・・・・・」
輝くような笑顔で肩に手を置き、全く放そうとしない。
「でも確か山田くんは、猫を助けるために車に跳ねられたとか…、あれっ山田くんって誰だ?」
山田くんって案外良い奴だったんだなぁと感慨深げに聞いていたが、最後にとんでも発言をした気がする。
「そもそも、貴様は何用で参ったのだ?」
「結局、最初に戻るんかいぃぃぃぃっ!!」
こうなりゃヤケクソだ。
倒壊したビル群に向けて全力疾走する。後ろで大剣を構える音が聞こえた。
どうやら騙された(?)と分かったのだろう。
「乙女の心を踏みにじったなぁぁぁぁっ!!」
「この星では、大剣振り回す奴を乙女とはよばねぇよっ!!」
律儀にツッコミながら、懸命に走る。
不意に風切り音が聞こえた。
同時に背後で爆発が起こった。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!?」
爆風に身体を持っていかれ、吹き飛ばされる。
失念していた。自分は彼女と遭遇する前にミサイルに追われていたではないか。
地面に背中を強打し、肺の中の空気が外に押し出される。
激しく咳き込みながらも先程まで天使らしき少女のほうを見やる。
爆風によって土煙が舞い上がっているが、その中で動く影があった。
「ミサイルをくらっても生きてるのか…」
もはや人間でもない。いよいよ自分は未知との遭遇でも果たしてしまったのかと本気で考え始めた時、風切り音ともにその影に肉迫していくものがあった。
「神紙…!?」
今朝初対面(?)であるにも関わらず、「久しぶり」と声をかけてきた少女だ。
その身体は鎧のような機器によって保護されていた。おそらく、あれのおかげで飛行することが可能なのだろう。
天使と神々の剣がぶつかり合い、周囲に衝撃波が広がる。
「っ!?またか…」
衝撃波によって吹きとばされながら、受身の体勢をとる。今日一日で何度地面に転がったことか…。
半ば諦めながら、地面落下の痛みを待つが一行に訪れる気配はなかった。
目を開ければ、そこは無機質な床の上だった。
「・・・・・」
自分は空間転移能力でも身につけたのかと思うぐらい、大きな変貌ぶりに固まっていると隣で動くものがあった。
「やぁ、兄貴は到着したようだな」
目に大きな隈を作った女性がいた。
胸元が大きくオープンする服を着用しているため眼の置き所に困るが、その口元に装着しているボロボロのマスク(?)が異様な存在感を醸し出している。
「私の名前はゴールデン・リボンバー・ヤマモトだ。以後よろしく」
「それどう考えても偽名ですよね」
反射的に受け答えしながら立ち上がる。
ぐるりと自分の周囲を見回して見るが、先程の天使らしき存在や神紙はいなかった。
そもそも、今いるところは先程いた場所とは異なるのだから当然だが…。
「ここは何処ですか?ていうか、あなたは?」
「山本唯だ」
「やっぱり偽名だったんだっ!!」
分かってはいたが、本名に全くゴールデンリボンバー関係ねえ。ただならぬ因縁か何かあるのかと思っていた自分がバカのようだ。
「じゃあ、ここは?」
「母船 《ガーリック》の船内だ」
「…ずいぶんと個性的な名前の船ですね」
皮肉を込めて言ってみるが、全く意に返さず山本唯は歩き出した。
「連いてきたまえ。ここのお偉いさんがお呼びだ」
…何故だか嫌な予感しかしないのだが、気のせいだろうか。
「改めて自己紹介しておくわ。母船 《ガーリック》艦長 柊青葉よ」
嫌な予感は的中した。
艦長と名乗ったのは俺の家族であり、俺の義妹の柊青葉だった。
「歓迎するわ〜。シスコンなお兄ちゃん」
突っ込むのも忘れ、呆然としている自分にそう言い放つ青葉はイタズラの成功した子供のような顔をしていた。