異界の狗 Ⅲ
履き込まれたワークブーツを脱ぎ框に上がると、手探りで壁面のスイッチを点けた。
白熱電灯に照らされた廊下は、妙にツーンとしたかび臭さが鼻に付く。
廊下をのそのそと進み、居間に入る手前で、ナップザックを放り投げた。
ザックが畳にドスンと落ちた拍子に、ほんのりと埃が舞う。
二カ月半ぶりの帰宅であった。
桜井は、そのままソファーに腰を落とした。
三カ月前、地獄から戻されてからというもの、心の裏側に、べっとりとタールが塗られたように気分が重く、沈んでいる。
桜井は、絵里が身代わりと知ってから、絵里が地獄に堕ちる悪夢を見るようになった。
身体を喰いちぎられ、たとえ頚一つ、血肉一片となっても朽ちることの無い地獄。
その魂は苦しみもがきながら、永遠に地獄を彷徨い続けるのである。
絵里を、この不条理に、巻き込むわけにはいかない。
そして、他の誰も・・・
この不条理は自分で終わらせる、そう覚悟した桜井だったが・・・。
このまま戦地の骸になってしまえば気が楽だったのだが、飛び交う弾丸の前に身を晒してもかすり傷一つ負わず、地雷原の上を歩いても地雷を踏むこともない。
桜井はあと九カ月、何処にいようと、何をしようと、暗闇の向こうに存在する邪悪な力に護られ、自ら命を絶つこともできないのである。
自分は、いずれ、地獄に堕ちる身、
絵里の幸せのために、別れを告げなければならないのか・・・
・・と、携帯電話が鳴った。絵里からである。
絵里は、桜井が帰国する前日、イギリスに発っていた。
「無事、帰ったのね。」
「あ、あぁ・・・。」
「どうしたの? 何かあったの?」
絵里は、普段と違う桜井を敏感に察知した。
「いや、なんでもない。少し、疲れているだけだよ。」
と、桜井は気取られまいと装う。
「そう・・・あまり無理しないようにね。」
「あぁ・・・。」
「あなたに、話しがあるの。今度、いつ会える?」
「話し? 電話じゃ、だめなのか?」
「直接会って、話しがしたいの。」
「そうか・・実は・・・」
「どうしたの? あなたも、何か話しがあるの?」
「いや、いい、いいんだ。」
「そう・・・」
「明後日、取材で長崎に発つ。一週間後には戻るが、それでいいかな。」
「えぇ、いいわ。私は三日後に帰国したら、しばらく搭乗勤務は無いから。」
「分かった。長崎から戻ったら、連絡するよ。」
と、絵里との通話は切れた。
「はぁ―」
桜井は、悄然として、深く、溜息をついた。
壁掛け時計は、午前一時丁度を指している。
『くそっ! 俺は、死にたい時に、死ぬことも出来ないのか!』
桜井は自分の運命を呪った。
車のキーを手に、時代物のジープに乗り込みスタートさせた。
ウインドウを全開にし、巡礼街道を思い切りアクセルを踏み込み、猛スピードで突っ走る。
巡礼街道は、一年中多くの参拝者が訪れる、救世観音を祀る古刹に通じる直線道路である。
古刹は、霊験山という山の麓にあり、山道は霊験山を上り下りしながら、ぐるっと廻り、隣接する町に通じる十キロほどの道程である。
山道を、タイヤを鳴らしながら、四キロほど走行した辺りだった。
突如、カーブの向こうから現われた対向車の高輝度ライトに、眩惑されたのである。
「ちっ!」
桜井は、咄嗟にブレーキを踏み込んだ。
車は、砂利敷の上をズルズル・・と滑り、止った。
「ふぅ・・・」
其処は、駐車場だった。旧式のディーゼルエンジン音が、静寂の闇に響く。
「こんなところに・・・」
正面に、薄暗い赤色の光を発する看板が見える。
「ヘリ、マート、酒・・・」
