43/歓迎会
イトマキがやってきた頃は、まだ桜の蕾は寒さで身を縮こまらせていた。
そしてしばらくした今日、桜の蕾は暖かな春の陽気にその身を柔らかくほころばせていた。
桜の花が咲きかけのところを見ながら岩見が職場に着くと、なぜか泥だらけで桜の花びらを髪に飾ったイトマキが泣きそうな顔をしていた。それとは正反対に、その周りを取り巻く女性看護師たちは大笑いしていた。
「どうしたんだ・・・、イトマキ?」
岩見がイトマキに問いかけると、イトマキはすがりつくように岩見に言った。
「犬が、犬がおおおお襲いかかってきて、そそそそれでヘビがヘビが!」
「精神科医ならもっと状況をちゃんと整理してから話せ。」
そんなやりとりを恰幅のいい女性の看護師長が見て笑っていた。
「もう、イトマキ先生ったら大げさなんだからー。」
看護師長はイトマキの代わりに岩見に事の顛末を笑いながら語った。
「実は今日、ここに来る前にイトマキ先生と一緒になってね、そしたら散歩中の可愛いチワワちゃんがイトマキ先生になついてね〜。なのにイトマキ先生ったら顔を真っ青にして悲鳴あげながら藪の中に飛び込んでいったのよ。そうしたらまた悲鳴を上げて、今度はなにかと思ったら、先生が『ヘビ、ヘビ・・・』って腰抜かしてるから見てみたら、なんてことない、ただの太めの紐だったのよぉ〜。」
看護師長が話し終わると、イトマキ以外の周りは大爆笑だった。ひとり取り残されたイトマキはいじけるように
「あれは犬に襲われたし、ヘビっぽくて怖かったんですもん・・・。」
とつぶやいていた。
何か過去に犬とヘビに対してトラウマがあるようだったが、岩見にはそういうことは畑ちがいであるし、第一精神科医なのに自分のトラウマを治せないのは医者の不養生というやつではないかと考えていた。
看護師長はテキパキとイトマキに着替えを用意し、今着ている泥だらけの服はすぐ近くにクリーニング屋に持っていくようイトマキに指示し、イトマキは頭に桜の花びらを付けたまま更衣室へ行った。今日は歓迎会のため、良い服を着てきていたのだろうが、ドロのせいで台無しになっていた。
やがて緑色の術着と白衣を着たイトマキが現れ、外を警戒するように汚れた服を持ってソロソロと外のクリーニング屋へ向かっていった。
ナースセンターは未だに爆笑の渦に巻き込まれている。
やがて、歓迎会の時間になり、会場には非番の者が多く集まり、イトマキの歓迎会を催していた。イトマキの服はあれからクリーニングに出したもの1日では間に合わなかったため、一旦服を着替えに家に戻ってやってきた。
看護師や看護師長はイトマキを取り囲み、朝の出来事をつまみに盛り上がり、イトマキは恥ずかしそうにしていた。これでは歓迎会というより晒しあげ会に近い。
イトマキはとうとうたまらなくなり、看護師達の中から抜けだして岩見と豊平のところへやってきた。
岩見はだいぶほろよいになっており、よねちゃんがよねちゃんがと、豊平をからかっていた。
こちらにイトマキがやってきたのに気がついた岩見はとても嬉しそうに手招きし、自分の横へ座らせた。
「あのさーあのさー、俺ね、俺んちね、3歳の子供がいるんだけどさ、それがもうすごく可愛くて、絶対イトマキに見せても可愛いって言うと思う!」
岩見の言葉は若干語彙がおかしくなっていた。そして満面の笑みで娘の写真を見せた。
そこには遊園地のキャラクターのカチューシャをかけた3人が写っている。
優しげでブラウスとフレアスカートを着た細身の奥さん、そして糊の効いたストライプのシャツにチノパンを着た岩見、そして岩見に肩車される3才児の岩見の娘が写っていた。
「わー、本当にかわいいですねー!」
イトマキは半分お世辞、半分本気で岩見の娘を褒めた。そして、その写真の家族の風景が羨ましくて少し切なくなっていた。
