焼失した真実(ザ・ライター)
1. 闇試合の対価
影浦達也は、雨宮麗から教えられた場所、港湾地区の廃倉庫にいた。むき出しのコンクリートと鉄骨が剥き出しになった空間は、ネオン・ミューズの熱狂の残骸とは違う、純粋な冷たさを持っていた。
倉庫の中には、湿った海の匂いと、古い油の匂いが充満していた。その匂いが、彼の胃の腑を冷たく締め付ける。
闇試合は始まっていた。リングもロープもない、ただコンクリートの床にチョークで描かれた四角い区画。その中心で、神代瞬は、野獣のような唸り声を上げながら、対戦相手を圧倒していた。彼の目には、光を憎む純粋な殺意が宿っていた。
試合後、達也は、傷だらけの神代に歩み寄った。
「神代瞬。私は影浦達也。あなたを、光の舞台に戻したい」
神代は、血の混じった唾をコンクリートに吐き捨てた。
「光だと?俺は、神楽岳の光に焼かれた。光は、嘘しか運ばねぇ。俺の価値は、金だけだ」
「わかっている。だが、私にも金がない。しかし、真実の価値は持っている」
達也は、ポケットに手を入れ、銀製のライターを取り出した。
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達也が差し出したライターを一瞥した神代は、乾いた笑いを漏らした。
「なんだ、その安物。アート屋の感傷か。これを俺への対価にするってのか?」
「違う。これは、私の『信念』の証だ」
達也は、そのライターを、神代の足元のコンクリートに強く叩きつけた。ライターは、甲高い金属音を立てて、床を転がった。
「私の再起に必要なのは、あなたの復讐の炎だ。だが、今の私には、それを買う金がない。このライターは、あなたがかつて神楽岳に裏切られた、あの興行の記念品だ」
「ふざけるな!」
神代は激昂し、達也の胸倉を掴んだ。達也の体は、飢えた狼のような神代の力に、簡単に持ち上げられた。達也は、肋骨が軋むような強烈な痛みを感じながらも、逃げなかった。
その時、闇試合の胴元が、神代に声をかけた。
「おい、神代。一ヶ月だぞ。次の興行まで、この男に構っている暇はねぇぞ!」
その言葉を聞いた達也は、内側から湧き上がる絶望感に支配された。
(一ヶ月?……そうか。私の『SKRIMM』の期限と、神代の次の闇試合の期限が、同じだ!)
「神代!一ヶ月待て!一ヶ月だ!私には、ディスコの賃貸契約の期限がある!お前を連れ出せないなら、私の再起は、ここで終わりだ!」
達也の絶望的な叫びは、神代の心には届かなかった。神代は、達也を突き飛ばし、泥と埃が舞い上がるコンクリートの床に叩きつけた。
「知るか!光の奴らは、みんな約束を破る。帰れ!お前の『光』に興味はねぇ!」
達也は、コンクリートの冷たさを背中に感じながら、一ヶ月という期限と、神代の拒絶によって、完全なるどん底に落ちた。彼の目には、二度目の「焼失」が迫っていた。
2. ライターの真実
達也は、よろめきながら立ち上がり、足元に転がったライターを拾い上げた。
触覚: ライターの冷たい金属の感触が、彼の手に、最後の「現実」を突きつける。
彼は、倉庫の壁に背中を預け、激しい息切れを繰り返した。
(終わりだ。私は、神楽と神代の『光と闇』の対立を見抜いたつもりだったが、結局、最も重要な『時間』を見誤った。明日香との契約は破棄。ネオン・ミューズも失い、また路頭に迷う……)
彼は、自嘲の笑いを漏らしながら、ライターの表面を指でなぞった。
そのとき、指先に微かな引っかかりを感じた。
彼は、ライターの底面を詳しく調べた。それは、非常に巧妙に、銀の細工で覆い隠されていた。達也は、かつて美術品の鑑定士として磨き上げた視覚的な鋭さを、この瞬間、最後の力として発揮した。
彼は、ライターの角を強く押し込んだ。
聴覚: 「カチリ」という、ごく小さな、しかし確かな金属の嵌合音が響いた。
ライターの底面が開いた。中には、丸められた極めて小さな紙片が隠されていた。
達也は、震える指でその紙片を開いた。そこには、達也が贋作アートに騙される直前、ヴィクトル・レイエフが、ギャラリーのオープン祝いだと渡してきた彼のサインが、インクで殴り書きされていた。
(これは、ヴィクトルのサインだ…)
しかし、サインの下には、別の筆跡で、数字と、暗号のような文字列が書き加えられていた。
その瞬間、達也の脳裏の点と点が、一気に線となって繋がった。
贋作アートの真実: 達也を裏切ったヴィクトルは、このライターを単なる記念品としてではなく、何らかの「真実」を隠す道具として渡したのだ。
この数字は、贋作アートの代金が、裏社会の特定の口座に「逃亡資金」として送金された「秘密の証拠」の記録、もしくは「次の贋作」が隠された場所を示す暗号だ!