と、黒い文字が浮き出ている。
どうやら、酒を扱う店らしい。
桜井は車のエンジンを切り、重いドアを開け降りた。
道から少し入り込んだだけの場所のはずなのだが、深い闇の中にでも居るように、道はおろか、木立の影すら見えない。
まだ、秋の声を聞いたばかりだというのに、真冬のように冷たい気が頬を撫でる。
桜井は、思わず、ブルゾンの襟を立てた。
店の入り口を見れば、赤い扉が、ボーっと妖しい光を発している。
その前には、白いスポーツタイプの車が駐まっている。
桜井は、入口に向かって歩き出し、赤い扉の前に立つと、ゆっくりと押し開けた。
店内は黒一色、天井には長尺の蛍光灯が一本、くゆるように光を発し、
コンビニほどの広さのフロアの壁面には、ぐるりと、天井まである四段構えの棚に、ぎっしりと大小、様々な形の酒瓶が置かれている。
フロアの中央には、幅三尺あまり、目線の高さほどの、三段の階段状の棚が四本、奥のスイングドアの手前まで置かれ、其処に、これも大小、様々な形の酒瓶が整然と置かれている。
桜井はフロアに足を踏み入れ、手前の階段状の棚に目を向けた。
良く見ると、黒檀のような素材の棚には、複雑な紋様が施されている。
棚に並べられている、大小、様々な形の瓶に貼ってあるラベルの銘柄、文字は、桜井が見たことのない代物だった。
すると、奥の方から人声がする。
「すげえや、何でもあるぜ。見ろよ、お前の好きそうな酒もある。」
桜井は、声のする方に視線を移した。
奥の壁面の棚の前で、細身で長身の若い男が、もう一人の同じ年頃の小柄な男に話しかけている。
細身で長身の男が桜井に気付き、鋭い目つきでじろっと睨み付けた。
小柄な男は振り返り、桜井に、不安げな表情を見せた。
「試飲してみようぜ。」
細身で長身の男は、酒瓶二本を手に言った。
「さぁ、こっちだ。向こうに試飲できるところがある。」
細身で長身の男が小柄な男の背中を酒瓶で小突きながら、二人はスイングドアの向こうに消えた。
『試飲か・・・』
桜井は大して気にも留めず、奥の壁面の棚に歩みを進めた。
壁面の棚も素材は黒檀のようで、同じような複雑な紋様が施されている。
その棚は中近東地域産の酒が並ぶ棚なのか、そのうち、三つか四つくらいは桜井が知る銘柄がある。
「この棚にある酒は、全て中近東産でしてな。」
唐突に、背後からいがらっぽい声が聞こえた。
「えっ?」
振り返ると、白髪縮毛の、鷲鼻で深い皺の頬に、ギロリとした目の男が立っている。
「して、隣りは中国産、その隣りは南米産、アフリカ産、向こうの棚は北欧産、南欧産、ロシア産という具合に、此処にある酒は、世界中から集めたものでしてな。」
「世界中から・・どうやって?」
「彼方此方に、いろいろ伝がありましてな。」
「伝、ですか・・・。」
桜井は、中近東産の酒類がある棚に向き直り言った。
「中近東産の酒に、興味がおありで?」
「えぇ。現地に行くと、よく飲むものでね。」
「へぇ―、お仕事かなにかで、よくあちらに行きなさるので?」
オーナーは、びっくりした表情を見せた。
「今日、パレスチナから、戻ったばかりです。」
「そりゃ、まぁ! 実は、私は以前、中近東周辺に住んどったことがありましてな。」
「ほう、どの辺りに?」
「イラク、ヨルダン、イラン、サウジアラビア、それにイスラエルを転々としとりました。」
「やっぱり、仕事で?」
「いやいや、とんでもない。
若い時分に、ひょんなことから向こうに渡ることになりましてな。
渡ってみれば、酒は旨いし、料理も旨い。それ以来、居付いてしまいまして。