「だろだろ?それでねそれでね」
岩見が更に何か言おうとした時、看護師長がイトマキの側に近づき、袖を引っ張った。
「ほら、岩見先生なんかにかまってないでこっちこっち!」
この調子では岩見が永遠愛娘のことを話し続けることを知っての配慮なのかと思い、イトマキは看護師長に素直に着いって言った。
話を遮られた岩見はぶすぶすとくすぶり、隣の豊平は苦笑いをしていた。そこへもう1人、招かれざる客がやってきた。先程まで会場の隅でひとりくすぶりながら飲んでいた古参の精神科医の島松だった。
島松はだいぶ顔を赤らめ、苦い顔をしながらおぼつかない足取りで岩見の横へ座った。
島松の思わぬ行動に、岩見の酔いは一気に覚めた。
それもそのはず、今までプロジェクトでただひとりの精神科医だったお山の大将の島松が、たかが小娘にその座を追われかけてひどく拗ねているからだ。
PUCSプロジェクトで精神科にイトマキが加わり、これで二人になった。
島松の診療方針は患者の両親に薬を処方し、話も長くて5分聞くくらいだった。
イトマキは島松の治療方針のサポートとして、患者の親のカウンセリングを受け持つことを提案した。
最初、島松はイトマキのところに誰も来ないだろうと鼻で笑いつつもその提案を受け入れた。
そして、島松が患者の親に処方箋を出した後、隣のイトマキにカウンセリングを受けるよう薦めた。最初は両親や親たちは島松の指示で、しぶしぶイトマキのカウンセリングを受けにいっていた。
だが自体は徐々に逆転しはじめた。いつの間にかイトマキのところには患者の親たちの長蛇の列ができ、島松のところでは閑古鳥が鳴いていた。患者の親が来たとしても、イトマキのカウンセリングのついでに処方箋をもらいにくるだけだった。それもいつも沈痛な面持ちだった親たちがイトマキのカウンセリングのあとで晴ればれとした満足そうな顔をしてやってくるものだから、島松の腹の中は煮えくり返っていた。
イトマキのカウンセリングは看護師達の中でも話題に上り、さらには島松と接する機会もイトマキのおかげでだいぶ減ったたためにイトマキの株はさらに上がっていた。イトマキ本人は特に鼻にかけるわけでもなくただ普通に仕事をしていると言っていた。
岩見はイトマキが島松にいびられて泣かされるかと思っていたが、島松がイトマキに泣かされるハメになるとは思ってもみないことだった。
イトマキの側にいる看護師から岩見が聞いた話では、イトマキのカウンセリングはまずはただ聞くだけ。それも何度も何度もである。それからたまにイトマキが患者にどうでもいい世間話をするのだが、その拍子に患者の親は大泣きし、泣き終わったあとはスッキリした表情で診察室を出るのだそうだ。ある親は、イトマキが最近になってようやく桜の花と梅の花の違いに気がついたと言ったら、親は大笑いし、それから急に大泣きをしたという。
どうやら悩みをしっかり聞いて信頼関係を築き、さらには相手の緊張をほぐすことで心の負担を薬をあまり使わずに軽減しているのだろう。
看護師たちも、イトマキのその話をしっかり聞く姿勢と、何度も同じ話を聞かされても注意をしない、そして緩急のある話やアドバイスがすごい!と言っていた。
もちろん外科医である岩見ですら、患者の長い話を聞いたり、同じ話を何度も聞くのは苦痛なので、イトマキのその治療方法に頭が上がらなかった。
もちろんその話は自然とPUCSプロジェクトの他の科の医師の耳にも入るようになっていた。
島松は面白く無さそうにウイスキーをロックで飲んでいた。岩見は島松の存在を無視しようとしたが、島松がイトマキを一瞬横目で見た後、岩見にいやらしい目で笑いかけた。年は50を過ぎているのにまだまだ精力旺盛そうなそのいやらしい顔が岩見はなんとなく嫌いだった。しかもそのわりにはハゲるでもなく髪に白いものが混ざっているが地毛でふさふさなのである。