達也の体中に、熱い電流が走った。彼の喉には、安酒ではなく、確かな血の味が広がるような強い感覚が戻ってきた。
(あの贋作は、ただの失敗ではなかった。このライターが、最後の『真実』を証明する、キーピースだったんだ!)
明日香の言葉が、彼の脳裏で反響した。「そのライター。あなたが大事にしている『信念の光』とやらは、闇では何の価値も持たない」
しかし、今、このライターは、金ではなく、神楽岳の裏の顔を暴く「情報」を掴む鍵となる!この情報は、神代の復讐を果たすための「最高の武器」になる!
3. 再起の創造者
達也は、再び神代瞬の元へ走った。神代は、既に闇試合の胴元と、次の対戦について話していた。
達也は、神代の前に立ちはだかり、血の気の引いた顔に、狂気的な光を宿らせた。
「神代!一ヶ月待つ必要はない。私には、あなたをこの闇から引きずり出す、最高の対価がある!」
達也は、ライターの裏から出した紙片を、神代に見せた。そして、あのライターに隠されていた真実、そして神楽岳の過去の裏取引の疑惑を、早口で、しかし論理的に語り始めた。
神代の光を憎む瞳に、驚愕の色が浮かんだ。彼は、達也の言葉の一つ一つを、信じられない、しかし真実だと理解するしかなかった。
「その情報が真実なら、俺は闇試合どころじゃねぇ……。神楽の野郎を、地獄に引きずり下ろす」
神代は、達也の目を見た。その目に宿る光の強さは、もはや落伍者のものではなかった。それは、偽物のアートに全てを奪われた男が、本物の情報という『価値』を手に入れ、復讐と再起という名の新しい『美』を創造しようとする、創造者の光だった。
「神代。私と一緒に来い。私の『SKRIMM』は、あなたの復讐の舞台だ。ここで泥にまみれて消耗するのではなく、あの光の中で、神楽に最大の泥を浴びせよう」
神代は、長い沈黙の後、泥と埃にまみれた右手を、達也の目の前に差し出した。
「わかった。影浦達也。 お前の『SKRIMM』に、俺の魂を預ける。だが、もしお前が光の嘘を吐いたら……その時は、お前の命を対価にする」
達也は、その神代の荒々しい、しかし確かな温もりを持つ手を、力強く握った。
【
一ヶ月の期限は、一晩にして解決した。影浦達也は、最大の難題であった「選手」を、最高の形で手に入れた。彼は、神代という『泥』と、ネオン・ミューズの『光』を組み合わせることで、神楽岳が予見できなかった「新しい価値」を生み出す。
彼は、ネオン・ミューズの裏口で、黒いケープの女、明日香と再会するだろう。そして、彼女に「闇と光、すべての真実」を話し、二人は共に、プロローグで描かれた「光と暴力の錬金術」の世界へと足を踏み入れる。