向こうの水が性に合ったのでしょうな、きっと。」
「ふむ、なるほど・・・。」
「とはいうものの、もう歳も歳ですし、さすがに落ち着きたくなりましてな。
一年前にこっちに戻り、趣味でこの店をはじめたというわけです。」
「えっ、趣味で?」
「此処は、試飲専門の店でしてな。酒好きの皆さんに、世界中の美味しい酒を飲んでいただきたいと思って、はじめた店なのです。」
「なるほど・・・。」
道理で、値札はなく、レジスターも置いていないわけである。
「それにしても、中近東滞在経験といい、酒の趣味といい、そちらとは、ご縁がありそうですな。」
オーナーは不気味に嗤いながら、桜井の顔を覗き込んだ。
「ところで・・・お見受けしたところ、何か、お悩みがあるようですな。」
オーナーは唐突に言って、ニヤリとした。
「えっ?」
と、桜井はオーナーに怪訝な表情を見せた。
「まぁ、そんな気がしましてな。」
オーナーは言って、またニヤリとした。
「ふむ・・・人様に話したところでね・・・」
桜井はそう言って、視線を落とした。
「え~ぇ、分かりますとも。人には、自分ではどうにもできない運命というものがありますからな。」
オーナーは目をギロリとし続けた。
「いかがですかな、力づけに一杯。
これも何かのご縁、あなたのような悩める方に、是非おすすめしたい酒があるのです。」
「すすめたい酒? 試飲ですか?」
桜井は、二人の若い男のやり取りを思い出した。
「えぇ、きっと、ご満足いただけますよ。」
そう言いながら、オーナーは、平手でスイングドアを指し示し、誘っている。
「先客が、いるのでは?」
「あの方たちは、試飲を済まされて、つい今しがたお帰りになりましたよ。」
「えっ、そうなのですか・・・」
奇妙なことに、あの二人がスイングドアの向こうに消えてから、それほど時間が経過していない。
「え~ぇ、とっくに。」
と、オーナーは、再三、平手を差し出し、どうぞと誘う。
「・・じゃぁ、ご相伴に預かりますか。」
桜井は、軽い気持ちで応じた。
オーナーはニヤリとして桜井を見やると、すーっと扉の向こうに消えた。
スイングドアを入ると、其処は、畳十畳ほどの広さの、床から壁面、天井まで黒一色の薄暗くひんやりとした空間だった。
桜井は思わず、ブルゾンの襟を窄めた。
部屋の真ん中には、五芒星のようなマークの上に、黒塗りの四角いテーブルと椅子二脚が対面で置いてある。
テーブルの上には、酒瓶二本とグラスが二つ・・・。
オーナーは、テーブルの前で待ち構えている。
「さぁ、こちらがおすすめの酒でございますよ。」
「何という酒で?」
「これは、ですな・・・」
と言って、オーナーは思わせぶりに桜井に視線を向け、続けた。
「命の水 と言いましてな。
そんじょそこらでは、お目にかかれない代物でしてな。その美味たるや、一度味わうと癖になる、そりゃ、味わい深い酒でしてな。
もう、どんな悩みでも吹き飛ぼうというものです。」
オーナーはいやらしく嗤った。
「命の、水・・・」
その言葉を聞くや、桜井は拳を握りしめた。その表情は怒りに満ちている。
「貴様は、あの時の・・・」
「あの時? おぅ、そうか!」
と声を上げて、オーナーは、パンッと、かしわ手を打った。
「あなたは、勘違いをされている。あそこは、五番目の入口、此処は九番目の入口でしてな。」
「五番目、九番目・・・」
「え~ぇ、このような入口は、十三ありましてな。此処は、その中の九番目の入口なのですよ。」
「ま、まさか・・こんな入口が、十三も・・・」
