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河上顕真物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第5話:レジェンドの覚醒

夜十一時。静まり返った東出の自宅の前に、重低音の野太い排気音が響いた。

 ドッドッドッドッ、と腹に響くアイドリング音を轟かせて止まったのは、一台の大型バイクだった。ヘルメットを脱ぎ、夜風に白髪交じりの髪をなびかせた男――北別府は、不機嫌そうに教え子の家のチャイムを鳴らした。

 北別府。かつて広島ライジングドラゴンズの黄金期を支えた伝説のOBであり、現在は東中学校野球部の外部コーチを務める男だ。プロ球団からの熱烈なコーチ就任要請を「もう勝負の世界は疲れた。これからは田舎で、のんびり子供相手に野球を教えたい」と全て断り、隠居を決め込んでいたはずのレジェンドだった。

「夜中に人を呼び出しておいて、冷めた麦茶一杯か、東出」

 居間に通された北別府は、ライダースジャケットを脱ぎ捨て、東出が差し出したコップを睨みつけた。

「すみません、北別府さん。ですが、電話じゃどうしても収まりがつかなかった。あなたのプロの眼で、俺の見たものが幻じゃないと確かめてほしいんです」

 東出の目は、まだ興奮で血走っていた。その様子に、北別府はふんと鼻を鳴らし、畳の上にどっかとあぐらをかいた。

「お前が電話で喚いていた、その一年坊主の話か。耳が完全に聞こえん左腕が、とんでもない球を投げる、と?」

「ええ。今日、俺が直々にブルペンで受けました。スタミナはまだ中学生並み、制球もやや荒い。ですが……あの球の『スピン量』は尋常じゃありません。手元でボールが爆発したかと思うほどホップするフォーシームに、消えるスライダー。とても中学生の投げる球じゃない」

 東出の必死の訴えを、北別府は冷徹なプロの眼で受け止めていた。

「東出、お前も社会人までやった男だ。身贔屓が過ぎるぞ。野球は『音』のスポーツだ。キャッチャーのミットが鳴る音、バットが球を捉える快音、ベンチからの指示。それらが一切届かん男が、どうやってグラウンドという戦場で生き残る? 危険すぎる。大怪我をしてからじゃ遅いんだぞ」

 のんびりやりたい、と語る北別府の言葉は、プロの厳しさを知り尽くしているからこその「現実」だった。障害を抱えながらプロを目指すなど、美談の裏にある血反吐を吐くような地獄を知らぬ者の戯言だ――北別府はそう言いたかった。

 だが、東出が次に放った一言が、レジェンドの動きを完全に凍りつかせた。

「その少年の名前は、河上顕真。……愛媛の独立リーグで三十代後半まで現役を張っていた、あの河上の息子です」

「……何だと?」

 北別府の鋭い眼光が、一瞬にして往年のエースのそれに変貌した。河上。泥臭く、ボロボロになりながらもマウンドにしがみつき、つい最近ライジングドラゴンズに電撃入団を果たした、あの不屈の男の息子か。

「血筋だけじゃありません。アイツは左投げでありながら、打席では両打ちなんです。チーム経験はないはずなのに、バッティングケージに入れたら、相手投手の癖を視覚だけで見抜いて、右からでも左からでも外野の頭を越す打球を連発しやがった。耳が聞こえないんじゃない……あのガキは、音の情報をすべて『超人的な観察眼』に変換して、世界を支配してるんです!」

 東出が、赤く腫れ上がった自分の左手のひらを差し出す。

 中学生の球を受けただけでは絶対にそうはならない、内出血を起こしかけた捕手の勲章。

 それを目にした瞬間、北別府の胸の奥で、数年前に封印したはずの「勝負師の血」が、パチパチと音を立てて燃え上がるのを自覚した。

 のんびりやりたい? 隠居生活?

(笑わせるな……。こんな面白そうな化け物が目の前に現れて、黙っていられるプロOBがどこにいる!)

 北別府は立ち上がり、ライダースジャケットを乱暴に引っ掴むと、不敵な笑みを浮かべて東出を振り返った。

「明日だ。明日の放課後、その河上のガキをマウンドに上げろ」

「北別府さん……!」

「俺が直々に打席に立って、その『無音の観察眼』とやらがプロの技術に通じるかどうか、確かめてやる。もし俺のバットが一度でも空を切るようなことがあれば……東出、俺はこの隠居生活を今すぐ畳んで、あのガキを名球会入りの大エースに育てるために、鬼コーチに戻ってやるよ」

 夜の広島の街に、再び大型バイクの爆音が轟いた。

 去りゆくレジェンドの背中を見送りながら、東出は確信していた。

 サイレントK。あの少年の出現が、のんびり生きていこうとしていた大人の魂にまで、消えない烈火を灯してしまったのだと。

 翌日、東中学校野球部のマウンドで、中学生と元プロの、前代未聞の魂のガチンコ勝負が始まろうとしていた――。

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