43/稲村米子
PUCSのルーム43は未だに亡くなった子供を思う親のすすり泣く声が聞こえる。
しかし、イトマキがやってきてからというもの、徐々に部屋の雰囲気が和らいだように思うと看護師たちは口々に言っていた。
それはイトマキが患者の親たちと正面から向き合い、患者の親たちにいろいろな励ましの言葉を投げかけていた。
「今後のことではなく、今を見ること。今をお子さんと共に精一杯生きること。」
「あなたの育て方が悪かったわけでもないし、あなたもお子さんも誰も悪くない。」
だが、けして頑張れとは言わず、ただ、ずっと見守っていく、それだけが今は重要なのだとイトマキは患者の親たちに伝えた。
そのおかげか、患者に面会に来る親たちの顔が柔和になり、夫婦喧嘩をする声もほとんどルーム43で聞こえなくなっていた。
そんな折、一般病棟とPUCSプロジェクトの合同で経過観察していた稲村米子が目を覚ましたという連絡が一般病棟から入り、周りはにわかに慌ただしくなった。
ただでさえ自然に目覚めず、昏睡状態のまま衰弱死する患者の中で、特異な患者ではあるが目を覚ましたのは今は奇跡と言っても過言ではない。
稲村は目覚めた後、様々な検査を受けたあと、胃ろうの除去手術をし、点滴と流動食から始まり、最近は通常の病院食を食べられるまでに回復した。
会議室では、一般病棟とPUCSプロジェクトのメンバーたちが集まり、稲村米子の検査結果と目覚めた後の経過報告を行なっていた。
一般病棟の神経内科、内科・外科・精神科の検査の結果、身体的にも精神的にも異常なしという結果が出た。
その結果にどよめいたのはPUCSプロジェクトのメンバーたちだった。今までの例では、目を覚ましても精神的に安定せず、精神病院送りになるのが当たり前であったのに、稲村米子はその例外を尽く覆した。
色々と特別な例の患者ではあったが、目を覚ましても精神的な安定を保てるというのは今後のPUCSの治療にとって重要なことだった。
どういう条件が重なり目を覚ましたのか、そしてどうして精神を安定できているのか、会議室は熱気を帯びていた。
その中で、目をうるませる男が1人いた。それはPUCSプロジェクトに所属する神経内科の豊平だった。
ふいに豊平は隣に居た消化器外科の岩見に手のひらをつねられた。
「ひぎぃっ!」
思わず豊平がおかしな叫び声を上げ、白熱した会議室が一瞬静かになり、皆が声の方向を睨んでいた。
「あ、すんません、こいつさっきアクビしてたもんで。」
岩見は豊平が何度も米子が目を覚ましたことに医師の立場からではなく、恋する男の目線から見て感動していることを察して、わざと感動して泣きかけるのをごまかすために豊平の手のひらをつねった。
「ば・か・や・ろ・う!何度も感動してんじゃねーよ!」
岩見は豊平の耳元で小声で叱る。しかし、豊平はそれでも米子が目覚めたことを喜んでいた。
涙ぐみながら丸い顔をさらに満足そうに丸く微笑んでいる豊平を見て、岩見は呆れ返っていた。
しかし豊平の喜びもつかの間のことだった。皆、豊平が稲村米子に医師としてではない特別な感情を抱いているのを知っているため、あえて稲村米子の退院までは稲村米子の治療に直接参加しないよう、プロジェクトリーダーの真駒から通達された。
それ以来、豊平の丸い顔は幾分しぼんでしまった。
「気の毒だけど、いろいろ病院内でこじらせてもらっちゃ困るからなぁ・・・。」
イトマキが背中を丸めて去っていく豊平を心配そうに見ていたのに気が付き、岩見はイトマキに言った。
「人の恋路を応援したいのは山々だが、患者に対して平等に接するのが医者だし、第一重要な患者に万一のことがあったら困るのは、精神科医のお前だってわかっているだろ?」
岩見の見解にイトマキは不服そうな顔をしていた。イトマキ自身も頭ではわかっているのだが、心ではまだ整理したり理解を飲み込むことができないでいた。
「お前さ・・・本当に精神科医かよ?」
下唇を出して子供のようにすねるイトマキを見て、岩見は額に手を当てて呆れ返っていた。
その後、イトマキは一般病棟の精神科医と一緒に稲村米子の様子を診に行った。
稲村は上半身部分が起き上がったベッドに体を預けている。
パーマやカラーをかけていた長い髪を後ろに束ねており、頭頂部の黒髪が入院生活の長さを物語っていた。
目を覚ました稲村は、一時期全身の骨が浮いて見えるほどやせ細り、骨がベッドにあたる度に眠れなくなっていたが、最近はだいぶ食事を摂れるようになり、頬もだいぶふっくらとしていた。体に筋肉や脂肪が戻ればベッドに骨が擦れることもなくなり、最近ではよく眠れるようになったと稲村本人は一般病棟の医師に言っていた。
その一般病棟の医師の後ろで、必死に稲村の顔を拝もうとイトマキがせわしなく動いている。
イトマキの挙動に、思わず稲村は小さく笑った。稲村の様子に、一般病棟の医師はイトマキの紹介が遅れたのを詫び、改めてイトマキのことを紹介した。
「私と同じ年には見えない!正直学生さんかと思っちゃいました。」
稲村はイトマキのその幼い容姿に驚いていた。イトマキは恥ずかしそうに否定した。
「本当に、本当に娘が元気になってくれてよかった・・・。」
そんなやりとりを聞きながら、嬉し涙を流しているのは稲村の母親だった。
「まさかあの病気で大切な子供を二人も亡くすなんて、もう怖くて悲しくてしょうがありませんでしたけど、先生、どうもありがとうございます。」
稲村の母が言う『あの病気』というのはPUCSのことである。稲村の母にも、稲村米子本人にも病名を明かしてはいるが、けして口外しないよう病院から言われている。
稲村の母は幼い頃に米子の弟をPUCSで亡くし、介護等の問題で夫婦仲が悪化して離婚した。そのため、稲村の母は米子を女手一本で育ててきた。米子もそれに応えるように勉学に励み、有名な新聞社で働くまでになった。
しかしまさか稲村の母親は自分の娘が成人しているのにPUCSになったとは思ってもみないことだったのだろう。
稲村の母親が、娘がPUCSだと聞かされて取り乱した際、稲村の母親のメンタルケアをイトマキが担当することになった。
稲村の母親とイトマキが接する機会は結果として短かったものの、稲村の母はイトマキのカウンセリングに感謝していた。
医師に感謝する母親を見て、稲村米子はてっきり一般病棟の精神科医に母が感謝しているものと思っていた。
「本当に、伊東先生、ありがとうございます。」
泣きながら母親はイトマキの手を握り、イトマキは恥ずかしそうに照れていた。
初めはイトマキの容姿を見て驚いていたが、イトマキを見ている時に稲村米子の中に不思議な近親感が生まれていた。
「あの・・・。」
米子は一般病棟の精神科医に尋ねた。
「私も伊東先生に一度診ていただきたいんですけどよろしいでしょうか?」
米子はイトマキにならあの時のことを話せそうな気がしていた。米子はまだあの時のことを誰にも語っていなかった。一生、自分の中で隠し通すつもりであったが、イトマキなら信じてくれるのではないかと、ふとそう思えたのだった。