桜井が驚愕し、慄然とする前で、オーナーは不気味に嗤いながら酒瓶を手に取り、グラスにコクコクと水を注ぐ。
「俺に、飲めと言うのか、その水を。」
桜井は表情を強ばらせ、吐き出すように言った。
「これは、また異なことを。
さっきまで、あんなに、お飲みになりたいご様子でしたのに?」
と言って、オーナーは、桜井の前にグラスを手押しした。
「しらじらしい事を言うな。俺が知らないとでも思っているのか。」
「しらじらしい、こと?」
「二人とも水を飲まなければ、地獄に落ちるのは誘う方の人間だけだ。
それが分かっていて、俺が水を飲むわけがないだろう!」
桜井は、がなり立てた。
さっきの小柄な男は、連れの男の身代わりだった。
そして、二人とも水を飲んだ。
小柄な男が生き延びるためには、身代わりを入口に誘い、自らが水を飲み、身代わりにも水を飲まさなければならない。
身代わりは、生き延びるためには水を飲むしかない。水を飲まなければ、二人とも地獄に堕ちるからである。
但し、二人とも水を飲まなければ、誘う人間だけが地獄に堕ちる。
これを知った桜井は、自らを最後に、この不条理を絶つつもりが、この思惑は崩れ去った。
恐ろしい地獄へと通じる入口が、十三もあるとは・・・
この不条理は、永遠に続くのである。
絵里は、また、いつ誰かの身代わりになるやも知れない。
「ひょっ、ほっほっほ・・・ひょっ、ほっほっほ・・・
自分の命より、恋人の命を思うとは、さすがに、わたしが見込んだだけのことはあるお人だ。」
「なにっ・・・」
「主様も、さぞご満悦の事でしょう。」
「貴様、何を言っている・・・」
いきなり天井が突き抜け、灰色の靄が立ち込めはじめたのは、その時である。
靄は、不穏にうねりながら壁面全体に伝わり、空間は靄に包まれた。
いつの間にか、スイングドアは消え、オーナーは姿を消している。
「こ、これは、・・・」
桜井は、あの時の靄の渦を思い起こしていた。
靄は、見る間に、天井から壁面に至るまで、たっぷりと水の入った水槽に墨を流し込んだかのように、漆黒の闇を形成していく。
と、漆黒の闇の中を、何ものかが右に左に素早く動く気配がする。
「あっ!」
桜井は、テーブルにしがみ付きへたり込んだ。
幾つものおぞましい貌が、空間上に押し付けられたのである。
その様子は、さながら、ガラス戸にへばり付く巨大なナメクジのようであった。
貌は薄汚い灰黒色、濁った黒目は大きく見開き、唇は下卑にめくり上がり、鼻が崩れかけた化け物だった。
化け物は口をぱくぱくさせ、目を忙しくギョロ付かせていたが、桜井を認めると苦悶の表情を見せ、靄の中に消えた。
「あの、化け物は・・・」
「くっくく・・・あれは、もとは人間でしてな。言うなれば獲物の、生き残りの成れの果て、とでも言いますかな。」
と、オーナーは何処からともなく姿を現わす。
「獲物の、成れの果て、だと・・・」
桜井の表情が歪む。
「地獄の恐怖の中で、何十年も逃げ回っていれば、皆、ああなるのです。」
「じごく・・・」
「えぇ。と言っても、地獄の餌場、ですがね。」
「えさば・・・」
「此処で、魔物の餌になるのですよ。」
「うっ!」
あの化け物が、再び、壁に醜い貌を押し付けてきた。
今度は、怯えた表情を見せながら、桜井に視線を向けた。
桜井には、その表情が救いを求めているように見えたが、すぐさま苦悶の表情に変わり、再び靄の中に消えた。
「彼らも、いずれ魔物に捕まり、頭から足の先まで全て喰い尽くされるのです。
