第3話 無音の証明
第3話 無音の証明
放課後の東中学校グラウンドには、独特の緊張が漂っていた。
白石ひなたに伴われ、バックネット裏のプレハブ小屋――野球部顧問室の前に立った河上顕真は、迷いのない足取りで扉を叩いた。 中にいたのは、顧問の東出。
かつて社会人野球で名を馳せた捕手で、鋭い眼光は今も衰えていない。 顕真はポケットから一枚の紙を取り出し、無言で机に置いた。
太く、迷いのない筆跡。『野球がやりたいです。ですが、自分は生まれつき耳が聞こえません』 東出の眉がわずかに跳ねた。
耳の聞こえない選手――その前例は、彼の長い野球人生にも存在しない。 野球は情報の格闘技だ。
声の掛け合い、サイン、打球音、連携。
そのどれもが、瞬間の判断を左右する。 どう指導する?
どう守らせる?
怪我をしたら誰が責任を取る? 現実的な困惑が、東出の脳裏を支配した。「……河上、と言ったな」 東出はひなたのスマホに向けて、あえて厳しい口調で言葉を放つ。
ひなたの指が高速で文字を打ち込む。『昨日の返球は聞いている。だがな、野球は肩だけで勝てるほど甘くない。声が聞こえないというのは、グラウンドでは命取りだ。私は、お前を預かるわけにはいかない』 冷徹な正論。
普通の少年なら、ここで折れる。 だが――顕真は違った。 顕真はフッと鼻で笑い、東出の目を真っ直ぐに射抜いた。
そして、自らの胸をドスッ、ドスッと拳で叩く。(声なんて要らねえ。俺の左腕が、全部証明する) 言葉はなくとも、顕真の体から立ち上る“本物”の気迫に、東出は思わず息を呑んだ。「先生!」 沈黙を破ったのは、ひなたの鋭い声だった。「耳が聞こえないからって、この人が諦めるわけないです! だったらテストしてください! 本当に通用しないのか、先生が確かめればいい!」 ひなたの必死の訴えに、東出は腕を組んだまま顕真を睨みつける。
数秒の沈黙。
やがて、観念したようにニヤリと笑った。「……面白い。そこまで言うなら、俺が直々に見てやる」 東出は棚から色褪せたミットを取り出し、立ち上がった。「ついてこい」 夕日に染まるグラウンド。
野球部員たちが遠巻きに集まり、ざわめきが広がる。「昨日のアイツだ……」
「マジで投げるのか?」 顕真はマウンドへ歩み、プレートを踏みしめた。
十八メートル先、東出が現役時代さながらの構えでミットを据える。 顕真は深く息を吸った。
世界が静寂に沈む。
東出のミットの中心だけが、異様なほど鮮明に浮かび上がる。 左腕がしなる。
テイクバックからリリースまで、球筋が一切読めない“球持ち”。
そして―― シュラァァァァァッ!! 白球が夕闇を裂き、一直線に伸びた。 東出が全盛期の勘でミットを動かした、その瞬間。 バシィィィィンッ!!!! 教官室のガラスが震えるほどの衝撃音。
東出の身体がわずかに後ろへ弾かれ、ミットを持つ腕が痺れで震える。「……中学生の球じゃねえ……」 部員たちが息を呑む。
顕真は無表情のまま、ただ東出を見つめていた。 東出は痺れる手でボールを取り出し、顕真へ放り返す。
その顔には、久しく忘れていた“野球人の笑み”が戻っていた。「……おい河上。耳が聞こえんのが、なんだって?」 東出は親指を突き立てた。「お前の声、今、確かにこのミットで受け取った。文句なしだ。今日からお前は――東中野球部のエースを目指せ!」 ひなたがスマホを構えるより早く、顕真は東出の表情だけで全てを理解した。 顕真の唇が、不敵に吊り上がる。 無音の怪物が、ついに公式のグラウンドへ踏み出した瞬間だった。




