さよならの前に
女は離婚届けに自分の名前とハンコを押して、リビングのテーブルに突っ伏していた。
娘が死んで明日で4年。もう夫の妄想に付き合って行くのに限界を感じた女は、夫が帰ってきたら離婚届を突きつけて離婚しようと考えていた。
それでも離婚届を役所から貰った時は、言い知れぬ恐怖で手が震えた。そして自分の名前を震える手で記入欄に書きながら、娘と夫と過ごした日々を思い出し、離婚届を涙で濡らさぬよう気をつけた。
そして書き終えると、離婚届をテーブルの隅に置いて突っ伏して、泣きたいだけ泣いた。泣いて疲れたせいか、女はそのまましばらく眠っていた。
するとチャイムがなり、女は慌てて涙を拭いた。そしてインターホンの画像を見ると、マンションの前で夫が花束を持っていた。
―娘の誕生日は明日なのに?
マンションのオートロックを解除し、夫の帰りを待った。
やがて部屋のチャイムが鳴り、玄関を開けると夫が立っていた。
「ただいま。」
夫は花束以外は、いつものように玄関から上がってリビングに向かって自分の席へ座った。
女は思わず慌てて離婚届けを隠す。だが夫にはそれが何か分かったらしいがしばらく何も言わなかった。そして、二人はしばらくリビングのテーブルに置かれた花束を見つめ続けた。
「あ、あなた、望の誕生日は明日なのに、どうして今日花束なんて買ってくるのよ。」
女はそう言って笑いながら離婚届のことから気をそらせようとした。
「もう未来が別れたいなら、俺もサインするよ。ただ、さよらならの前に、聞いて欲しい。」
真剣な夫の言葉に、未来は固唾を飲む。
「今まで俺のこと、ありがとう。そのお礼に、花束を買ってきた。」
そう言って未来の夫はその花束を未来に向けて押しやる。それを見て、未来は泣きながら呆れて笑う。
「それなら、ちゃんとそれらしく花、渡したらいいじゃない。」
夫は頭を掻きながら、花束を両手で抱えてうやうやしく未来に渡した。
「ありがとう・・・。」
未来がそう言って花束を抱えると、夫は望の部屋兼仏間に行こうとした。未来は慌てて花束を置いて夫を制する。
「だめ、望は今寝たばっかりだから、起こしちゃ・・・。」
そう言えば大抵夫は娘の部屋に行かないはずなのだが、夫は未来の言うことを聞かず、そのまま部屋を開けた。
「だめ、開けちゃだめ!」
未来は慌てて夫の側に言ってその手を掴むが、夫は優しく未来の手を離した。
「分かってる・・・。もう望は死んでるんだ。」
今まで頑なに娘の死を受け入れなかった夫が、あっさりと妻の未来の前で自分から認めた。その行為に思わず未来は腰が砕けてその場にしゃがみこんで泣いた。
今まで夫の妄想に付き合って疲れていたはずなのに、いざ夫が自分から受け入れる姿を見た時、未来のなかでも本当に娘が今死んでしまった気持ちになってしまっていた。
夫は未来はうずくまりながら泣くのを尻目に、仏壇に伏せられていた娘の遺影を立て直し、線香に火を付け、鐘を鳴らして目を閉じて、娘の遺影に向かってその魂を弔った。
未来は這いずりながら必死に夫の側まで向かい、夫にすがりついた。
そして、夫は妻を強く抱きしめ、しばらく一緒に泣いた。
やがて落ちつた頃、夫は恥ずかしそうに頭を掻き、妻の耳元で囁いた。
「どうか・・・未来がよければ、もう一度俺の側に居てくれないか?」
「今までずっと側に居たじゃない。」
夫の言葉に未来は思わず笑う。そして、嬉しくなって夫をさらに強く抱きしめた。
二人は抱き合い、ワルツを踊るように体をゆっくり揺らしながら言葉を交わす。
「なぁ、俺から病院の先生達に言って、これから望の月命日は半休取るから、一緒に墓参りに行こう。」
未来は無言で頷いた。
「ねぇ、耕太・・・。今日私にくれたお花、仏壇に半分飾っていい?」
「うん、いいよ。ありがとう。これからはもうケーキもおもちゃも買わなくていい。俺はもう当直のバイト辞めるから、これからずっと未来の側に居させてくれ。」
夫は未来に甘えるように頬ずりをした。未来は優しくその夫の髪を優しく撫でた。
次の日、未来は夫が目覚める前に離婚届をぐしゃぐしゃに破り、ニコニコしながらゴミ箱に丸めて捨てた。
岩見52度事件と、43/日常の冒頭までの間のお話です。
岩見夫妻の離婚の危機を救ったのもまた娘の望ちゃんのおかげのようでした。