そうして逃げ回るほど、喰われた後のその魂は、無間の地獄といわれるおぞましい空間に追いやられ、永久に苦しみもがくのですよ。」
「無間、地獄・・何故、こんなことが・・・」
「すべては、現世と地獄界との秩序を保つため、でしてな。」
「秩序を保つ、だと・・・」
天井を見上げれば、靄が引きはじめ辺りは妖しく変化していく。
「さぁ、愈々ですよ。」
オーナーは薄気味悪く嗤った。
桜井は息を荒げ、のそのそと立ち上がった。
ふと見れば、辺りは暗闇の世界が広がり、天上は妖しく烟る赤黒い斑状の靄に覆われ、ぐるぐると回りはじめている。
地表のあちこちで、埋火のような燻ぶりが見え、
埋火の上で、何かがもそもそと蠢く影が、遠く向こうには、小高い丘のような影がいくつも見える。
突如、ポットンという、深井戸に石塊が落ちたような音が響き、何処からともなく、幾つかの厳つい巨躯の影が現われ出でた。
埋火をかき分け、地中からも、幾つもの巨躯の影が土蜘蛛のように這い出し、辺りをふらふらと徘徊しはじめる。
その巨躯の影は、時折、身体を折り曲げ何物かを掴み上げ口に運んでいる。
隣辺では、坐り込んだ巨躯の影が、何物かに手を伸ばし引き寄せ、むしゃむしゃと頬張っている。
唐突に、拳骨ほどの無数の灰色の塊が、尾を引きながら空間を縦横無尽に飛び交いはじめた。
灰色の塊は、尾の筋を残しながら、異常に早く、上へ下へ、右へ左へ、果たして斜にそして弧を描くというように、有り得ないほどトリッキーな動きをしている。
灰色の塊の一つが、坐り込んでいる巨躯の頭部と思しきに衝突し、ズボッという低い音を発して破裂した。
光を発するくすんだ緑色の液体が辺り一面に迸り、巨躯の容姿が顕わになった。
其れは、全身に崩れた醜い疣があり、頭は不揃いの柘榴のような姿をした一眼の魔物であった。
人間のように、二の腕二の足はあるものの、四足の巨獣が立ち上がったような体躯をし、
耳、鼻梁はなく、頭の側面に抉れた穴、顔面の真中に歪な穴二つ、口は人の頭を丸呑みできるほど大きく裂け、口中には、鮫の歯のような鋭利な歯が密集している。
灰色の塊は、魔物、地表、小高い丘に次々と衝突し、
その度にズボッ、ズボッと低い音を発し破裂、発光し、この空間の正体を暴いていく。
「あぁぁ・・・酷すぎる、何という、ことだ・・・」
魔物は、人間を喰らっていたのである。
だが、魔物は、決して一挙に食い尽くそうとはしない。
地表で蠢いていたのは、引きちぎられ、血だらけになった人間の腕、脚、胴体、頚・・・
それらが、そこらじゅうに、ごろごろとしている。
腕は、その手を動かしながらもぞもぞと動き、脚は、膝を折り曲げながらごそごそと動き、辺り一面にばらまかれた肉片、臓肉片は、地を這う虫けらの如くに蠢いている。
口をぱくぱくし、目をきょろきょろとさせている頸もある。
魔物に喰われた自分の胴体、腕脚を探しているかのようにも見える。
「此処では、たとえ肉一片になっても朽ちることがないのですよ。
此処の腐った大気に晒されるほど、肉の旨味が増すというものでしてな。
ほれ、あれは、つい昨日堕ちてきた餌ですよ。」
オーナーは、地表を這い蹲る物体を指差した。
それは、坐り込んでいる魔物の膝元を、もぞもぞと進んでいる。
と、魔物がそれを鷲掴みし軽々と持ち上げた。
それは、両脚がちぎれた人間であった。
魔物は餌の右腕にかぶりつくと、ぐいと捻り引きちぎった。
そして、胴体をそこいらへポイと捨てる。
胴体は、片側の足をもがれた昆虫のように、左腕をバタつかせながらのた打ち回っている。