「岩見ぃ・・・。俺さ、伊東のこと思い出したんだよ。」
嬉しそうに舌なめずりする島松に、岩見は気持ち悪くなって鳥肌がたった。そんな岩見のことはよそに島松は話し続ける。
「伊東はもしかしたらPUCSだったかもしれないなぁ・・・。」
その言葉に岩見も隣で聞いていた豊平も目を丸くした。
「いやね、俺がネーベン(研修医)の時によぉ、ネグレクト(児童虐待)で栄養失調で意識不明のガキが来たんだよ。そいつの名前が小林真木子って名前だったんだよ。あんときは確か5〜6歳くらいだったかな?」
「小林真木子?コバマキじゃ呼びにくいな・・・。」
と岩見は豊平の戯言に見当違いのつぶやきをした。
「5〜6歳じゃPUCSには該当しないんじゃないんですか?!」
急に少し大きめの声で豊平が島松に噛み付いた。
「なんだ豊平、下っ端のくせに俺に意見言える立場か?え?」
酔っぱらい独特の絡みと因縁で豊平は発言したことを後悔した。
「あいつはよぉ、今考えたらPUCSと症状がそっくりだったんだよ。脳の活動も活発でぇ、体力の消耗も激しい・・・。重度のPUCSと同じ症状だ。でもよぉ、奇跡的に目、覚めたんだよ。あんときゃ俺たちもそりゃびっくりしたよ。昏睡状態の患者はなかなか覚醒しないからなぁ。まぁ昏睡状態でも希な例だが、重度のPUCSとしても希な例だな。」
「『普通に生活が送れている』ということですか。」
岩見は慎重に言葉を選んだ。
「ああ。重度のPUCSは目覚めても大体夢の世界に帰りだがって自殺したりOD(精神薬の大量服薬)したり、頭おかしくなって今度は精神病院送りだ・・・。今までまともに目が覚めた奴なんていない。」
「それは・・・、イトマキがまだ小さかったからとかじゃないんですかねぇ・・・。」
岩見は相手の逆鱗に触れないように当たり障りなく言った。
「いいや、あいつには何かあったんだ!俺はそうとしか思えない!」
イトマキの弱みを握ったせいか、はたまた精神科医としてひさびさに真面目に物事を考えているせいか、島松の普段眠そうな目は爛々としていた。
「それにしてもよくイトマキのことわかりましたね。」
その岩見の言葉に、島松はいやらしく笑って岩見の肩に手を回した。
「あいつの母親がヤク中で逮捕されて親権放棄して、入院中に知り合いの『伊東』って刑事の養子になったのを思い出したんだよぉ・・・。」
岩見の耳元で話す島松の、加齢臭と酒の混ざった匂いに岩見は気分が悪くなった。
島松の声が小さくて聞き取れなかった豊平は身を乗り出して島松の話を聞こうとしていた。
「なんだ豊平ぁ、そんなに俺の話が聞きたいか?それじゃあれだ、きれいなおねーちゃんのいる店に行くぞ!よねこよねこっていつもいってんじゃねーよ!」
島松は立ち上がり、岩見をまたいで豊平の襟をむんずと掴んで引っ張りあげると、会費を置いて、嫌がる豊平と共に夜のネオン街へと消えていった。
それを何気に見ていた全員が、豊平の無事を祈りつつ、島松がいなくなったことに安堵していた。
やがて宴もたけなわになり、一次会は終わった。
イトマキは屈強な女性の看護師たちに囲まれて、今度は女子会!と看護婦長が言いながらイトマキを連れ去ってしまった。
そして皆各々どこかへ散らばった。
岩見は春の少し暖かい夜道を歩きながら、イトマキのあの無垢な笑顔の裏に壮絶な過去があったことを初めて知った。そしておそらくイトマキ本人もそのことは、誰かから尋ねられない限りは自分からは絶対に話さないだろうとも思っていた。
ふと、ひとり歩く岩見の頬に冷たいものが一粒伝った。
それは雨の前触れなのか、それとも自分の涙なのか、岩見にはわからなかった。