今度は、別の魔物が、のた打ち回る胴体をひょいと持ち上げ、腹を臓肉ごと喰いちぎり、小高い丘に向かって放り投げた。
頸と左腕の付いた胴体は、無重力の空間の中にあるように、小高い丘に向かって流れていく。
『酷い・・・俺はこの地獄に堕とされ魔物の餌食となり、魂は永遠に苦しみもがき続けるのか・・・』
桜井は、恐怖と絶望に打ちひしがれた。
「なにっ・・・」
辺りをふらついていた魔物が、下品な唸り声を上げながら、桜井のいる空間に向かって謂集してくる。
「な、なんだ! 何故、来るんだ!」
桜井は、テーブルにしがみ付き叫ぶ。
「うっふふふ、どうやら・・うふ、うっふふふ・・・」
オーナーは頷き、含み嗤う。
「どういうことなんだ!」
桜井のいる空間を七体の魔物が取り囲むや否や、空間が萎縮しはじめる。
この空間が、地獄の餌場に呑み込まれようとしているのである。
「やめろ・・・来るな!・・・」
「怖がることはないですよ。声が聞こえたら、ただ返事をすれば良いのです。
そうすれば、あなたは、とりあえずは、戻る事ができる。」
と、オーナーは囁くが、もはや、桜井には聞こえない。
「くっくくく・・・ひょっ、ほっほほほ・・・ひょっ、ほっほほほ・・・」
オーナーの哄笑が、空間中に響く。
魔物のおぞましい貌が、巨躯が、桜井に迫る。
「あっ、あぁぁぁぁ・・・」
桜井の身体は、空間ごと地獄の餌場に呑み込まれた。
「ここは・・・」
目覚めたのは、ソファーの上だった。時計の針は、午後三時を指している。
桜井は、地獄の入口から戻されたのである。
突然、フラッシュバックのように、地獄のおぞましい光景がよみがえる。
妖しく烟る赤黒い斑状の靄に覆われた天上、人間を喰らう魔物、地表に蠢く喰いちぎられた人間の肉片、迫る七体の魔物・・・
おぞましくも惨たらしい地獄の世界を前に、桜井の身体は恐怖に震えた。
二日後、桜井は長崎に発った。
五日間の取材中、桜井は自分に纏わりつく妙な気配に、悩まされる。
それは、戦地で経験した邪悪な力の気配とは性質を異にするものだった。
一週間後、桜井と絵里は、いつもの喫茶店で会った。
桜井はブラックコーヒー、絵里はハーブティーを静かに飲む。
絵里が少し頬のこけた桜井を気に掛け声を掛ければ、桜井は、大丈夫だと無骨に返事をする。
いつもの、光景である。
二人にとって、同じ空間を共有することこそが、この上ない安らぎの時間なのである。
絵里を目の前にして、桜井は別れを切り出すことをしない。
九カ月後には地獄に堕ちる身、恐らく、その時は戦地で迎えることになるだろう。
今別れを告げなくとも、その時、別れは訪れる。
桜井は、独りよがりにそう思った。
「ねぇ、わたしに、何か、話があったのではないの?」
「うん? いいや、話すことはないよ。」
「そう・・じゃ、わたし、からね・・・」
絵里は、意を決して、身ごもっていることを告白した。
桜井が受けた衝撃は、計り知れない。
桜井はそのまま黙って俯き、身体を震わせている。
「もしかしたら、困っている?」
と言って、絵里は物悲しそうな表情を見せた。
「いや、そうじゃない!」
桜井は強く否定した。溢れ出る涙を、抑えきれない。
その涙は、絶望と歓喜が交錯する涙であった。
「絵里、一緒になろう。」
桜井は、躊躇いなく言っていた。
たとえ、我が身が地獄へ堕ち行く運命であっても・・・。
絵里は涙を浮かべながら、静かに頷いた。
七カ月後、桜井は戦地の取材に旅立った。
満面の笑みを浮かべ、生まれて間もない娘を抱きかかえた、一枚の写真を残して。
了




